{"help": "https://data.bodik.jp/api/3/action/help_show?name=datastore_search", "success": true, "result": {"include_total": true, "limit": 100, "records_format": "objects", "resource_id": "762868db-7881-47c3-a8a8-5bad4cec7b72", "total_estimation_threshold": null, "records": [{"_id":1,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"願心寺本堂","名称_カナ":"ガンシンジホンドウ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市庄内町12467","緯度":31.77250215,"経度":131.0228066,"文化財指定日":"2004-03-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/8f1b96ca-8e12-4023-9616-92e3477c5e5c","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"本堂は、明治33年(1900)に起工し、明治39年(1906)に竣工しました。平面形は浄土真宗の基本平面を踏襲しつつも、単層入母屋造妻入(たんそういりもやづくりつまい)りに向拝単層入母屋屋造(こうはいたんそういりもやづくり)を平(ひら)に寄せた屋根型は、県内唯一のものです。寺院建築にはめずらしく、ガラス窓を用いていることも特徴です。平成5年から平成6年にかけて大修理を行っています。","備考":""},{"_id":2,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"願心寺山門","名称_カナ":"ガンシンジサンモン","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市庄内町12467","緯度":31.77250215,"経度":131.0228066,"文化財指定日":"2004-03-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/455d8d26-8217-4286-834a-e110e2b03365","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"山門は、大正8年(1919)に起工し、大正10年(1921)に竣工しました。袖柱(そでばしら)4本が腰長押(こしなげし)部分で四方転びとなり、銅板葺入母屋造(どうばんぶきいりもやづくり)の上部構造の荷重を安定して支えているのが特徴です。門の左右には築地塀(ついじべい)が付けられ、豪華な屋根仕舞とともに堂々とした雰囲気が感じられます。","備考":"　"},{"_id":3,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1003,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"旧後藤家商家交流資料館本館","名称_カナ":"キュウゴトウケショウカコウリュウシリョウカンホンカン","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"旧後藤家商家交流資料館","住所":"宮崎県都城市高城町高城2857","緯度":31.80199713,"経度":131.1313411,"文化財指定日":"2007-07-31","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/1ab7cdfb-7e98-4e74-93ac-1e8a1333f16b","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"海運業で財を成した後藤五市の三男にあたり、干拓事業や養蚕業の振興に努めた後藤伊助とその息子後藤五兵衛が建てた家です。明治33年頃の建築と伝えられています。最初は生糸の集荷とその関連商品の販売が中心となっていたと考えられ、後には油や醤油などの生活用品なども販売されていました。そのため、近年まで「醤油屋(しょいや)」と呼ばれていました。木造2階建て、外壁は漆喰(しっくい)で固められ、ひさしが複雑に幾層にも重なります。内部には通り土間、周り土間が設けられ、直接2階へ物が上げられるように土間から上る階段が造られています。また、道路に面した店の正面は全面に開放される上げ戸になっています。間取りや構造など、明治時代の商家造りをそのまま残した貴重な建物といわれています。現在は、NPO高城歴史文化のまちづくりフォーラムの管理のもと、旧後藤家商家交流資料館として、地域の歴史の展示やさまざまなイベントの会場として活用されています。","備考":"　"},{"_id":4,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1004,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"旧後藤家商家交流資料館石塀","名称_カナ":"キュウゴトウケショウカコウリュウシリョウカンイシベイ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"旧後藤家商家交流資料館","住所":"宮崎県都城市高城町高城2857","緯度":31.80199713,"経度":131.1313411,"文化財指定日":"2007-07-31","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/dbb4a865-84e4-4cbd-8fa9-12d4a176cd99","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"敷地の南辺・西辺・北辺と、東辺の一部を廻る石塀です。基礎石の上に切石4段を積み、頂部に笠石をのせた構造で、高さ1.7m、厚さ0.3ｍ、延長60ｍあります。材質は凝灰岩で、地域的な特色をもった石塀のひとつです。","備考":"　"},{"_id":5,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1005,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅主屋","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウタクオモヤ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/d2dd2867-1444-4e99-ae39-711b79f2b309","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"玄関の屋根は、本屋の軒先より低く、屋根型は入母屋造りである。間口は1間半と一般住宅より広く、主玄関・内玄関を持ち、接客層を区別している。玄関棟から東へ入母屋造りの座敷棟が延び、玄関から続く3室続きの座敷と、廊下を介してL型3室続きの座敷を並べているのが特徴。外観は、ごく普通の民家にみえるが、規模が大きく民家とは違う間取りlこなっている。各部屋は、ほぼ均質な空間が連接する構成だが、特定の部屋の格付けをするため、床の間・棚・書院・納戸構えなどを有し、主室には控えの聞を付属している。また、部材は関東大震災の教訓を生かした仕様と規格で一般住宅より太く、厳選された杉材が使用されている。また、広縁は入縁側で客室より庭園・中庭が望める。主室との境は竹之節欄聞を付けた間仕切りがあり、この間仕切りを境に内装に差が付けられていることが分かる。縁側のガラスも1枚のものに変えられ、障子も雪見障子としている。しかし、昭和29年時点では、ガラス戸も障子も間仕切り以前と同じであることから、昭和48年の昭和天皇御宿泊時の改修に際し、接客の区分をより明確にしたことがわかる。また、縁側に大きい踏み石があるが、これは一枚の大理石であり相当高価なものと考えられる。この付近の玉石には南側の池にすむ「すっぽん」が卵を産みに来ていたという。縁側から南を見ると樹木が茂っているが、昭和天皇が御宿泊される以前はかなり見通しが良かったようである。しかし、天皇陛下警備の必要から、改修時に庭の南側に植栽したため、現状のようになった。","備考":"　"},{"_id":6,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1006,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅離れ","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウタクハナレ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/2e12a16e-ee97-4503-8824-a815032fec9b","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昭和28年3月から母堂が帰宅するのに伴い、増築が行われ、二階部分を設置、翌年3月1日に離れの一部と内蔵部分が完成しました。その後、昭和48年の全国植樹祭に際し昭和天皇の宿泊所として使用されるにともに、増改築が施され、現在の形となりました。","備考":"　"},{"_id":7,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1007,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅内蔵","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウタクウチグラ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"都城島津家で重宝とされる古文書・古記録や刀剣・銃砲類の保存施設として活用されていました。","備考":"　"},{"_id":8,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1008,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅外蔵","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウタクソトグラ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/540d4942-54d6-4574-88a3-0a653fa01aab","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"明治15年に、120円で明治5年築造の土蔵を購入し、移築したものです。多くの古文書・古記録、屏風、甲冑等が収蔵され、史料保存施設として活用されていました。","備考":"　"},{"_id":9,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1009,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅石蔵","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウタクイシグラ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/643c7fcb-f88e-447f-b2e7-516f052f2ea8","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"「都城島津家日誌』には昭和5年12月29日に竣工したと記されています。道路拡張によって解体された農芸館の収蔵品（民具）が収納されていました。","備考":"　"},{"_id":10,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1010,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅剣道場","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウタクケンドウジョウ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/d592d08d-55f4-4a10-a159-e60c6fada752","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"慶応3年（1867）の建築とされています。剣道場として使用されていましたが、後に炭などを保管する倉庫となり「板倉」と呼ばれるようになりました。","備考":"　"},{"_id":11,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1011,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅社","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウタクヤシロ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/f7d124f1-64fd-49d8-8daa-83fd44e11b3e","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昭和10年9月27日に竣工しました。伊勢神宮正殿と同じ神明造（しんめいづくり）で、都城島津家の先祖が祀られていました。毎年、春と秋に御霊祭が行われていました。","備考":"　"},{"_id":12,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1012,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城島津家住宅御門","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケジュウゴモン","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-04-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/722c25c3-49de-4061-8156-ad326dffef03","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昭和10年に建築されました。軒瓦（のきがわら）に都城島津家の家紋が入っています。","備考":"　"},{"_id":13,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":1013,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"旧持永家住宅隠居棟","名称_カナ":"キュウモチナガケジュウタクインキョトウ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市庄内町12625-1","緯度":31.7715057,"経度":131.0207584,"文化財指定日":"2018-05-10","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/8c2cddd5-69cd-44e1-972e-f10027e09139","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"持永家は、上庄内郷地頭(じとう)の三島通庸(みしまみちつね)の求めに応じて庄内に移住した家のひとつで、商家として繁栄を築いた、地元の名士です。隠居棟は、玄関・隠居棟とも入母屋(いりもや)瓦葺き(かわらぶき)で、玄関天井は各縁天井で仕上げ、取り次ぎを経て、茶の間、食堂へと続いています。茶の間の横には、客間のひかえの次の間があります。客間は良質の杉材を使い、長押(なげし)付きの10帖間で、木目のきれいな古木の杉板尺幅で透かしの張り竿縁天井(さおぶちてんじょう)、ドイツ製のシャンデリア、彫刻欄間(らんま)など豪華さを感じさせます。建築年代は持永家に残されていた文書から、明治40年(1907)に建築されたことが分かります。トイレは口伝によると大正期の改築と伝わっています。","備考":"　"},{"_id":14,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":2001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"旧持永家住宅門及び石塀","名称_カナ":"キュウモチナガケジュウタクモンオヨビイシベイ","文化財分類":"登録有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市庄内町12625-1","緯度":31.7715057,"経度":131.0207584,"文化財指定日":"2018-05-10","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/d04b14c1-ec67-4f62-9f18-7f168f1db6c9","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"門および石塀は、敷地の南側東寄りに門を開き、その門から東隅まで約32.5メートル、門から斜路の北東に沿って約29.2メートルの石垣と石塀が回っています。