{"help": "https://data.bodik.jp/api/3/action/help_show?name=datastore_search", "success": true, "result": {"include_total": true, "limit": 100, "records_format": "objects", "resource_id": "ec90470e-78c6-441b-b883-4c43a2089ca2", "total_estimation_threshold": null, "records": [{"_id":1,"名称":"三浦義一歌碑②(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)に昭和41年(1966)6月4日に建立されました｡高さ92cmで｢としつきは過ぎにしとおもふ近江ぬのみずうみのうえをわたりゆく月｣と歌われています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":2,"名称":"栃翁句碑(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)に大正9年(1920)春に建立されました｡高さ1.28mで｢鴬のぽっと出らしき初音哉｣と詠まれています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":3,"名称":"史蹟小茶臼山古墳の碑(秋葉台)","説明":"高さ1.82mで昭和5年3月に建てられました(秋葉台33番街区)｡｢史蹟小茶臼山古墳｣と刻まれています｡史蹟名勝天然記念物法により1921年に内務大臣から指定されています｡","X座標":-1073561.34,"Y座標":-11210251.82},{"_id":4,"名称":"瀬川露城句碑①(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､高さ85cmで｢粟津野に深田も見えず月の秋｣と詠まれています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":5,"名称":"壬申の乱史跡顕彰碑(秋葉台)","説明":"秋葉神社(秋葉台34-23)に昭和48年8月に建立されました｡高さ1.22mで表には｢壬申の乱史跡顕彰碑｣と題額し｢三条西三光院実枝卿茶臼山参拝之詠､紅葉葉にかかる時雨は茶磨山むかしを偲ぶ涙なりけり｣との和歌を刻んでいます｡","X座標":-1063154.06,"Y座標":-11200712.36},{"_id":6,"名称":"岡田魯人句碑(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治42年(1909)6月に無名庵14世を偲んで建立されました｡高さ80cmで｢月の湖鳰は浮きたりしづﾐたり｣と詠まれています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":7,"名称":"杉浦重剛誕生地の碑(秋葉台)","説明":"1855年膳所藩の儒学者杉浦重文の次男として膳所城下の別保で生まれました｡ｲｷﾞﾘｽ留学後私塾称好塾を拠点にして民間教育にあたりました｡欧化主義に反対して国粋主義を唱え､雑誌｢日本人｣の創刊に尽力しています｡晩年は東宮御学問御用掛として倫理を進講しました｡秋葉台4番街区の公園に､昭和10年10月に建立されました｡高さ6.15mで表に｢杉浦重剛先生誕生地｣と刻し､裏面にその略歴を記しています｡","X座標":-1058561.65,"Y座標":-11176377.01},{"_id":8,"名称":"洞神社跡碑(国分2)","説明":"へそ石の向かい側の山中(国分2丁目17番街区付近)にあります｡洞神社は現在は､近津尾神社の境内に祭祀されています｡高さ98cmで｢保良宮趾､今洞宮ﾄ呼ﾌﾞ小祠ﾊ近津尾神社境内地へ明治四十二年(1909)十二月廿八日ﾆ移転ｽ｣と刻まれています｡","X座標":-1032320.89,"Y座標":-11512857.98},{"_id":9,"名称":"富岡乙也句碑(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治6年(1873)5月に建立されました｡高さ76cmで｢行燈のひとり消けりけさの秋｣と詠まれています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":10,"名称":"飯田青水句碑(仰木4)","説明":"昭和48年11月に御所の山(仰木4丁目2-50の北西側)に建てられました｡高さ98cmで､｢比良山に初雪ありて冬構｣と詠まれています｡","X座標":-1094562.01,"Y座標":-9890617.24},{"_id":11,"名称":"石坐神社の碑(西の庄)","説明":"はじめは明治28年5月に石坐神社(西の庄15-16)に建立されましたが､昭和36年の第二室戸台風で倒壊したため､拓本により昭和49年に復元されました｡高さ1.46mで｢石坐神社碑｣と題し､同社の沿革を記しています｡本多康譲により題額･撰文されています｡","X座標":-1020938.11,"Y座標":-11088916.18},{"_id":12,"名称":"瀬川露城句碑②(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､高さ37cmで｢秋草をうゑこみて｢さまざまの露ひとむらのさかり哉｣｣と詠まれています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":13,"名称":"膳所藩遵義堂のあと(膳所2)","説明":"今の膳所高校の地(膳所2丁目11-1)に膳所藩主本多康禎が文武両道を磨くために藩校遵義堂を1808年に建てられました｡ここで藩士の子弟は読書､算術､習字及び槍､剣､馬､柔の術を学びました｡","X座標":-1008571.46,"Y座標":-11140384.01},{"_id":14,"名称":"中西悟堂歌碑(坂本本町)","説明":"延暦寺の西塔の恵亮堂の前､丸い碑が立っています｡悟堂は天台宗の僧で松江市普門院の住職も勤めました｡この碑は文化功労者として賞を受けた時､友人たちが建てました｡｢樹の雫しきりに落つる暁闇の比叡をこめて啼くほととぎす｣と刻まれています｡","X座標":-1517015.17,"Y座標":-10274225.39},{"_id":15,"名称":"滋賀･京都府県境碑(山中町)","説明":"山中町の京都と滋賀の県境にあり､昔の旅人の目印になりました｡高さ1.06mで｢京都府･滋賀県府県境｣と刻まれています｡","X座標":-1675489.93,"Y座標":-10640594.17},{"_id":16,"名称":"米田雄郎歌碑(坂本本町)","説明":"蒲生町極楽寺の住職だった雄郎の辞世の句が､約2mの高さの自然石に自筆で書かれています｡碑は､延暦寺の通称にない堂と呼ばれる法華堂と常行堂の前にあります｡｢しづやかに輪廻生死の世なりけりはるくるそらのかすみしてけり 雄郎｣と刻まれています｡","X座標":-1516266.58,"Y座標":-10281005.06},{"_id":17,"名称":"山津波復興記念碑(山中町)","説明":"昭和11年6月29日に建立されました｡昭和10年6月28~29日の大雨により比叡山系の一角から発生した山津波による山中町被害の復興を記念して建てられたものです｡","X座標":-1629376.5,"Y座標":-10644066.21},{"_id":18,"名称":"亀塔(薬樹院の碑)(坂本本町)","説明":"織田信長による比叡山延暦寺の焼き打ちのあと､再興に努めた薬樹院の全宗の行状を記した記念碑です｡日吉大社横から比叡山延暦寺へ登る｢本坂｣の途中にあります｡","X座標":-1411172.63,"Y座標":-10298733.37},{"_id":19,"名称":"九条武子歌碑(坂本本町)","説明":"延暦寺西塔釈迦堂の前に､木々に囲まれるように立っています｡歌碑に刻まれた文字は､磨滅して読みにくいですが､ｾｷﾚｲのひな鳥を女性らしい視点で詠んでいます｡｢山の院繻子の端にせきれいの巣ありひな三つ母まちて鳴く｣と詠まれています｡","X座標":-1512443.5,"Y座標":-10266838.29},{"_id":20,"名称":"崇福寺跡碑(滋賀里町甲)","説明":"大典記念として大正4年(1915)に建立されました｡高さ1.85m｢崇福寺旧址｣と刻まれています｡","X座標":-1377691,"Y座標":-10606579.2},{"_id":21,"名称":"吉井勇歌碑(坂本本町)","説明":"延暦寺の東塔､阿弥陀堂前の一隅にある高さ1.15mで､昭和36年11月に建立された歌碑です｡比叡山に関する吉井勇の歌は約300首あり､その中の一つを刻んだものです｡霊山の自然のすばらしさを詠んでいます｡｢雷すでに起らずなりぬ秋ふかく大比叡の山しづまりたまへ｣と詠まれています｡","X座標":-1470237.8,"Y座標":-10326063.35},{"_id":22,"名称":"宮沢賢治歌碑(坂本本町)","説明":"延暦寺の根本中堂前広場の東北すみの高台にあります｡詩人として､童話作家として秀作を多く残した宮沢賢治は熱心な法華経の信者で､この歌は法華経信仰のすばらしさを詠んでいます｡｢根本中堂 ねがはくは妙法如来正へん知大師のみ旨成らしたまへ 宮沢賢治｣と刻まれています｡","X座標":-1448676.61,"Y座標":-10307610.77},{"_id":23,"名称":"明治天皇聖蹟碑(大谷町)","説明":"月心寺(大谷町27-9)内に建てられています｡高さ1.71m｢明治天皇駐蹕之処､明治元年(1868)九月二十日､同二年三月七日｣と刻まれています｡","X座標":-1375002.87,"Y座標":-11179659.96},{"_id":24,"名称":"高浜虚子句碑(大谷町)","説明":"月心寺(大谷町27-9)にあります｡高さ76cm｢真清水の走井餅を二つ食べ｣と詠まれています｡","X座標":-1375002.87,"Y座標":-11179659.96},{"_id":25,"名称":"上原茂次顕彰碑(皇子が丘1)","説明":"皇子が丘公園(皇子が丘1丁目1番街区)内に昭和56年(1981)10月に建立されました｡