門は高さ約250センチメートルの石柱を立て、間口は約120センチメートルで両開きの板戸扉を設けています。石垣は11段の切石を積み、その上に頂部に笠石をのせた切石4段の石塀をめぐらせています。門および石塀の完成は、門横の石碑から明治45年(1912)に完成したことが分かっています。石工は鳥取県出身の徳永長太郎(とくながちょうたろう)で、明治32年(1899)ごろ前田用水路工事のため、前田正名(まえだまさな)に呼ばれて庄内にやって来た人物です。","備考":"　"},{"_id":15,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":3001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"興玉神社内神殿","名称_カナ":"コダマジンジャナイシンデン","文化財分類":"重要文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市安久町2955","緯度":31.68882727,"経度":131.0927334,"文化財指定日":"1983-06-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/f3d924d3-e5e4-4cd7-9ff6-2f3fb7fe949f","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"創建時の棟木(むなぎ)に応永6年(1399)の銘があり、室町時代に造られたことが分かります。宮崎県内最古の木造建築物です。もともとは正応寺薬師堂の厨子としてつくられ、明治期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のとき、地元の住民らによって神社の内神殿へ転用されたと伝えられています。","備考":"通常は非公開"},{"_id":16,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":3002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"紺糸威紫白肩裾胴丸大袖付","名称_カナ":"コンイトオドシムラサキシロカタスソドウマルオオソデツキ","文化財分類":"重要文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"1994-06-28","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/1f96bde7-9aae-4294-97d1-118f0941f8dd","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"胴丸形式の鎧(よろい)で、鉄・革混じりの小札(こざね)を紺糸・紫糸・白糸でつづり合わせています。表面は漆塗りで高さ82.6センチメートル、胴や袖などの金具に十文字紋が付けられています。元亀2年(1571)10月、島津義久が大隅国の豪族肝付氏を攻略した際、戦功として都城領主北郷時久の家臣津曲兼広(つまがりかねひろ)に与えたものとされます。","備考":"　"},{"_id":17,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":3003,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"朝鮮国書","名称_カナ":"チョウセンコクショ","文化財分類":"重要文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2015-09-04","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/3686baa9-9c7b-4052-adec-ae58cf9856f6","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"弘治13年(1500)正月の年号があり、弘治とは明(中国)の年号で、日本では明応9年にあたります。縦60cm弱、横1mを超えるたいへん大きなもので、現在、日本に残る朝鮮国王の国書としては最古のものです。史料には、「1497年に琉球の船舶が朝鮮の南海域で遭難し、乗組員10名の内、6名は既に病死しているが、4名は生存しているので、貴国に送還する」旨が記されています。平成27年(2015)3月、この史料は国の重要文化財に指定されることになりました。宮崎県内では18件目となり、国重要文化財の中の「歴史資料」という分類において、県内初の指定となります。","備考":"　"},{"_id":18,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":4001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"山之口の文弥人形（山之口麓文弥節人形浄瑠璃）","名称_カナ":"ヤマノクチノブンヤニンギョウ(ヤマノクチフモトブンヤブシニンギョウジョウルリ)","文化財分類":"重要無形民俗文化財","種類":"","場所名称":"山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館","住所":"宮崎県都城市山之口町山之口2921-1","緯度":31.80053567,"経度":131.1688706,"文化財指定日":"1995-12-26","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/db130746-909b-460e-8b3c-f6e16ee1831c","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"山之口町の人形浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれる300年程前(岡本文弥が全盛期)の芸態をそのまま伝承しているところが高く評価されています。太夫の語り調子が文弥調であり、語りの間合いに三味線が入る。人形は文弥節人形初期の「頭差込式」で一人遣いである。舞台の形式は「高幕式」である。浄瑠璃上演の幕間に演じられる「間狂言」が残っている。伝承としては「参勤交代の藩主の道中の徒然を慰めるために操った」とあります。文弥節人形の古形式を保ちながら継承しているところは全国に4カ所しかありません。麓文弥節人形浄瑠璃は江戸時代から明治初期に製作された27体の人形とともに現代に引き継がれている貴重な文化遺産です。","備考":"　"},{"_id":19,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":5001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"今町一里塚","名称_カナ":"イママチイチリヅカ","文化財分類":"史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市今町","緯度":31.6780379,"経度":131.0319706,"文化財指定日":"1935-12-24","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/a921135c-8281-4967-bfc1-eecf29f27e0b","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"旧鹿児島藩の街道(出水筋・大口筋・高岡筋)は、鹿児島下町札の辻(しもまちふだのつじ)を起点とし、それぞれの一里塚の上には里数を記した標木が建てられていました。今町一里塚は高さ270センチメートル、底部径センチメートル。都城と曽於(鹿児島県)を結ぶ今町街道(現、国道269号線)の両側に残されています。一里塚としては、九州でただ一つの国指定史跡となっています。","備考":""},{"_id":20,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":5002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"大島畠田遺跡","名称_カナ":"オオシマハタケダイセキ","文化財分類":"国指定史跡","種類":"","場所名称":"大島畠田遺跡歴史公園","住所":"宮崎県都城市金田町1200","緯度":31.77187917,"経度":131.075332,"文化財指定日":"2002-03-19","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/eac4f4fe-ba87-4026-b365-f3527b2d34fe","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"ほ場整備事業に伴い発掘調査が実施されました。平安時代を中心とする遺跡です。奥行20.3メートル、幅14.3メートルの大型掘立柱建物をはじめ、多数の掘立柱建物、池状遺構、門や柵など多数の遺構のほか、多量の土師器(はじき)、貴重な輸入陶磁器なども数多く出土しました。河川を利用した交通・交易によって栄えた地元有力層の邸宅跡と考えられています。「大島畠田遺跡」という名前は、遺跡がある場所の小字名から名付けられました。","備考":"　"},{"_id":21,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":6001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"関之尾の甌穴","名称_カナ":"セキノオノオウケツ","文化財分類":"天然記念物","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市関之尾町6843−20","緯度":31.76216455,"経度":130.9864027,"文化財指定日":"1928-02-18","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/6b616d01-7f28-49e1-80f2-b930f13615dc","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"関之尾滝の上流、長さ約600メートル、幅約80メートルの川床に広がる甌穴群です。甌穴とは、溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の川床に形成された径1～3メートルの円筒形の穴です。砂粒や小さな石を巻き込んだ急流が渦を巻きながら河床の軟らかい所を丸く削り込み、そこに落ち込んだ小さな石などが回転し穴を広げることによって、形作られていきます。関之尾には千数百もの甌穴が観察され、世界有数の甌穴群として高く評価されています。","備考":"　"},{"_id":22,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":7001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"男神像及び女神像","名称_カナ":"ダンシンゾウオヨビジョシンゾウ","文化財分類":"県指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1959-07-10","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/26570604-3025-4d6e-a26b-d8896e90c673","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"西岳・庄内地域の神社に残る神像です。鎌倉時代から江戸時代にかけての作とみられ、30数体が確認されています。写真の2体は鎌倉時代の作といわれています。いずれも楠材の一木つくりで、内刳り(うちくり・像の内側をくりぬいた空洞)はなく、両眼は彫り出してあります。彩色はかなり剥げ落ちていますが、眉・瞳・髭(ひげ)や髪などに墨の跡、唇・袍(ほう)に朱などの跡が残っています。","備考":"　"},{"_id":23,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":7002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"朱塗丸盆","名称_カナ":"シュヌリマルボン","文化財分類":"県指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1965-08-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/1772e33d-d0c5-4de2-b146-463991cb4240","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"野々美谷諏訪神社に伝わる木製の大きな「丸盆」です。直径39.5センチメートル、厚さ約4センチメートル、楠材を回転させ、刃物で削り形を整えた丸縁付円形の高台付盆です。木地のまわりに薄い布を着せ、下塗りに黒漆、その上に朱塗りをはけで荒く上塗りしています。高台内に朱漆で次の銘文が残り、室町時代に奉納されたことが分かります。　「文明十五年稔　卯　参月初八日　願主　弥太郎判官代」","備考":"　"},{"_id":24,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":7003,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"東霧島神社の梵鐘","名称_カナ":" ツマキリシマノボンショウ","文化財分類":"県指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高崎町東霧島1560","緯度":31.84548682,"経度":131.059918,"文化財指定日":"1985-12-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/a1a34c92-c420-4367-8e0f-25c301e060c4","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"慶長20年(1615)、島津本家18代島津家久の「大阪夏の陣」出陣に際し、諸願成就のため東霧島神社に奉納されたと伝えられる梵鐘です。県内に残る梵鐘としては2番目に古く、藩主記銘の梵鐘のうち旧鹿児島藩領内で鋳造されたものは現存しておらず、貴重な資料とされています。また、この梵鐘は幕末から明治初期にかけての廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により鹿児島へ、その後、長崎へと移されていましたが、昭和56年(1981)に東霧島へと戻りました。","備考":"　"},{"_id":25,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":7004,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"兼喜神社社殿","名称_カナ":"ケンキジンジャ","文化財分類":"県指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市都島町219","緯度":31.71990933,"経度":131.0494973,"文化財指定日":"1994-11-28","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/b41794df-3f93-462a-a564-73278cc3c0a9","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"天正年間、都城領主北郷時久の創建とされ、家督相続の争いで自刃した北郷時久の長男相久をまつっています。現在の社殿は天明8年(1788)に再建されたものです。桃山様式を模した権現造りで、細部の意匠に彫刻と彩色を多用しています。また、向拝柱の雲竜彫刻など旧鹿児島藩独自の社寺彫刻技法が見られ、江戸時代の当地方の社寺建築を知る貴重な歴史資料となっています。","備考":"　"},{"_id":26,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":7005,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"野辺文書","名称_カナ":"ノベモンジョ","文化財分類":"県指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"1999-03-31","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/91deca79-9230-4248-bdee-c002fd16e2b5","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"野辺氏の系図をはじめ、所領関係の文書や中世武将の書状類などからなっています。