高さ1.28m｢皇子が丘公園の由来｣の碑､1.93m｢上原茂次氏像(ﾚﾘｰﾌ)｣の碑の2基からなります｡","X座標":-1352935.29,"Y座標":-10831838.06},{"_id":26,"名称":"松尾芭蕉句碑(大谷町)","説明":"月心寺(大谷町27-9)の小野小町の像を祀る小堂の後ろに芭蕉の句碑があります｡句は､新年に粟津の草庵で詠んだものといわれ､大津土産として庶民に愛された大津絵を詠んだものです｡高さ1.12mで｢大津絵の筆の始は何仏 はせを(芭蕉)｣と刻まれています｡","X座標":-1375002.87,"Y座標":-11179659.96},{"_id":27,"名称":"若鷲の碑(御陵町)","説明":"市立市民文化会館(御陵町2-3)の庭内にあり高さ1.5m(台石を含みます)です｡昭和50年に大津陸軍少年飛行兵学校関係者により建立されました｡大津陸軍少年飛行学校は､昭和18年4月別所の地に開校し､市内中等学校生徒への飛行訓練を開始しましたが昭和20年8月終戦により閉鎖されました｡","X座標":-1344441.24,"Y座標":-10916271.3},{"_id":28,"名称":"高浜虚子句碑(坂本本町)","説明":"ﾂﾊﾞｷに囲まれた延暦寺の横川の虚子塔(横川中堂から東に向かって進む左手)の前にあります｡虚子は､天言座主渋谷慈鎧と親交があり小説の構想を練るためなどにしばしば訪れたといいます｡｢清浄な月を見にけり峰の寺 虚子｣と刻まれています｡","X座標":-1363641.8,"Y座標":-10020585.07},{"_id":29,"名称":"日清戦争戦死者記念碑(大谷町)","説明":"蝉丸神社(大谷町21-21)に建てられています｡高さ3.28m､｢明治廿七､八年没忠勇戦死者･紀念碑｣と刻まれています｡","X座標":-1335661.92,"Y座標":-11152603.62},{"_id":30,"名称":"保田興重郎歌碑(神宮町1)","説明":"近江神宮(神宮町1-1)の時計博物館前にあり､昭和59年(1984)4月に建立されました｡高さ2.3m｢さヾなﾐのしがの山路の春にまよひひとり眺めし花ざかりかな｣と詠まれています｡","X座標":-1349506.87,"Y座標":-10740644.34},{"_id":31,"名称":"旧逢坂山ﾄﾝﾈﾙ跡碑(大谷町)","説明":"京阪大谷駅から大谷団地に向かう道が名神高速道路を跨ぐ付近(大谷町14番街区の南側山手)に､昭和37年12月に名神高速道路工事に際して建てられました｡碑の建つ位置は旧逢坂山ﾄﾝﾈﾙの西口にあたります｡本来の位置は地下18mに埋没しています｡高さ1.84m｢旧東海道線 逢坂山とんねる跡｣と刻まれています｡","X座標":-1335641.94,"Y座標":-11139046.77},{"_id":32,"名称":"南志賀町廃寺跡の碑(南志賀1)","説明":"南志賀町廃寺跡の碑は､南志賀児童遊園地(南志賀1丁目12番街区)内に昭和39年3月31日に建立されました｡高さ2.58m｢史跡南滋賀町廃寺跡､昭和三十二年(1957)十月十一日指定｣と刻まれています｡","X座標":-1328919.14,"Y座標":-10699080.32},{"_id":33,"名称":"藤本映湖句碑(御陵町2)","説明":"大津市立市民文化会館(御陵町2-3)の庭にある句碑で高さ1.68m｡大津市出身で､大津にある俳句結社花藻の主宰者映湖が､秋を詠んだ句が刻まれています｡｢肘つけば肘より冷ゆる山の秋｣","X座標":-1346482.62,"Y座標":-10925511.57},{"_id":34,"名称":"志賀宮址碑(錦織2)","説明":"志賀宮址碑(錦織2丁目8-14南側)は､明治30年に時の有志により建碑されたと言われています｡高さ2.57m｢志賀宮址碑｣と題額し､撰文が刻まれています｡大津には､かって天智天皇の近江大津京があり､天皇の死とともに滅び､年月とともにその旧跡も不明となりました｡古老の話などから推定の場所に建てられましたが､昭和49年に碑の南側から遺構が発見され､大津宮跡の門跡と断定され､証明されました｡","X座標":-1324465.97,"Y座標":-10774570.89},{"_id":35,"名称":"三品千鶴歌碑(坂本本町)","説明":"延暦寺の横川､元三大師堂の左手､山側の木立の中にある歌碑です｡木々に囲まれ､自然石をそのまま用いたもので､良源とその母である月子姫のことを詠んだ歌が刻まれています｡｢山ろくのみ母したひて夜ごと灯をかヽげましたるひじりかなしも｣と刻まれています｡","X座標":-1345401.33,"Y座標":-10015066.14},{"_id":36,"名称":"近江神宮の歌碑(神宮町1)","説明":"近江神宮(神宮町1-1)境内には､万葉時代からの多くの歌碑が残されています｡小倉百人一首で親しまれている､天智天皇の歌や柿本人麻呂､保田輿重郎などの碑があります｡","X座標":-1343151.82,"Y座標":-10727405.16},{"_id":37,"名称":"花折ﾄﾝﾈﾙ竣工顕彰碑(葛川坂下町)","説明":"花折ﾄﾝﾈﾙ葛川側入り口横に､建っています｡高さは1.92m､昭和58年11月建立されました｡","X座標":-1306441.53,"Y座標":-8982029.37},{"_id":38,"名称":"水原秋桜子歌碑(御陵町2)","説明":"大津市立市民文化会館(御陵町2-3)の庭に立ついくつかの句碑のうちの一つです｡句は秋桜子が馬酔木会の招きで滋賀県に来た時のもので､近江の景色のすばらしさを詠んでいます｡｢浦曲まで月夜くまなし鴨わたる｣","X座標":-1343934.71,"Y座標":-10916580.12},{"_id":39,"名称":"沢野井家由緒碑(逢坂1)","説明":"関蝉丸神社上社(逢坂1丁目20番街区)にあり､高さ1.03mで蝉丸にご奉仕したと伝える沢野井家の由緒を顕彰し､三六代沢野井治兵衛秋近の歌｢沢の井の其みなもとを尋ぬれﾊﾞ せきの清水のながれなりけり｣を付しています｡","X座標":-1302418.59,"Y座標":-11132623.55},{"_id":40,"名称":"柿本人麻呂歌碑(神宮町1)","説明":"近江神宮(神宮町1-1)の近江時計眼鏡宝飾専門学校前に昭和53年(1978)秋に建立されました｡高さ90cm｢淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念(おうみのうみゆうなみちどりながなけばこころもしぬにいにしえおもほゆ)｣と刻まれています｡","X座標":-1342169.97,"Y座標":-10749281.66},{"_id":41,"名称":"崩坂改修記念碑(葛川坂下町)","説明":"坂下町葛川橋南詰め付近､安曇川右岸の若狭街道旧道沿いに立っています｡1823年6月の建立で､高さは69ｾﾝﾁﾒｰﾄﾙの記念碑です｡崩坂は街道中の難所で､その改修は待ち望まれていました｡","X座標":-1284638.455,"Y座標":-8744293.972},{"_id":42,"名称":"獣魂碑(逢坂2)","説明":"長安寺(逢坂2丁目3-23)に昭和2年(1927)11月に建てられました｡高さ1.66mで｢獣魂碑｣と刻まれています｡","X座標":-1284032.5,"Y座標":-11039599.47},{"_id":43,"名称":"平田一翁歌碑(神宮町1)","説明":"近江神宮(神宮町1-1)初代宮司を記念して社務所前に昭和43年(1968)2月に建立されました｡高さ78cm｢比叡ヶ嶺に近く琵琶湖を目下に大神の辺に永世住まなむ｣と歌われています｡","X座標":-1341623.64,"Y座標":-10722169.68},{"_id":44,"名称":"横井時常歌碑(神宮町1)","説明":"近江神宮(神宮町1-1)の境内に昭和55年(1980)5月5日に建立されました｡高さ70cm｢とし神はいま帰らすか左義長の青竹はぜて高くもえ立つ｣と歌われています｡","X座標":-1341623.64,"Y座標":-10722169.68},{"_id":45,"名称":"蝉丸神社由緒碑(大谷町)","説明":"昭和58年5月に蝉丸神社(大谷町21-21)に建立されました｡高さ91cm､蝉丸神社の由緒を刻み､蝉丸の歌｢これやこのゆくもかえるもわかれてはしるもしらぬもあふさかのせき｣を付しています｡","X座標":-1336169.46,"Y座標":-11152911.02},{"_id":46,"名称":"中西富直の碑(音羽台)","説明":"逢坂小学校(音羽台6-1)に大正9年1月に建立されました｡高さ2.38mで｢中西翁献碑｣と題し､大津南尋常小学校東浦分教場の訓導として地域の教育に尽くした中西氏の功績を顕彰しています｡","X座標":-1247313.67,"Y座標":-11069536.22},{"_id":47,"名称":"松尾芭蕉句碑(園城寺町)②","説明":"三井寺の円満院(園城寺町33)の前庭にあり､高さ1.45mで芭蕉の直筆をそのまま拡大し刻んだものです｡月見の宴を催した時のことを､中国の故事をもちいて詠んだものです｡｢三井寺の門たヽかばやけふの月｣昭和38(1963)年10月に建立されました｡","X座標":-1332554.56,"Y座標":-10934774.59},{"_id":48,"名称":"郷土垣内氏の碑(音羽台)","説明":"逢坂小学校(音羽台6-1)に昭和7年5月に建立されました｡高さ1.31mで｢郷土垣内氏世々住居之跡｣と刻まれています｡","X座標":-1247313.67,"Y座標":-11069536.22},{"_id":49,"名称":"逢坂関址碑(音羽台)","説明":"逢坂小学校(音羽台6-1)に昭和5年10月に建てられました｡高さ1.95mで｢逢坂関址｣と刻まれています｡","X座標":-1247313.67,"Y座標":-11069536.22},{"_id":50,"名称":"柿本人麻呂歌碑(御陵町3)","説明":"市役所(御陵町3-1)時計塔の下にあり､溢水石の表面に大津宮跡を訪ねた柿本人麻呂の反歌1首が刻まれています｡上部から碑面を水が流れ､歌碑としては珍しいものです｡