野辺氏は「武蔵国榛沢(はんざわ)郡野辺郷」に出自をもつ武士で、鎌倉時代には櫛間院(くしまいん：串間市)の地頭職を有していたと推測されています。南北朝時代までは櫛間院・深川院(ふかがわいん：鹿児島県末吉町)に勢力をもっていましたが、足利義昭事件を機に次第におとろえ、戦国時代になると、北郷氏に服属しました。この文書は、個人所有のため閲覧することはできません。","備考":"個人所有のため閲覧不可"},{"_id":27,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":7006,"都道府県名":"","市区町村名":"","名称":"都城島津家伝来史料","名称_カナ":"ミヤコノジョウシマヅケデンライシリョウ","文化財分類":"県指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/68741886-382a-41bb-844c-7e930044b0ce","画像_ライセンス":"","説明":"鎌倉時代から近代にかけての古文書・古記録類と美術工芸品からなっています。文書・古記録類は、鎌倉時代から近代にかけての文書や冊子、絵図からなり、19世紀初頭に編さんされ、地域の歴史の基本資料となっている「庄内地理志」など9,719点を数えます。美術工芸品には、歴代当主の甲冑や装束、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に行われた虎狩を描いた「高麗虎狩図屏風」など、226点があり、古文書・古記録類を補遺する貴重な歴史資料と位置付けられています。これらの資料群は、中・近世における領主家および地域社会、さらには南九州の歴史を考える上で欠かせない、基幹資料と位置付けられています。","備考":""},{"_id":28,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":8001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"熊襲踊","名称_カナ":"クマソオドリ","文化財分類":"県指定無形民俗文化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市庄内町","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"1972-09-26","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/54a44c26-c696-4868-be19-26f1044973b1","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"竹編みの「バラ」を叩きながら踊る民俗芸能です。「バラ踊り」とも呼ばれます。バラを抱えた14人が輪となり、互いに逆まわりにまわりつつ、鉦(かね)やバラを打ち、走り、転がりながら野生的かつユーモラスに踊ります。現在は白い神代風の衣装(いしょう)をつけていますが、以前は、バラを打つ人はふだんの着物や農作業着、鉦を打つ人は陣笠に羽織袴を着ていました。また、手足に棕櫚(しゅろ)の皮をまき、バラを打つ人は背中に太い七五三縄(しめなわ)を背負い、面をつけます。明治から大正時代のものと考えられている記録には、踊りの起源として、ヤマトタケルミコトのクマソ征伐(せいばつ)の神話が上げられています。また、昔は「雨乞い」としてよく踊られていたとも伝えられています。","備考":"　"},{"_id":29,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":8002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"山之口弥五郎どん祭り","名称_カナ":"ヤマノクチヤゴロウドンマツリ","文化財分類":"県指定無形民俗文化財","種類":"","場所名称":"弥五郎どんの館","住所":"宮崎県都城市山之口町富吉1702","緯度":31.76866976,"経度":131.1511121,"文化財指定日":"1990-03-27","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/6329e698-10c5-4864-9d59-a4ae09bd7a34","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"1,000年を越える歴史の中で庶民に親しまれながら、郷土の誇りとして大切に保存・継承されてきた伝統行事です。県指定「無形民俗文化財」に指定されていて、弥五郎どんゆかりのものに触れると、病気をせず一年中元気で幸せであるといわれています。メインの浜殿下りのほか、浦安の舞・神楽の舞・郷土芸能披露などが行われます。","備考":"　"},{"_id":30,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":8003,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"高木の揚げ馬","名称_カナ":"タカギノアゲウマ","文化財分類":"県指定無形民俗文化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高木町","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"1994-03-25","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/90f70471-5d9e-492f-9354-f4df9e273381","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"あげ馬「献上馬」とは、都城北諸県地域にある諏訪神社のみに伝えられてきた大名行列の様子を模した祭りと言われています。1591年島津家君主が島津家崇拝の諏訪神社に戦勝祈願し、帰国後そのお礼参りのため、大名行列を仕立てて諏訪神社に馬を献上し神楽を奉納したのが起源と言われています。その後、第17代島津藩主の島津義弘の戦勝を称え、都城北諸県地域の4つの神社（高木町、高城町桜木、高城町穂満坊、山之口町花木）の例大祭に余興として「あげ馬」を奉納。以後、300年余り継承されています。 ","備考":""},{"_id":31,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":8004,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"花木あげ馬","名称_カナ":"ハナノキアゲウマ","文化財分類":"県指定無形民俗文化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山之口町花木","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"1994-03-25","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/9f68393f-199a-44da-af0f-96ac7b1f50b2","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"あげ馬「献上馬」とは、都城北諸県地域にある諏訪神社のみに伝えられてきた大名行列の様子を模した祭りと言われています。1591年島津家君主が島津家崇拝の諏訪神社に戦勝祈願し、帰国後そのお礼参りのため、大名行列を仕立てて諏訪神社に馬を献上し神楽を奉納したのが起源と言われています。その後、第17代島津藩主の島津義弘の戦勝を称え、都城北諸県地域の4つの神社（高木町、高城町桜木、高城町穂満坊、山之口町花木）の例大祭に余興として「あげ馬」を奉納。以後、300年余り継承されています。 ","備考":"　"},{"_id":32,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":8005,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"穂満坊あげ馬","名称_カナ":"ホマンボウアゲマ","文化財分類":"県指定無形民俗文化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町穂満坊","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"1994-03-25","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/200c84d3-981f-4d59-b4f8-2be4113c82ef","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"あげ馬「献上馬」とは、都城北諸県地域にある諏訪神社のみに伝えられてきた大名行列の様子を模した祭りと言われています。1591年島津家君主が島津家崇拝の諏訪神社に戦勝祈願し、帰国後そのお礼参りのため、大名行列を仕立てて諏訪神社に馬を献上し神楽を奉納したのが起源と言われています。その後、第17代島津藩主の島津義弘の戦勝を称え、都城北諸県地域の4つの神社（高木町、高城町桜木、高城町穂満坊、山之口町花木）の例大祭に余興として「あげ馬」を奉納。以後、300年余り継承されています。 ","備考":""},{"_id":33,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"何欽吉墓","名称_カナ":"カキンキツノハカ","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市鷹尾1-22","緯度":31.72802646,"経度":131.0487749,"文化財指定日":"1934-04-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/b691b498-f294-4a55-aa0f-f8fb33c08a3b","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"何欽吉は中国広東州の出身の医学者です。江戸時代の始めごろ、自国の乱を避け鹿児島県内之浦へ渡来。都城唐人町に住み、領主の医者を務めました。医術や薬草の本を著し、多くの門人を養成したほか、朝鮮人参と同様の薬効を持つといわれる和人参を三股の山中で発見しました。自然石の墓石には「業岐心恒居士何欽吉墓」「生於大明広東潮州澄海県」「逝于万治元年(1658)九月二十九日」と刻まれています。","備考":"　"},{"_id":34,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"祝吉御所跡","名称_カナ":"イワヨシゴショアト","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市郡元町28","緯度":31.73892852,"経度":131.098974,"文化財指定日":"1934-04-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/8483020b-9240-4f7e-9205-0f7aaf0bb802","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"鎌倉時代、「惟宗忠久(これむねただひさ)」の館があったと伝えられる場所です。公園整備のときに一部の発掘調査が実施され、道路の跡や柱の穴などが見つかっています。惟宗忠久は島津荘の役人(下司職・地頭)だった人で、荘園の名前をとって「島津忠久」と名乗りました。これが島津家の始まりとされています。","備考":"　"},{"_id":35,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9003,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"石器時代住居跡尾平野洞窟","名称_カナ":"セッキジダイジュウキョアトオビラノドウクツ","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市安久町3547","緯度":31.63942767,"経度":131.1367753,"文化財指定日":"1957-12-15","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/232ebdda-64c4-4eb4-a805-edb2463656fc","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昭和11年(1936)に発見され、考古学者小林久雄らによって簡単な調査が実施されました。幅約7メートル、奥行約6メートルの楕円形をした入口部と、入口部の左奥から奥へとのびる幅約7～8メートル、奥行き20メートルの洞穴部からなります。縄文時代後期～晩期の土器(写真・中央)や骨角器、当時の人々が食べたと考えられる動物の骨や貝殻などが出土しました。動物の骨にはイノシシ(写真・右)・シカ・カモシカ・ノウサギ・ニホンザルなどがあり、割った跡や焼いた跡などが観察されます。","備考":"　"},{"_id":36,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9004,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"観音瀬水路","名称_カナ":" カンノンゼスイロ","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町有水","緯度":31.88847612,"経度":131.1285215,"文化財指定日":"2005-03-31","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/3168cc9c-f293-4dc5-ab47-dc5df1da0d52","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"高崎町縄瀬上轟、高城町有水八久保間の大淀川の急流を観音瀬と呼びます。江戸時代、観音瀬は一帯に広がる岩盤とその先端にある滝により、船の行き来ができない状態となっていました。そのため、寛政3～5年(1791～1793)にかけて、船を通すために、長さ約90メートルの水路を掘る工事が行われました。これが現在も残る高崎側の水路です。また。明治22～23年(1889～1890)には高城側に県営事業としてもう一本の水路(写真・下段)が掘られました。","備考":"　"},{"_id":37,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9005,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城市古墳","名称_カナ":"ミヤコノジョウシコフン","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市鷹尾1-25","緯度":31.72546403,"経度":131.0503287,"文化財指定日":"1934-04-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/3d936e8b-5136-44ce-8ebe-656b0c15de00","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"大正12年(1923)、道路工事中に地下式横穴墓と考えられる空洞が発見され、内部より腐食した武具や太刀などが出土したと伝えられています。現在は円墳1基が残っています。また、地下レーダー探査により、地下式横穴墓と推測される反応も得られています。小さな古墳ですが、都城盆地の中央部における唯一の高塚古墳であり、古墳群の分布や当時の在地勢力の状況を考える上で、重要な遺跡となっています。","備考":"　"},{"_id":38,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9006,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"志和池村古墳","名称_カナ":"シワチムラコフン","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市上水流町､下水流町","緯度":31.81562716,"経度":131.1034328,"文化財指定日":"1934-04-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/c6ef0766-eb3e-4ce3-a65c-0c43e2e9dcd2","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"大淀川と丸谷川に挟まれた台地と、そこから続く河岸段丘上に立地しています。現在までに前方後円墳1基、円墳10基、地下式横穴墓60基以上が確認されています。