｢さヾなみの志賀の大わだよどむとも昔の人に亦も逢はめやも｣","X座標":-1322860.41,"Y座標":-10891961.36},{"_id":51,"名称":"吟友の碑(神宮1)","説明":"近江神宮(神宮町1-1)の境内に昭和44年(1969)に建立されました｡高さ2m｢吟友之碑｣と刻み､弘文天皇の漢詩を付しています｡｢皇明は日月と光らい､帝徳は天地と載せたまう､三才並泰昌､万国臣義を表す｣と刻まれています｡","X座標":-1314282.35,"Y座標":-10742234.8},{"_id":52,"名称":"石堂頼房の碑(音羽台)","説明":"霊仙正福寺(音羽台14-20)に昭和55年5月に建立されました｡高さ1.34mの碑で｢石堂頼房公之碑｣と題し､南北朝期の武将で､のち正福寺の中興となった頼房の履歴を記して顕彰しています｡","X座標":-1247075.32,"Y座標":-11080628.57},{"_id":53,"名称":"滋賀県女子師範学校等跡地の碑(末広町)","説明":"大津駅前児童公園(末広町9番街区)に昭和50年(1975)10月25日に建立されました｡高さ53cm｢滋賀県女子師範学校･滋賀県立大津高等女学校･滋賀県立女子師範付属小学校･滋賀大学学芸学部付属学校園｣と刻まれています｡","X座標":-1238655.44,"Y座標":-11041201.53},{"_id":54,"名称":"平忠度歌碑(逢坂2)","説明":"この勅撰集の歌は､平清盛の弟で文学好きの武将忠度が詠んだ歌です｡天皇の命にそむいた賊将であることから､詠み人知らずとされました｡大正3年6月の建立で｢さゞ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな｣と詠まれています｡長等公園(小関町1番街区)の南側山手の桜ヶ丘休憩広場(逢坂2丁目)にあります｡","X座標":-1303783.23,"Y座標":-11023242.31},{"_id":55,"名称":"大津城跡碑(浜大津5)","説明":"浜大津5丁目2-29北西側付近に昭和46年(1971)3月に建立されました｡高さ72cm｢大津城跡｣と刻まれています｡","X座標":-1231447.21,"Y座標":-10959561.53},{"_id":56,"名称":"小町塚歌碑(逢坂1)","説明":"関蝉丸神社(下社､逢坂1丁目15-6)の裏山に､この辺りに住んでいたという小野小町の塚がひっそりとたたずんでいます｡自然石にしめ縄がかけられ､百人一首でお馴染みの歌が刻まれています｡｢花のいろﾊうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに｣","X座標":-1287358.11,"Y座標":-11060854.52},{"_id":57,"名称":"長善寺本堂再建碑(坂本1)","説明":"長善寺本堂再建碑(坂本1丁目1番街区､穴太野添墓地内)は､大正14年(1925)10月に建立されました｡高さ1.8mで｢高龍山長善寺本堂再建碑｡釈大顕発願の再建の経緯を記す｡本堂落成は明治30年｣と刻まれています｡","X座標":-1233829.159,"Y座標":-10453997.9},{"_id":58,"名称":"小野小町歌碑(逢坂1)","説明":"関蝉丸神社下社(逢坂1丁目15-6)の社殿裏手の山裾に建てられています｡小町冢の名で知られています｡｢小町冢 花のいろﾊうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに｣と歌っています｡建立年は不明です｡","X座標":-1287358.11,"Y座標":-11060854.52},{"_id":59,"名称":"琵琶湖周航歌碑(観音寺)","説明":"旧制第三高等学校旧艇庫(観音寺1番街区)前に､われは湖の子と刻まれた碑が立っています｡副碑には､ﾎﾞｰﾄの中で作詞されたという琵琶湖周航の歌の歌詞が刻まれています｡","X座標":-1265880.51,"Y座標":-10929320.76},{"_id":60,"名称":"大津事件記念碑(京町2)","説明":"明治24年(1891)国賓として来日中のﾛｼｱの皇太子ﾆｺﾗｲ･ｱﾚｸｻﾝﾄﾞﾛﾋﾞｯﾁが警護の巡査に襲われるという事件が発生しました｡この事件のあった京町2丁目11-2の町角に｢此付近露国皇太子遭難之地｣と記された碑が立っています｡","X座標":-1233550.28,"Y座標":-11015326.94},{"_id":61,"名称":"高浜年尾句碑(茶が崎)","説明":"旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ1.26m｢かもめとび早春湖畔ﾎﾃﾙあり｣と詠まれています｡","X座標":-1261189.84,"Y座標":-10835970.27},{"_id":62,"名称":"藤原定家の爪塚(坂本本町)","説明":"安楽律院境内の定家歌碑左手の高みにあります｡定家は､鎌倉時代前期､父俊成とともに花壇の重鎮として活躍しました｡｢新古今和歌集｣や｢小倉百人一首｣の撰者として知られています｡","X座標":-1233066.12,"Y座標":-10086395.91},{"_id":63,"名称":"鈴鹿野風呂句碑(茶が崎)","説明":"旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ97cm｢湖を東枕に明易起｣と詠まれています｡","X座標":-1261189.84,"Y座標":-10835970.27},{"_id":64,"名称":"びわ湖八景の碑(坂本5)","説明":"昭和26年(1951)1月に早尾地蔵(坂本5丁目2番街区南西端)の前に建立されました｡高さ1.61mで｢びわ湖八景､煙雨･比叡の樹林｣と刻まれています｡","X座標":-1221712.34,"Y座標":-10307321.43},{"_id":65,"名称":"明智左馬之助の碑(柳が崎)","説明":"国道161号線沿いの柳が崎8番街区に昭和29年(1954)10月に建立されました｡高さ1.64m｢明智左馬之助光俊駒止松｣と刻まれています｡","X座標":-1221062.03,"Y座標":-10774401.14},{"_id":66,"名称":"木下碧露句碑(茶が崎)","説明":"旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ79cm｢鴨はまだ鳰一列に朝の湖｣と詠まれています｡","X座標":-1261189.84,"Y座標":-10835970.27},{"_id":67,"名称":"明治天皇聖蹟碑(中央2)","説明":"大津別院(中央2丁目5-25)に明治13年(1880)6月29日と7月14日の行幸を記念して建立されました｡高さ2.08m｢明治天皇聖蹟｣と刻まれています｡","X座標":-1216058.22,"Y座標":-11015349.91},{"_id":68,"名称":"木下はぎ江句碑(茶が崎)","説明":"旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ93cm｢おおびわの湖天の月の大きひかり｣と詠まれています｡","X座標":-1261189.84,"Y座標":-10835970.27},{"_id":69,"名称":"明治天皇行在所の碑(中央2)","説明":"大津別院(中央2丁目5-25)に昭和14年11月に建てられました｡高さ2.02m｢明治天皇大津別院行在所､史蹟名勝天然記念物保存法ﾆ依ﾘ史蹟ﾄｼﾃ昭和十三年(1938)八月文部大臣指定｣と刻まれています｡","X座標":-1215804.31,"Y座標":-11015042.14},{"_id":70,"名称":"池坊専正歌碑(京町1)","説明":"榮泉寺(京町1丁目1-10)に明治31年(1898)7月に建立されました｡高さ1.33m｢偲ぶれば草場のかげになくむしをすぎにし君の声かとぞ思ふ｣と詠まれています｡","X座標":-1250799.76,"Y座標":-11023314.82},{"_id":71,"名称":"松田道之の碑(京町4)","説明":"明治15年(1882)11月､東京府知事在職中に没した松田道之の功績をたたえて高観音(近松寺)に建立されました｡その後､現在の地(京町4丁目1-1県庁前庭)に移転されました｡道之は鳥取藩士久保氏の次男として生まれ､尊皇攘夷運動に活躍して､明治維新後は明治政府に登用され､地方制度の整備に尽力しました｡高さ1.6mで撰文が刻まれています｡県庁前庭の西南隅に建てられています｡","X座標":-1205190.22,"Y座標":-11040321.11},{"_id":72,"名称":"佐治誠吉句碑(春日町)","説明":"大津駅(春日町1-3)西側の山吹地蔵の前に､昭和25年盂蘭盆(うらぼん)に建立されました｡高さ1.73mで｢木曽どのをしたひ山吹ちりにけり｣と詠んでいます｡","X座標":-1241461.26,"Y座標":-11053830.34},{"_id":73,"名称":"明治天皇聖蹟碑(島の関)","説明":"中央小学校(島の関1-60)に師範学校創立60周年記念として昭和10年(1935)10月15日に建立されました｡高さ6.15mで､表に｢明治天皇聖蹟｣と題し､裏に｢明治11年(1878)10月13･15日の行幸の経緯を記しています｡","X座標":-1195517.66,"Y座標":-11010446.68},{"_id":74,"名称":"藤原定家歌碑(坂本本町)","説明":"坂本の安楽律院境内にあります｡高さ1.3mで｢ふむだにもゑにしなるてふ此山の土となる身ﾊたのもしきかな 京極黄門所詠 為紀又書｣と刻まれています｡明治22年に建立されました｡この碑の左手の高みには定家の爪塚があります｡","X座標":-1233066.12,"Y座標":-10086395.91},{"_id":75,"名称":"波止築造の碑(島の関)","説明":"明治5年に湖南町の沖に波止めとして防波堤2基が築造されました｡その後､湖南汽船が創設され(最初は紺屋が関汽船と言いました)この防波堤を利用して谷口嘉助氏が石碑をつくり､防波堤の上(島の関14-1市民会館東側)に据え付けました｡