地下式横穴墓群については「築池地下式横穴墓群」の名称が使われています。前方後円墳である1号墳は、前方部が削られ、円墳状となってしまっています。その一方で、円墳とされていた4号墳では、近年の調査で周溝が確認され、墳長25メートル以上の前方後円墳であった可能性が指摘されました。また、地下式横穴墓の発掘調査事例が多く、内陸部には珍しく、妻入り玄室(奥行の長い形)が多い点、玉類や鏡類の出土が多い点、都城盆地で最も新しい時期(7世紀代)まで築造が続く点などの特徴がわかってきています。","備考":"　"},{"_id":39,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9007,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"高城町古墳","名称_カナ":"タカジョウチョウコフン","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町","緯度":31.8033808,"経度":131.1457644,"文化財指定日":"1935-07-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/78c40aa2-0cc6-41bd-96ee-b4ec9efc5cbf","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"大井手牧の原や石山、有水に散在している古墳です。牧の原地域には13基が現存し、このうち1号墳は前方後円墳で全長52ｍあります。これは都城盆地内で2番目の大きさにあたります。3号墳と6号墳も前方後円墳で、他の10基は円墳です。このほか、石山地域に5基の円墳、有水地域に4基の円墳が現存しています。","備考":"　"},{"_id":40,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9008,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"沖水古墳","名称_カナ":"ミヤコノジョウシオキミズコフン","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"都城市早水町3866-1","緯度":31.73728034,"経度":131.0966589,"文化財指定日":"1936-07-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/ddf54500-3f69-4352-90e7-ddc93fc26c30","画像_ライセンス":"","説明":"早水神社参道沿いにある古墳です。発掘調査はされていませんが、昭和6年に刊行された『宮崎縣史跡調査第8輯』には「円形葺石あり」と記されたいます。その後、昭和49年11月、「墳丘」の除草作業中に円筒形容器が発見され、その側から鋳銅製経筒・湖州境・玉が出土しました。このことから、この古墳は経塚である可能性が高いと考えられています。","備考":""},{"_id":41,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9009,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"山之口村古墳","名称_カナ":"ヤマノクチソンコフン","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山之口町富吉1788","緯度":31.76774777,"経度":131.1471602,"文化財指定日":"1936-07-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/d378e3cf-7674-4aac-8665-15a07001c81f","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"富吉地区に10基が散在していましたが、現在は字後田（うしろだ）に所在する自然丘陵上に2基のみが残っています。2基ともに小山状を呈する円形の墳丘です。平成20年度に実測した結果、1号墳は直径7.2m、高さ1m、2号墳は直径5.2ｍ、高さ0.75mでした。","備考":""},{"_id":42,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":9010,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"高崎町古墳","名称_カナ":"タカザキチョウコフン","文化財分類":"県指定史跡","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町","緯度":31.8729098,"経度":131.1004854,"文化財指定日":"1942-06-23","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/4d4ff177-7496-49c5-a4d7-66cb2f30fc20","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"高崎町江平塚原と縄瀬原村上に分布する古墳群が県指定史跡となっています。大淀川とその支流高崎川・炭床川にかこまれたシラス台地上にあり、大淀川・炭床川を望む北東縁には塚原古墳群、高崎川を望む南西縁には原村上の古墳群・地下式横穴墓群が形成されています。塚原1号墳(写真・中)の墳長は約65メートル。都城盆地最大の前方後円墳である上、九州南部において最も内陸に造られた前方後円墳となっていて、本古墳群最大の特徴と言えます。塚原古墳群では古墳本体の調査はされていませんが、昭和43・44年(1968・1969)に行われた農地整備に伴い、地下式横穴墓数基が発見され、そのうちの5基が調査されました。とくに、家型玄室で大型の43-1号墓(写真・右)からは人骨3体のほか、鉄剣(てっけん)、鉄鏃(てつぞく)、やりがんなと多くの副葬品が出土しています。","備考":"　"},{"_id":43,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":10001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"山田のイチョウ","名称_カナ":"ヤマダノイチョウ","文化財分類":"県指定天然記念物","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山田町山田","緯度":31.84126139,"経度":131.0120535,"文化財指定日":"1939-01-27","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/4f166451-0c90-469d-9c2a-1eebb62c1d95","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"樹高約47メートル、幹周約7メートル50センチ、推定樹齢700年とされる雌木のイチョウです。2本の大きな乳垂(ちだれ：気根(きこん)。枝から空中にのびる根で、乳房のような形をとる)をつけ、幹上部にはネズミモチやナンテンの若木を寄生させています。昔、戦で傷を負った祖先がついて帰った杖を立てたところ、それが根付いたものと伝えられています。このイチョウは、私有地内にありますので見学の際はご配慮ください。","備考":"　"},{"_id":44,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"経筒及びその容器","名称_カナ":"キョウヅツオヨビソノヨウキ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1974-05-01","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/040461af-75dd-40dc-9766-8dac7e1bbc90","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昭和34年(1959)、梅北町の畑より出土したと伝えられています。銅製の経筒で全高31.1センチメートル、口径8センチメートル、九層塔形のつまみの付いた笠蓋(かさぶた)と円筒形の筒身からなっています。経筒を納める容器は軽石製で高さ60センチメートル、中央部に経筒を入れるための穴が開けられています。","備考":"　"},{"_id":45,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"王面","名称_カナ":"オウメン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1974-05-01","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/33d9ceab-e5a5-41d8-a4e4-da9d411126f6","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"室町時代、若宮大明神に奉納された阿吽(あうん)一対の面です。木地は楠材で目・鼻に穴がなく、裏面に次の墨書銘が残ります。「王面　若宮　大明神御宝前　本願主　源慶綱　作者　清原維家　天文十年五月二十六日」若宮大明神は室町幕府の将軍職を争って敗れた足利義昭(ぎしょう)とその従僧源澄(げんちょう)をまつった神社で、明治の初めに興玉神社へ合祀(ごうし)されたと伝えられています。","備考":"　"},{"_id":46,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11003,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"都城県印章","名称_カナ":"ミヤコノジョウケンインショウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1975-03-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/db6962af-63d8-4455-a70b-d5738a9a776a","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"都城県は、明治4年(1871)～明治6年(1873)にかけて設置されていた県です。北は宮崎県の大淀川以南、南は大隅半島を含む鹿児島市境までと大きな県域となっていました。縦・横約7センチメートル、高さ約6センチメートル。材質はつげの木で「都城県印」の四文字が浮き彫りされています。","備考":"　"},{"_id":47,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11004,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"鬼束文書","名称_カナ":"オニツカモンジョ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1975-03-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/c6f814af-5481-4b13-a0db-eb68c47f1736","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"鬼束家は都城南部に勢力のあった有力豪族です。15世紀には中之郷(都城市東南部)を領地としていましたが、16世紀には北郷家の家臣へ組み込まれていきます。鬼束家に伝わる古文書は13点あり、15世紀前半の土地領有に関する文書や足利義昭(ぎしょう)に関する文書などが残されています。足利義昭は室町幕府第6代将軍を決めた「くじ引き」(応永35年・1428)ではずれた人物です。将軍職についた兄・足利義教から逃れ、日向国まで下りましたが追い詰められ、櫛間(現在の串間市)で自害しました。その間の一時期、都城中郷を本拠地とする鬼束氏にかくまわれていたと考えられています。","備考":"　"},{"_id":48,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11005,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"五十市式縄文土器","名称_カナ":"イソイチシキジョウモンドキ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1975-03-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/330782af-7d15-45ef-a9d3-db02f82ebf26","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"口径23.5センチメートル、底径13センチメートル、高さ25.5センチメートル。昭和37年(1962)6月、国道269号拡張工事のとき、地表面下およそ3メートル、鬼界アカホヤ火山灰(約6300年前降下)、桜島・末吉軽石(約7500年前降下)よりも下の地層から発見されました。このころの九州南部では、円筒形で貝殻を使って文様を施す土器が多くつくられていました。この五十市式土器は円筒形の器形ですが全面に縄文が施されていて、複数の土器文化が接触・融合して生まれた土器と考えられています。","備考":"　"},{"_id":49,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11006,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"旧島津家米蔵屋敷門","名称_カナ":"キュウシマヅケコメグラヤシキモン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市牟田町2","緯度":31.72403001,"経度":131.061303,"文化財指定日":"1975-03-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/b5291e2a-9a1c-490f-b858-ee5812edb697","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"元禄12年(1699)、都城領主島津久龍が始めた給地米制度によって整備された「新蔵」(米蔵)跡にある長屋門です。現在は攝護寺の通用門となっています。中二階建の木造土蔵造りで、正面入口両脇に侍詰所を配するほか、中二階に設けられた侍溜(さむらいだまり)、正面・脇面の人見窓など、江戸期の状況をよく残しています。近年の調査で移築された痕跡が発見されました。","備考":"　"},{"_id":50,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11007,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"如意輪観音像","名称_カナ":"ニョウイリンカンノンゾウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"1976-02-01","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/70fadfea-709b-428e-ace5-7b2ccddebda6","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"高さ38cmの木造で、底面に「佛師貞誉」と墨書されています。また、台座には宝暦8年（1758）に三重町の野口喜六が仏師竹下源左ヱ衛門に台座・後光・須弥壇を作らせて奉納したとの追銘が見られ、像と台座・後光・須弥壇が別の時代に作られたということがわかります。幕末から明治初年にかけて鹿児島藩領内で廃仏毀釈が徹底的に行われた中、都城市域に残された数少ない仏像です。","備考":"個人所有のため閲覧不可"},{"_id":51,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11008,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"天長寺の石仏群","名称_カナ":"テンチョウジノセキブツグン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市都島町1268−1","緯度":31.70968664,"経度":131.0487921,"文化財指定日":"1979-06-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/bff039a0-5750-4d45-99c8-1494d6c218c5","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"天長寺は、天文7年(1538)、都城領主北郷忠相の創建と伝えられています。文禄4年(1595)、北郷氏の祁答院(けどういん)への転封にともない、天長寺も宮之城に移りましたが、慶長5年(1600)の北郷氏の都城帰還と一緒に現在の場所へと帰ってきました。