当初の湖南水上交通を偲ぶことができます｡","X座標":-1187362.71,"Y座標":-10977489.09},{"_id":76,"名称":"松雄芭蕉句碑(坂本4)","説明":"織田信長の焼討の時代から今日に受け継がれている滋賀院(坂本4丁目6-1)に､明治30年(1897)11月3日に､坂本ｹｰﾌﾞﾙ前に建てられた真葛原から移転されました｡高さ1.5mで､｢叡慮にて賑ふ民や庭かまど｣と詠まれています｡坂本には滋賀院があるというだけで､京都の雰囲気を楽しめるところがあります｡","X座標":-1205775.62,"Y座標":-10323671.84},{"_id":77,"名称":"滋賀県民の歌の碑(京町3)","説明":"滋賀会館(京町3丁目4-22)ﾊﾞｽ停横に立つ碑です｡碑面には､一般公募によって作られた滋賀県民の歌の歌詞と当時の知事服部岩吉氏の肖像が刻まれています｡","X座標":-1199100.21,"Y座標":-11036015.38},{"_id":78,"名称":"日吉茶園の碑(坂本4)","説明":"京阪電車石山坂本線｢坂本比叡山口｣駅のすぐ東に日吉大社の茶園(坂本4丁目10-28京阪電車石山坂本線｢坂本比叡山口｣駅北東側)があり､この名で呼ばれています｡高さ1.64mで｢日吉茶園の碑｣と題額し､最澄が唐より日本に初めて茶を伝えたとする撰文が記されています｡日本茶園発祥の地として､大正10年(1921)に建立されています｡","X座標":-1185234.93,"Y座標":-10306136.37},{"_id":79,"名称":"餅九蔵植林記念碑(膳所池ﾉ内町)","説明":"#VALUE!","X座標":-1163913.34,"Y座標":-11275154.45},{"_id":80,"名称":"花登筐文学碑(島の関)","説明":"大津市民会館(島の関14-1)北東側の湖岸に昭和59年9月30日に建立されました｡主碑と副碑からなり､主碑は高さ2.95m｢泣くは人生 笑うは修行 勝つは根性 花登筺｣と自筆の座右銘が刻まれています｡副碑は高さ1.95mで花登筺の略歴を記しています｡昭和3年大津市上北国町で商家の次男として生まれ､学生時代に演劇に志し､民間放送の開始とともにﾃﾚﾋﾞ作家として頭角を表しました｡｢やりくりｱﾊﾟｰﾄ｣｢番頭はんと丁稚どん｣で人気を確立しました｡","X座標":-1183816.15,"Y座標":-10979342.26},{"_id":81,"名称":"自治功労者の碑(伊香立下在地町)","説明":"下在地町八所神社(伊香立下在地町1316)の境内に建っています｡高さ2.43mで昭和32(1957)年10月に建立され｢自治功労者之碑｣と刻まれています｡","X座標":-1155824.35,"Y座標":-9482600.73},{"_id":82,"名称":"柳緑花紅詩碑(打出浜)","説明":"藤尾追分町の東海道と伏見街道の分岐点にあったものです｡蘇東坡の詩の一部が刻まれ､柳緑花紅の標石と呼ばれて｢広重旅日記｣にも紹介されています｡","X座標":-1152924.26,"Y座標":-11007111.28},{"_id":83,"名称":"吉井勇歌碑(打出浜)","説明":"打出浜にある琵琶湖文化館(打出浜1-1)前の湖中に､昭和36年(1961)3月に建立されました｡琵琶湖に浮かぶ和城ｽﾀｲﾙで建てられた文化館の美しさをたたえる句が刻まれています｡｢うつし世の夢をうつヽに見せしめぬ琵琶湖のうえにうかぶ美の城｣","X座標":-1152413.77,"Y座標":-11004338.9},{"_id":84,"名称":"穴穂神社石碑(穴太3)","説明":"穴穂神社御旅所の前に建てられています｡","X座標":-1246754.85,"Y座標":-10468735.59},{"_id":85,"名称":"明智左馬之介湖水渡りの碑(打出浜)","説明":"県立琵琶湖文化館(打出浜1-1)の前にあり､高さ2.63m｢明智左馬之介湖水渡ところ､天正十年(1582)6月14日｣と刻まれています｡明智光秀が織田信長を討ってまもなく､羽柴秀吉に敗れ､住民の襲撃に倒れました｡この時安土城を守っていた光秀の女婿明智秀満(左馬之介)は光秀の敗死も報を受け､急ぎ光秀の居城坂本城に向かいました｡途中､打出浜あたりで秀吉軍の先鋒堀秀正の軍を避け､馬を湖に乗り入れ､唐崎で上陸して坂本城に入ったと伝えられています｡これが｢明智左馬之介湖水渡り｣の物語です｡","X座標":-1147095.17,"Y座標":-11008351.01},{"_id":86,"名称":"松尾芭蕉句碑(唐崎1)","説明":"近江八景の一つ､唐崎の松の下に松の美しさを詠んだ句碑があります｡唐崎は風光明媚な景勝地として有名で､万葉集など古歌の歌枕に詠まれています｡｢唐崎の松ﾊ花より朧にて｣と記されており､高さ1.22mで唐崎神社(唐崎1丁目7-1)境内にあります｡","X座標":-1146959.055,"Y座標":-10569832.53},{"_id":87,"名称":"高谷光雄の碑(石場)","説明":"地福禅寺(石場5-21)にあり､高さ3.06m｢高谷光雄翁碑｣と題額し､滋賀県内に製糸業をおこし近江麻糸紡織会社を設立して社長に就任し､実業界で活躍した高谷光雄の顕彰碑です｡","X座標":-1138789.46,"Y座標":-11056734.91},{"_id":88,"名称":"向崎清造の碑(大石曽束1)","説明":"帰命寺(大石曽束町1丁目2-20)に建立されています｡