幕末から明治初頭にかけての廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で多くの仏像などが失われた都城にあって、完全な姿で残った貴重な仏像群とされます。","備考":"　"},{"_id":52,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11009,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"楠見家の門と土蔵","名称_カナ":"クスミケノモントドゾウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市今町","緯度":31.68949088,"経度":131.0360954,"文化財指定日":"1979-06-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/101eab01-6a49-4ded-a0f7-a5d2996c83e6","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"今町郷士の頭領格の家柄であったとされる楠見家に残る「門」と「土蔵」です。門は延享3年(1746),土蔵は寛延元年(1748)の建築と伝えられています。土蔵は幅約4メートル、奥行約5メートル、内二階の構造で、壁の厚さは約37センチメートル、総漆喰塗りで仕上げられています。一階が土間、二階が厚板張りとなり、米収蔵用の蔵として使用されていました。江戸時代中期、郷士屋敷構えの一端がうかがわれる貴重な文化財と位置付けられています。","備考":"　"},{"_id":53,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11010,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"諏訪縁起絵詞","名称_カナ":"スワエンギエコトバ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1982-04-14","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/2bc4e641-b48f-4218-b81d-2b58235617f0","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"諏訪神社の由来を絵と詞書(絵にそえられた説明文)でつづった巻物で、主人公「甲賀三郎」が地底を巡り歩き、さまざまな事件の末、姫宮の大明神と結ばれ、諏訪大明神となっていく姿を描いています。この巻物は、天和2年(1682)の模写とされ、絵を竹之下信成、詞を樗木(おてき)太兵衛武矩が担当しています。竹之下信成は都城の絵師で、この他の作品には「紙本金地著色和田合戦図(しほんきんじちゃくしょくわだかっせんず)」があります。","備考":"　"},{"_id":54,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11011,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"紙本金地著色和田合戦図","名称_カナ":"シホンキンジチャクショクワダカッセンズ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城市立美術館","住所":"宮崎県都城市姫城町7−18","緯度":31.71928852,"経度":131.063014,"文化財指定日":"1982-04-14","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/30395209-b981-4462-a114-b09164ee2b00","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"竹之下信成筆　六曲屏風(ろっきょくびょうぶ)建保元年(1213)、和田義盛が鎌倉幕府執権北条氏に対しおこした反乱「和田合戦」を描いた屏風です。義盛の三男朝比奈義秀が門扉を押しつぶし奮戦しているところが描かれています。竹之下信成は都城の人とされ、野々美谷諏訪神社に伝わる「諏訪縁起絵詞(すわえんぎえことば)」と「紙本金地著色和田合戦図」の2作品が残されています。","備考":"　"},{"_id":55,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11012,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"豊太閤画像","名称_カナ":"ホウタイコウガゾウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城市立美術館","住所":"宮崎県都城市姫城町7−18","緯度":31.71928852,"経度":131.063014,"文化財指定日":"1985-06-08","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/11c68ef1-66bb-41f8-9ee3-fbeadf5039aa","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"近世初頭の画家、白谷卜斎(しらたにぼくさい)が描いた原画をもとに、幕末の都城の画家長峰探隠(ながみねたんいん)が模写したものと伝えられています。","備考":"　"},{"_id":56,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11013,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"湖州鏡","名称_カナ":"コシュウキョウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"1993-04-16","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/c3fc3fe9-d5ed-4851-9987-e6992dd6b1d5","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"安久町で畑を耕してしていた時、陶製経筒(とうせいきょうづつ)と一緒に見つかりました。経筒の蓋(ふた)として使われていたと考えられます。湖州鏡は中国宋代につくられた鏡で、平安・鎌倉時代に日本にも多くもたらされています。この鏡は六花鏡の形をしていて径約13センチメートル、後ろの面(写真)には湖州でつくられた鏡であることが、鏡の面には「承安5年(1175)」の年号が刻まれ、「幸せに長生きできるように鏡をおさめます」といった意味の文章が書かれています。","備考":"個人蔵"},{"_id":57,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11014,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"正応寺跡の石塔群","名称_カナ":"ショウオウジアトノセキトウグン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市安久町","緯度":31.68476958,"経度":131.1011245,"文化財指定日":"1996-07-11","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/50f0cf10-8b76-404e-824c-d700357c1973","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"仁安(にんなん・にんあん)元年(1166)、天台宗園城寺より下った禅慶和尚(ぜんけいおしょう)と弁済使永井氏の開山と伝えられます。始めは天台宗の寺院でしたが、後に真言宗へと改められました。また、当初は島津荘の領主近衛家ゆかりの寺として栄えましたが、戦国期には衰え、慶長13年(1608)に都城領主北郷忠能と宥政上人(ゆうせいしょうにん)により再興されました。幕末から明治初期にかけての廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となりましたが、現在でも宥政上人の墓と伝えられる五輪塔や石仏・石塔類が残されています。","備考":"　"},{"_id":58,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11015,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"鍋谷橋","名称_カナ":"ナベタニバシ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市安久町","緯度":31.63732215,"経度":131.1287606,"文化財指定日":"2004-09-08","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/a68da5b3-cfa7-48ea-864a-8ef18fcf2142","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"明治38年(1905)につくられた石造り単一アーチ橋です。橋の長さは下流側約34メートル、上流側約33メートル、橋の幅約20メートル、橋の高さ20.2メートル、単一アーチ橋としては県内有数の大きさで、都城に現存するもので最も古く、かつ最大の石橋となっています。都城と日南を結ぶ路線にあって、深い峡谷にかけられた石橋です。","備考":"　現在の二股橋"},{"_id":59,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11016,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"旧島津家住宅建造物群","名称_カナ":"キュウシマヅケジュウタクケンゾウブツグン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2008-07-08","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/de0bf900-df91-4585-acdf-22533f9ec1f7","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昭和10年に建てられた主屋を中心に、はなれ・蔵・門などで構成されます。旧領主家・旧男爵家の生活を知る貴重な建物群となっています。","備考":"　"},{"_id":60,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11017,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"定満池水神碑　附放水路石柱","名称_カナ":"ジョウマンノイケスイジンヒツケタリホウスイロモンセキチュウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町石山","緯度":31.82238556,"経度":131.1343517,"文化財指定日":"2010-08-24","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/01527c34-83e3-4541-9686-3d9085069d0f","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"「定満池(じょうまんのいけ)」は都城盆地最大級の農業用のため池です。現在は「観音池」と呼ばれ、「観音池公園」として整備されています。また、今でも約40ヘクタールの水田に水を供給しています。水神碑は、天保12年(1841)、池の改修を記念して建てられました。碑文には、放水口が毎年壊れるため、郡奉行町田次郎九郎が藩に願い出て資金を調達、天保12年(1841)閏1月から3月にかけて工事を行ったことや、高城郷の工事関係者の名前などが記されています。放水路門石柱はその時に使われた建築部材と考えられます。","備考":"　"},{"_id":61,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11018,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"走湯神社関係資料","名称_カナ":"ハシリユジンジャカンケイシリョウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町石山4099","緯度":31.82375081,"経度":131.13259,"文化財指定日":"2010-08-24","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/40602893-0627-4379-92d0-e54802a55d35","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"江戸時代の終わり頃(文久3年・1862)に作成され、土肥真重(実重)につながる石山村堂領門(どうりょうかど)や走湯神社の由来などがわかる「堂領文書写し」。天明8年(1788)に石山片前の二才(青年)によって奉納された庚申塔(こうしんとう)、万延元年(1860)に神社が再興された際の奉納と考えられる木製神像、頭部を破壊された石造随身像など、江戸時代の中頃から明治の初めにかけての、民間信仰や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の様相を示す貴重な歴史資料となっています。","備考":"　"},{"_id":62,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11019,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"石山観音寺関係資料","名称_カナ":"イシヤマカンノンデラカンケイシリョウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町石山3967","緯度":31.82991163,"経度":131.1418891,"文化財指定日":"2011-01-07","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/80c86d6e-8103-43e2-bf9b-133f861e2c3c","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"最初は天台宗「石山寺」と号していましたが、応永年間(1394-1427)に実庵和尚(じつあんおしょう)によって「福聚寺(ふくしゅうじ)」と改称、安永4年(1775)に再び「石山寺」へと戻りました。慶応3年(1867)に廃寺となりましたが、明治13年(1880)という早い段階で再興されました。天正期(1573～1591)につくられた木造実庵禅師座像(写真・左)や地蔵菩薩像、江戸時代につくられた経典供養塔や庚申塔(こうしんとう)など、幕末から明治初期にかけての廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で多くの寺院が壊された鹿児島藩領にあって、中世から江戸時代までの寺院の姿を伝える貴重な資料群が残されています。","備考":"　"},{"_id":63,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11020,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"南方神社仁王石像","名称_カナ":"ミナミカタジンジャニオウセキゾウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山之口町花木954","緯度":31.77779463,"経度":131.1607965,"文化財指定日":"1978-02-15","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/ed3cbe93-43b0-4a87-be05-462ab8bcfa76","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"山之口町花木に鎮座する南方神社の鳥居の両脇に立っています。高さ2m、横幅1m、厚み50cmの阿吽形の一対で、吽像の背面から「宝暦四年甲戌（1754）」に寄進されたことがわかります。また、阿像の背面には「勝岡石切七郎右衛門」と作者の名前が彫られています。阿吽像の配置は、平安時代以降の通例である向かって左に吽像、右に阿像とは異なり、左に阿像、右に吽像となっています。","備考":""},{"_id":64,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11021,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"有水庚申碑","名称_カナ":"アリミズコウシンヒ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町有水3310−2","緯度":31.85822642,"経度":131.1380923,"文化財指定日":"1974/00/00","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/18f6dc3d-ec5d-4d39-9a99-8da304fba98d","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昔、山の神があった場所で道路拡張のため、付近にあった庚申塔や日待供養塔などが集められたと伝えられています。