官有林の払い下げの功労により昭和12年に建てられました｡高さ64cmの碑です｡","X座標":-1133031.92,"Y座標":-12140656.38},{"_id":89,"名称":"八木英光ほか歌碑(仰木4)","説明":"昭和60年9月に小椋神社(仰木4丁目38-55)に建立されました｡高さ51cmで､｢叡麓の仰木小椋の御社を親と敬ひ日夜拝む｣と詠まれています｡","X座標":-1135065.45,"Y座標":-9885946.69},{"_id":90,"名称":"酒井の旧跡の碑(下阪本4)","説明":"酒井神社御旅所(下阪本4丁目15番街区の南西角)にあります｡高さ67cmで｢酒井之旧跡｣と刻まれた石碑です｡嵯峨天皇の弘仁元年(810年)に酒の泉が涌出と伝承されています｡","X座標":-1132129.02,"Y座標":-10377991.32},{"_id":91,"名称":"塚本平治歌碑(仰木4)","説明":"昭和59年8月に小椋神社(仰木4丁目38-55)に建立されました｡高さ1.7ﾒｰﾄﾙで､｢差昇る旭を迎えて仰ぎつつ平和を祈り神を拝む｣と詠まれています｡","X座標":-1135065.45,"Y座標":-9885946.69},{"_id":92,"名称":"坂本城址の碑(下阪本3)","説明":"東南寺西(下阪本3丁目5番街区の南西角の東南寺川付近)にあり､大正四年に建立された1.36mの碑です｡","X座標":-1121295.91,"Y座標":-10427609.73},{"_id":93,"名称":"松尾芭蕉句碑(石山内畑町)","説明":"岩間寺(石山内畑町82)にある高さ1.08mの句碑です｡｢古池や蛙飛び込む水の音｣と詠われています｡｢観音霊験記｣によると芭蕉は当山の観音を信仰して参籠し供養塔を建立しました｡たちまちにして霊験を蒙りこの句が世に出たと伝えています｡","X座標":-1109818.8,"Y座標":-11835966.3},{"_id":94,"名称":"洪水石標(下阪本4)","説明":"琵琶湖の洪水のなかでも､明治29年(1896)9月の大洪水は､いまなお語りつがれています｡県下流失家屋1749軒､死傷者百余人でした｡現在､酒井(さかい)神社(下阪本四丁目9ｰ18付近)境内には､当時の水位(約3.9m)を示す洪水石標(もと両社の辻にあった)がたっています｡市指定文化財です｡なお､大萱(おおがや)三丁目の善念寺(ぜんねんじ)の石垣にも水位が刻まれています｡","X座標":-1118479.14,"Y座標":-10402656.43},{"_id":95,"名称":"松尾芭蕉句碑(馬場1)①","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治26年(1893)に200回忌正当供養のために建立されました｡高さ1.8m｢旅に病で夢は枯野をかけ廻る｣と詠われています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":96,"名称":"島崎又玄句碑(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)に高さ49cmで｢木曽殿と背中合せの寒さかな｣と詠まれています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":97,"名称":"観順阿闍梨の碑(下阪本3)","説明":"北嶺大行満観順師の顕彰碑(下阪本3丁目2-4の東側)です｡高さ3.08mで大正4年に建立された碑ですが､碑文は磨耗して判読し難くなっています｡","X座標":-1102820.7,"Y座標":-10443345.29},{"_id":98,"名称":"北川文素句碑(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)に寛延3年(1750)秋に建立されました｡高さ61cmで｢三日月の影をのばすな蕎麦の花｣と詠まれています｡｢松本邑｣と文素の肩書きのありますが､現在は碑面が摩耗して判読し難くなっています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01},{"_id":99,"名称":"史蹟龍ヶ岡俳人墓地の碑(馬場2)","説明":"芭蕉翁の高弟内藤丈ｿｳの経塚を中心に､芭蕉の門人俳人17人の墓が､一堂に眠っています｡このような墓所(馬場2丁目12-62付近)は他にはありません｡大正14年7月に建てられました｡高さ1.71mで｢史蹟龍ヶ岡俳人墓地｣と刻まれています｡","X座標":-1098789.4,"Y座標":-11103616.25},{"_id":100,"名称":"山本紫金句碑(馬場1)","説明":"義仲寺(馬場1丁目5-12)にある常夜燈型の碑です｡総高さ2m｢しぐれても道はくもらず月の影｣と詠まれています｡","X座標":-1093667.96,"Y座標":-11061103.01}], 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