庚申塔は高さ約150センチメートルの自然石型で、慶安元年(1648)の年号と奉納した人々の名前が残されています。都城市内で紀年銘がわかる最も古いものです。また、日待供養塔は幅15センチメートル程の細い角柱型で、寛文11年(1671)の年号がしるされています。","備考":"　"},{"_id":65,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11022,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"石山中方の庚申碑","名称_カナ":"イシヤマナカホウノコウシンヒ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町石山","緯度":31.83503877,"経度":131.1266766,"文化財指定日":"1978/00/00","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/03552776-0db4-4f8f-97ab-523484c4b0d6","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"石祠型の庚申塔です。内部に童子1人を伴う青面金剛像、外面に徳利と盃をもった祝言像、礎石に三猿が浮き彫りにされ、千鳥破風入母屋型で細かな細工が施された屋根が乗せられています。隣接して「奉修業庚申燈一基　敬白」「寛保三年(1743)癸天正吉日」「奉寄進　明治二十年(1887)　石山村中方限　相中」などの銘文が残る石灯籠があります。戦前までは石山中方限にて庚申講が組織され、毎年正月15日に祭りを行っていたと伝えられています。","備考":"　"},{"_id":66,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11023,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"大井手の斜縁画像鏡","名称_カナ":"オオイデノシャエンガゾウキョウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"高城郷土資料館","住所":"宮崎県都城市高城町大井手2643-5","緯度":31.80090846,"経度":131.134915,"文化財指定日":"1974/00/00","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/db5db0da-cbf7-4bdf-896d-6d173d2c6b17","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"個人宅の氏神の祠(ほこら)から発見された銅鏡です。木彫りの面や銅鏡10数枚と一緒に入れられていたと伝えられています。径145ミリメートル。平らな円紐のまわりに連珠文圏があり、その外側に二神、二獣を交互に配置しています。二神には脇侍(わきじ)が伴い、二獣は虎と一角山羊風で、銘帯には「吾作明竟佳且好月而日□□小有刻治今守悉皆左長」(□□は二字不明)との銘が残ります。後漢代の画像鏡の踏み返しとされ、宋・元代(1000～600年前)につくられたものと考えられています。","備考":"　"},{"_id":67,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11024,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"穂満坊の御道中記稿本","名称_カナ":"ホマンボウノゴドウチュウキコウホン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"高城郷土資料館","住所":"宮崎県都城市高城町大井手2643-5","緯度":31.80090846,"経度":131.134915,"文化財指定日":"1974/00/00","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/23630c76-414c-4ea4-95c5-dfe41bb6f669","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"嘉永6年(1853)、鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)の領内巡検の際、高城郷から提出された郷内案内の草稿をとじたものです。二つ折りにした梶番紙71枚からなり、加筆や削除の朱書きもそのまま残されています。筆者は園田実徳(そのださねのり)。高城郷年寄役是枝主胤(これえだとのも)が序文、巡検に随行した儒学者近藤恒雄が跋文(ばつぶん)を書いています。高城郷の地勢や人口、生産高、古跡や社寺の由緒などが記され、江戸時代の高城の状況を知る重要な歴史資料となっています。","備考":"　"},{"_id":68,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11025,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"大井手の石造多宝塔","名称_カナ":"オオイデノセキゾウタホウトウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町大井手","緯度":31.79738638,"経度":131.1446026,"文化財指定日":"1974/00/00","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/57c0f6ef-c2db-49dc-9ec6-2782be7108ae","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"春日神社の別当寺東竜寺境内にあったと伝えられる大きな石塔です。向かって右が高さ4メートル、左が3メートル50センチ。五輪塔の火輪(笠の形をした部分)の上に宝塔などで使われる相輪(一番上の宝珠を乗せた塔状の部分)を載せた形をしています。その形態より室町時代につくられた可能性が高いと考えられています。現在は春日神社に隣接する納骨堂の敷地にあり、周囲には石仏類や石塔なども残されています。","備考":"　"},{"_id":69,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11026,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"重弧文器台","名称_カナ":"ジュウココンキダイ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"高城郷土資料館","住所":"宮崎県都城市高城町大井手2643-5","緯度":31.80090846,"経度":131.134915,"文化財指定日":"1994/00/00","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/ad1224ee-9c2a-488f-9009-19df8b4ceac7","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"昭和62年(1988)、ゴルフ場建設に伴って発掘調査が実施された城ヶ尾遺跡で出土した弥生土器です。口径30センチメートル、底径29.6センチメートル、器高45.8センチメートル。壺(つぼ)などの容器を乗せる台として使われたと考えられ、円形の透穴(すかしあな)と平行沈線の上下に半円形の同心円を重ねたような重弧文を3段に施しています。このような重弧文を施す土器は熊本県を中心に分布していますが、壺(つぼ)などの形が多く、器台は珍しいといわれています。","備考":"　"},{"_id":70,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11027,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"二十三夜待碑","名称_カナ":"ニジュウサンヤマチヒ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町大井手","緯度":31.81036393,"経度":131.1471041,"文化財指定日":"1974/00/00","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/8d557572-dd5d-470d-99ab-97ba06c0137c","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"2メートル程の大きな石に、高さ10センチメートルほどの阿弥陀如来(あみだにょらい)、勢至菩薩(せいじぼさつ)、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の三尊像が掘り込まれ、「延宝六年(1678)戊午十一月吉日願主藤作」の銘が残ります。二十三夜の月待信仰に関した石仏と考えられています。また、以前は仏堂もあったと伝えられています。","備考":"　"},{"_id":71,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11028,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"八代長門守夫妻供養墓","名称_カナ":"ヤツシロナガトノカミフサイクヨウボ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町有水田尾","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"2004-03-22","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/e3016a9d-c8d1-4bbc-abe9-49b626b34e53","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"天文元年（1532）、島津軍により高城を攻められた伊東方の武将・八代長門守祐量（すけかず）は、不動寺馬場で大敗して石山越まで敗走したが、そこで討死したといいます。この供養墓は個人宅内の杉山に所在するもので、銘文に「前長門守」とあることから、八代長門守祐量の供養墓と伝わっています。また、討死から59年後に建てられたものと考えられています。","備考":"個人所有"},{"_id":72,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11029,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"日蓮宗五輪塔","名称_カナ":"ニチレンシュウゴリントウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町有水","緯度":31.85935185,"経度":131.1187042,"文化財指定日":"2004-03-22","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/5e97428a-f1ad-47a4-b52f-4763d63be5d0","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"通常の五輪塔では種字「キャ・カ・ラ・バ・ア」と刻む部分に、日蓮宗で用いられる題目「妙法蓮華経」が刻まれた非常に珍しい五輪塔です。空風輪に「妙法」、火輪に「蓮」(写真・右)が残り、水輪の文字は欠損していますが「華」と刻まれ、土中に埋もれた地輪には「経」とあったと考えられています。また、水輪には「為沙弥春秀」「享□正月」(□は一字欠損)の銘が残っています。","備考":"　"},{"_id":73,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11030,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"前田君開渠紀功碑","名称_カナ":"マエダクンカイキョキコウヒ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山田町中霧島","緯度":31.79105997,"経度":131.0532379,"文化財指定日":"2004-03-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/db01cebb-87e4-42c2-bb1e-361ce480d908","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"江戸時代から明治時代にかけて関之尾用水路が整備されました。南前用水路や北前用水路、前田用水路の3本があり、現在も400ヘクタール以上の水田に水を供給しています。前田用水路では事業を行った坂元源兵衛(さかもとげんべえ)・前田正名(まえだまさな)を記念し、山田町谷頭に「前田君開渠紀功碑・大正11年(1922)」、関之尾町に「坂元源兵衛の陶像・昭和8年(1933)」が建てられました。","備考":"　"},{"_id":74,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11031,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"しまうつりの碑","名称_カナ":"シマウツリノヒ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山田町中霧島","緯度":31.79116311,"経度":131.0525451,"文化財指定日":"2004-03-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/4506d0f9-025e-4f14-84be-951f02c57f87","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"安永8年(1779)、桜島黒神付近の人々が噴火の被害を避けるため、藩の命令により都城へと移り住みました。中霧島に17戸、野々美谷に16戸が定住しましたが、台地上のため、わずかな畑に頼る貧しい生活を続けてきたと伝えられています。この碑は、農業指導のため秋田から訪れた石川理紀之助(いしかわりきのすけ)の提案によって、明治35年(1902)8月15日に建てられました。最初に移り住んだ33人の名前が刻まれています。","備考":"　"},{"_id":75,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11032,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"山田神社の手水鉢","名称_カナ":"ヤマダジンジャノチョウズバチ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山田町山田7506","緯度":31.82615477,"経度":131.0303272,"文化財指定日":"2004-03-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/5fe81f1d-7ac1-40b3-8713-472dd61ff0a1","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"凝灰岩製の手水鉢で外側に蓮弁(れんべん)を施しています。江戸時代の地誌「庄内地理志」には、正徳2年(1712)に石段が寄進されたとき、手水鉢も奉納されたとしるされていて、この手水鉢である可能性が考えられています。","備考":"　"},{"_id":76,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11033,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"山田神社の掛軸","名称_カナ":"ヤマダジンジャノカケジク","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山田町山田7506","緯度":31.82615477,"経度":131.0303272,"文化財指定日":"2004-03-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/3a17526c-19f3-4330-873e-ad82041dac21","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"左大臣近衛信輔(このえのぶすけ)が薩摩に流される途中、当神社に宿泊し「華」の一字をしたためて奉納したと伝えられています。","備考":"　"},{"_id":77,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11034,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"瀬茅の石塔","名称_カナ":"セガヤノセキトウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山田町山田","緯度":31.82852932,"経度":131.0678761,"文化財指定日":"2004-03-02","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/8b751404-2261-4a47-8be9-ecb8a8865cc4","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"諏訪山の墓地にあった石塔群を移したものと伝えられています。江戸時代の地誌「庄内地理志」には次のような記録が残されています。文明14年(1482)、新納是久(にいろこれひさ)とその子忠祐(ただすけ)の依頼により、西牟田武利とその子武安は戦に参加しました。同17年(1485)6月、新納忠祐が戦死したため、末吉の御在所山に葬り石塔を建てましたが、同18年(1486)8月、大風雨によって石塔が倒壊したので、木之河内の諏訪山に改修しました。また、新納忠祐の死後、西牟田武安が新納忠祐を名乗りましたが、同18年(1486)9月、松山で戦死しました。瀬茅の石塔がこの記録にある諏訪山の石塔なのかはわかりませんが、当地域の中世史を知る上で貴重な歴史資料と考えられています。","備考":"　"},{"_id":78,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11035,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"東霧島神社の神輿","名称_カナ":"ツマギリシマジンジャノミコシ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高崎町東霧島1560","緯度":31.84541778,"経度":131.0599247,"文化財指定日":"1982-02-22","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/af6b8240-1819-4c03-8f9c-d856d3ea9949","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"江戸時代の地誌「御道中記」には「寛陽院様　御寄進の由に候処、大破に依り嘉永二年酉年(1849)新に御作り替え」とあり、江戸時代につくられた神輿と考えられています。","備考":"　"},{"_id":79,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11036,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"谷川田之神","名称_カナ":"タニガワタノカミ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高崎町前田","緯度":31.91534022,"経度":131.0321052,"文化財指定日":"1982-02-22","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/6c6d5c5f-e4df-4cc3-b92e-479ae3c598f9","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"官型の田の神です。高さ85センチメートル、幅80センチメートル、衣冠束帯を身につけた倚像(いぞう：腰掛型)で烏帽子(えぼし)を被ります。正面に「御田之神普守護所」背面に「享保九年(1724)甲辰/奉建立　助成　高崎中/三月吉日/勧進者　河野長元坊/作者　毛利七右衛門」の銘文が残ります。市内では現在約170体の田の神が確認されていますが、この田の神は市内で紀年銘がわかる最も古いものです。","備考":"　"},{"_id":80,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11037,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"東霧島神社の古石塔群","名称_カナ":"ツマギリシマジンジャノコセキトウグン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高崎町東霧島1560","緯度":31.84541778,"経度":131.0599247,"文化財指定日":"1982-02-22","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/273ee5c1-eb12-4164-95c4-f31f42e646d8","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"東霧島神社脇の林の中にあり、宝塔や五輪塔など数十基の石造物が残されています。その形態から中世期のものが多いと考えられています。","備考":"　"},{"_id":81,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11038,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"東霧島神社文書","名称_カナ":"ツマキリシマジンジャブンショ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高崎町東霧島1560","緯度":31.84541778,"経度":131.0599247,"文化財指定日":"1982-02-22","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/637d947f-df5d-4a3b-9393-79603fdd6367","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"東霧島神社に伝わった文書で、応永16年の「島津久豊願文」、文正2年の「島津立久寄進状」、延徳4年の「島津忠昌朱印状断簡」、天正16年光明院宛「島津義弘願文」2点、年未詳「島津義弘書状」、文禄2年「中山王宛島津義久書状写」、万暦22年「島津義久宛中山王書状写」の8点からなります。東霧島神社は代々の島津宗家からの信仰が篤い神社であり、島津宗家に関連する資料が多数伝えられています。","備考":""},{"_id":82,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11039,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"鳥井原百万遍念仏供養塔","名称_カナ":"トリイバルヒャクマンベンネンブツクヨウトウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町石山","緯度":31.84620623,"経度":131.1292955,"文化財指定日":"2011-07-14","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/f4c72d28-a462-4128-8951-e19f2e998e6f","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"高さ約65センチメートル、幅35センチメートル、厚さ18センチメートルの自然石で、真中に「(種字カ)□供養六十六部念佛一□(百)万遍成就所」、右に「[　　]刹女　本願下総□圓　旦那　有水肥前守　同勘解由次官　鶴（雨冠に鶴）田次郎衛門」、左に「[　　]番神　元亀二年癸未正月廿一日　敬白」(□は一字欠損、[　]は複数字欠損)との銘文が残ります。この銘文より、元亀2年(1571)、下総の六十六部の僧がこの地で念仏百万遍読誦を成就した記念に、有水肥前守らの寄付をうけて建てた石塔と考えられています。中世につくられた六十六部に関する石塔は数少なく、市内では高崎町とここの2基が確認されているだけです。","備考":"　"},{"_id":83,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11040,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"中原中常坊墓","名称_カナ":"ナカハラチュウジョウボウノハカ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町穂満坊","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"2012-02-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/b186eda5-5c0d-4d37-ac99-734d9fad3984","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"中原中常(将)坊は庄内の乱で戦死した島津方の武将です。庄内の乱は、慶長4～5年(1599～1600)、都城を舞台にした島津氏と家臣の伊集院氏の争いです。「庄内軍記」によると、慶長4年10月16日、高城大楽(だいらく)の戦いで伊集院氏が島津氏を破りました。島津方は約300名の死者を出し、中原中常坊もその戦いで戦死したと伝えられます。墓石は高さ約87センチメートルの自然石で「(種字)権律師慶秀法印中常坊　慶長四年十一月十六日」と刻まれています。","備考":"私有地のため見学不可"},{"_id":84,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11041,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"諏訪神社石造仁王像","名称_カナ":"スワジンジャセキゾウニオウゾウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市山田町山田10442","緯度":31.83355967,"経度":131.0701017,"文化財指定日":"2012-02-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/83af2fbf-08f5-4aac-b2ca-acc858fb63ca","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"諏訪神社の創建年代は不明ですが、文明18年(1486)の文書に「木之河内諏訪山」とあるのが最も古い記録とされます。仁王像は鳥居の両脇にあり、阿(あ)像は高さ約1メートル13センチ、横幅約70センチメートル、吽(うん)像は高さ1メートル14センチメートル、横幅約70センチメートル。いずれも丸彫り立像で、腕や手首を欠損しています。阿像の背面には、「作者毛利七郎右□□」(□は一字欠損)と人名、吽像の背面には「寛延二年(1749)九月吉祥日」と人名が刻まれています。","備考":"　"},{"_id":85,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11042,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"青花磁器瓶　附石塔","名称_カナ":"セイカジキビン　ツケタリセキトウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城市立美術館","住所":"宮崎県都城市姫城町7−18","緯度":31.71928852,"経度":131.063014,"文化財指定日":"2016-08-01","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/49d296cc-6bcb-4ffe-9f26-60ed016fd4af","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"庄内川を北に望む標高約200ｍの丘陵端部にあたる切畑第3遺跡で見つかった中国染付瓶2点です。石塔1基と白磁瓶1点とともに発見されたもので、石塔には「天正十七年（1589）」の紀年銘があります。この青花磁器瓶は、中国明代の景徳鎮窯産で、2個1対のセットをなしています。中国明代の高級青花磁器の全形をうかがうことのできる貴重な資料です。","備考":""},{"_id":86,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11043,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"脇差（銘　日州正次作/永正元年甲子十二月吉日）","名称_カナ":"ワキザシ(ニッシュウマサツグサク/エイショウガンネンコウシジュウニガツキチジツ)","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"2017-02-17","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/65626453-9a2a-4dd9-9316-b86889d0d6a6","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"作者の正次は、元来は出羽国（山形県）の月山を本拠とする山伏鍛冶でしたが、全国を巡り修行中、室町中期に都城へ移り住み、独特の鍛え方（綾杉肌：波のように湾曲した地肌）を伝えています。１５０４(永正元)年製作のこの脇指は、数少ない正次の作品中、二番目に古い年紀銘であり、当地方の刀工史を研究する資料として貴重なものです。","備考":""},{"_id":87,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11044,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"日待塔","名称_カナ":"ヒマチトウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"建造物","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町有水","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"2017-11-28","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/c9a5694d-51fc-4fb5-93a2-6bae4a7e180b","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"「日待」とは人々が一定の日に決まった場所に集まり一晩中忌みごもりなどをして日の出を拝む行事のことで、日待講中によって造立されたのが日待塔です。都城市内で日待塔が見られるのは1例のみで、高城町有水田尾から田辺に行く道と、有水中学校横から三島神社に通じる道が交わる辻角にあるものが確認されています。高さ約115cm、幅14.5cmの自然石でできており、「○奉御日待供養成就之所／今世安穏後生善所／施主大衆坊敬白／旹寛文十一辛亥天（1671）九月廿日」と刻まれています。","備考":""},{"_id":88,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11045,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"絹本墨画金剛山","名称_カナ":"ケンポンボクガコンゴウサン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城市立美術館","住所":"宮崎県都城市姫城町7−18","緯度":31.71928852,"経度":131.063014,"文化財指定日":"2018-10-03","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/c91baf37-10eb-4434-97a5-5b6ab70b55d9","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"山内多門の作品です。山内多門は旧薩摩藩士の子として現在の都城市に生まれました。都城の絵師・中原南渓(なんけい)に狩野派の技法を学んだ後、都城尋常小学校に勤めます。明治32年に上京、川合玉堂に入門しその後、橋本雅邦にも学びました。日本絵画協会や日本絵画共進会、二葉会、文展で受賞を重ね頭角を現します。明治40年に国画玉成会評議員就任、巽画会審査員、大正9年からは　8度にわたって帝国美術院展覧会審査員を務めました。山水画を得意とし、国内に加えて朝鮮半島の金剛山や中国にも取材しました。昭和5年には明治神宮成徳記念絵画館壁画の一枚を描いています。門下生には、都城出身の大野重幸や北海道出身の岩橋英遠などがいます。","備考":"　"},{"_id":89,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11046,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"後藤家伝来史料","名称_カナ":"ゴトウケデンライシリョウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2020-01-08","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/78ee1546-d942-42c2-b7be-6b73a1608d07","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"都城市高城町の商家であった後藤家に伝えられた、七代目当主後藤伊右衛門(いえもん)から十一代目当主後藤康太郎(やすたろう)までの五人の後藤家当主に関連する、江戸時代中期から昭和期に作成された7,675件の史料です。主な史料に『船印旗幟稲福丸』や『船方諸用控帳』、『櫓産會社規則』などがあり、鹿児島藩の経済政策や近代における宮崎県の経済・金融・政治の変遷及びその位置付けを解明する上で欠かすことができない貴重なものです。","備考":""},{"_id":90,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11047,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"後藤家伝来史料","名称_カナ":"ゴトウケデンライシリョウ","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"高城郷土資料館","住所":"宮崎県都城市高城町大井手2643-5","緯度":31.80090846,"経度":131.134915,"文化財指定日":"2020-01-08","画像":"","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"都城市高城町の商家であった後藤家に伝えられた、七代目当主後藤伊右衛門(いえもん)から十一代目当主後藤康太郎(やすたろう)までの五人の後藤家当主に関連する、江戸時代中期から昭和期に作成された7,675件の史料です。主な史料に『船印旗幟稲福丸』や『船方諸用控帳』、『櫓産會社規則』などがあり、鹿児島藩の経済政策や近代における宮崎県の経済・金融・政治の変遷及びその位置付けを解明する上で欠かすことができない貴重なものです。","備考":""},{"_id":91,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11048,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"千足神社の神像群（36軀）","名称_カナ":"セダラシジンジャノシンゾウグン（サンジュウロック）","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"都城歴史資料館","住所":"宮崎県都城市都島町803","緯度":31.71706836,"経度":131.0504322,"文化財指定日":"2021-04-09","画像":"","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"美川町の千足神社（せだらしじんじゃ）に伝わった36躯の神像群です。平安時代末期から江戸時代の作であり、一木造りで彩色・墨彩の素朴なものが多く、材質は樟材や桧材が大半を占め、形態は、男神や女神の坐像を主体としつつ、善神王半跏像や恵比寿神立像も含まれています。都城市内の神社の中でも数多くの神像を伝えていることに加え、平安時代から江戸時代までの神像の制作技法や様式の変遷を知ることができる点でも貴重です。","備考":""},{"_id":92,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":11049,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"高取原地下式横穴墓出土鉄製品","名称_カナ":"タカトリバルチカシキヨコアナシュツドテツセイヒン","文化財分類":"市指定有形文化財","種類":"美術工芸品","場所名称":"高城郷土資料館","住所":"宮崎県都城市高城町大井手2643-5","緯度":31.80090846,"経度":131.134915,"文化財指定日":"","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/c688c0e6-1ac2-43a1-8440-6f15208880af","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"都城市高城町石山の高取原地下式横穴墓から出土したもので、鉄剣４点と鉄鏃（鉄製のやじり）23点で構成されています。鉄鏃には全国で数点しか発見されていない珍しいものが含まれており、また、鉄剣の鞘に巻かれた絹や木の皮の様子が分かるなど、保存状態も非常に良好です。これらには、在地で生産されたもののほか、畿内地域で生産され広域流通したものが含まれています。この出土品から、古墳時代の都城盆地での鉄生産の技術が分かるほか、畿内地域と何らかの関係をもっていたことも分かります。都城盆地において地下式横穴墓出土鉄製品の最も古いものの一つに当たり、古墳時代の都城盆地の様相を知る上で重要な資料です。","備考":""},{"_id":93,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":12001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"神柱宮の木製小型神殿ならびに神宝類","名称_カナ":"カンバシラグウノモクセイコガタシンデン ナラビニシンポウルイ","文化財分類":"市指定有形民俗文化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市前田町1417","緯度":31.7323419,"経度":131.0720253,"文化財指定日":"1975-03-20","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/efde27d8-a4a9-4f1b-bcaa-7beea66bcbfe","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"神柱宮は、万寿3年(1026)、平季基(たいらのすえもと)の創建と伝えられています。明治6年、梅北町益貫より前田町へ移されました。社宝とされる神殿や面、扁額などは、製作年代も古く、都城の信仰の歴史を知る上で、貴重な資料とされています。","備考":"　"},{"_id":94,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":12002,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"石坂碑　附石坂大明神御奉牒版木","名称_カナ":"イシザカヒ ツケタリイシザカダイミョウジンゴホウチョウフダハンギ","文化財分類":"市指定有形民俗化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町有水","緯度":31.85783985,"経度":131.1189992,"文化財指定日":"2011-01-07","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/387e2aad-40b9-423a-9bc3-83d0e37ab638","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"石坂牛之助の墓と伝えられる石碑です。高さ102センチメートルの自然石型で、中央に「□心　[　　]壽阿弥陀仏」(□は一字欠損。[　]は複数字欠損)、その右に「前石坂牛之助」、左に「慶安三天八月廿二日」と刻まれます。石坂牛之助は修験者と伝えられる人物で、火を操る行者としての伝説も残ります。火伏の神として信仰され、現在でも高城や三股、高崎、野尻などの各地区に残る「火事講」代表者による参詣と「石坂大明神御奉牒札」の配布が続けられています。火伏の神としては、全国的には「愛宕社」や「秋葉社」が知られますが、このような個人の墓が信仰の対象となっている例は珍しいとされます。","備考":"　"},{"_id":95,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":12003,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"塞神碑　附石敢當","名称_カナ":"サイノカミヒ　ツケタリセッカントウ","文化財分類":"市指定有形民俗化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町大井手","緯度":31.80188294,"経度":131.1394916,"文化財指定日":"2011-01-07","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/d3ecedff-4194-4f85-b643-e127bd10d8f3","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"三叉路に塞神塔と石敢當が重なり合うように立てられています。塞神は高さ126センチメートルの自然石型で「塞神」との銘はありますが、記年銘はありません。石敢當は塞神の後にあり、高さ43センチメートル、「石敢當」の銘文と「明治五年」の年号が彫られています。どちらも魔除けや厄災などから守る神として信仰されています。「石敢當」は鹿児島や沖縄を中心に広がり、都城でも数多く見ることができます。「塞神」は全国的には多いのですが、都城では2基しか確認されていません。","備考":"　"},{"_id":96,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":12004,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"有水備前碑","名称_カナ":"アリミズビゼンノヒ","文化財分類":"市指定有形民俗化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高城町有水","緯度":31.85472404,"経度":131.1310075,"文化財指定日":"2011-07-14","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/82ea9865-df82-4751-b79e-f0a9c81d3458","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"高さ50センチメートル、幅25センチメートル、「心　有水備前　源長常本上座　敬白　旹天正十八天己丑(ママ)八月四日」との銘文が刻まれています。有水備前は有水を領していたと伝えられる人物です。江戸時代、稲虫の害があったとき、有水備前のたたりであるとして「有水鉦踊り(ありみずかねおどり)」の奉納が始められたとの伝承もあります。この伝承は全国各地に広がる斉藤実盛の「虫送り」行事の変形とみられ、現在も続く「有水鉦踊り」と合わせ、江戸時代の農耕信仰を伝える貴重な歴史資料となっています。","備考":"　"},{"_id":97,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":12005,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"香禅寺石碑群　附庚申塔（文政七年銘）","名称_カナ":"コウゼンジセキヒグン　ツケタリコウシントウ（ブンセイナナネンメイ）","文化財分類":"市指定有形民俗化財","種類":"","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2012-10-11","画像":"","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"","備考":""},{"_id":98,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":12006,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"長野神社男神像及び女神像","名称_カナ":"ナガノジンジャダンシンゾウオヨビジョシンゾウ","文化財分類":"市指定有形民俗化財","種類":"","場所名称":"","住所":"都城市高城町四家1776","緯度":null,"経度":null,"文化財指定日":"2014-02-18","画像":"","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"高城町四家に鎮座する長野神社の4躯の神像です。烏帽子の有無や冠の形状から2躯の男神像と2躯の女神像に分けられ、作風から4躯ともに同時期に造られたものと考えられています。製作時期は、細部を彫出しない素朴な作風から室町時代後期頃と推測されています。","備考":""},{"_id":99,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":12007,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"島津稲荷神社奉納面","名称_カナ":"シマヅイナリジンジャホウノウメン","文化財分類":"市指定有形民俗化財","種類":"","場所名称":"都城島津邸","住所":"宮崎県都城市早鈴町18-5","緯度":31.71803197,"経度":131.0685139,"文化財指定日":"2015-04-07","画像":"","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"島津稲荷神社に奉納された面です。裏面に「永和五年（1379）□月十五日　草部行栄（花押）」と墨書されています。市内に現存する記念銘のある奉納面で、最も古いものです。","備考":"寄託史料"},{"_id":100,"都道府県コード又は市区町村コード":45202,"NO":13001,"都道府県名":"宮崎県","市区町村名":"都城市","名称":"春日神社の牛どん（春日打）","名称_カナ":"カスガジンジャノベブドン（カスガウチ)","文化財分類":"市指定無形民俗文化財","種類":"","場所名称":"","住所":"宮崎県都城市高木町4129−2","緯度":31.78697505,"経度":131.1104944,"文化財指定日":"1974-05-01","画像":"https://data.bodik.jp/dataset/452025_bunkazai_picture/resource/06cc96e7-8c73-4392-bcc6-ceb0ab43a3a5","画像_ライセンス":"CC BYに準拠。","説明":"旧正月9日、春日神社に奉納される「田楽系」の神事芸能です。「木製の牛」を主人公に、田打ち・代かき・種まきをまねて、ユーモラスに演じ、豊穣を祈ります。江戸時代の地誌「三国名勝図会」や「庄内地理志」には「打植祭」とも呼ばれていたと記されています。","備考":"　"}], "fields": [{"id": "_id", "type": "int"}, {"id": "\u90fd\u9053\u5e9c\u770c\u30b3\u30fc\u30c9\u53c8\u306f\u5e02\u533a\u753a\u6751\u30b3\u30fc\u30c9", "type": "numeric"}, {"id": "NO", "type": "numeric"}, {"id": "\u90fd\u9053\u5e9c\u770c\u540d", "type": "text"}, {"id": "\u5e02\u533a\u753a\u6751\u540d", "type": "text"}, {"id": "\u540d\u79f0", "type": "text"}, {"id": "\u540d\u79f0_\u30ab\u30ca", "type": "text"}, {"id": "\u6587\u5316\u8ca1\u5206\u985e", "type": "text"}, {"id": "\u7a2e\u985e", "type": "text"}, {"id": "\u5834\u6240\u540d\u79f0", "type": "text"}, {"id": "\u4f4f\u6240", "type": "text"}, {"id": "\u7def\u5ea6", "type": "numeric"}, {"id": "\u7d4c\u5ea6", "type": "numeric"}, {"id": "\u6587\u5316\u8ca1\u6307\u5b9a\u65e5", "type": "text"}, {"id": "\u753b\u50cf", "type": "text"}, {"id": "\u753b\u50cf_\u30e9\u30a4\u30bb\u30f3\u30b9", "type": 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