<data xmlns:xsi="http://www.w3.org/2001/XMLSchema-instance">
<row _id="1"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>1</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺観音堂</名称><名称_カナ>コウオンジカンノンドウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>国宝</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1903/4/15</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1585年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

観音堂は、「釘無堂」とも呼ばれ、様式的には鎌倉時代の建築と認められる大阪府下で最古の木造建造物です。桁行（けたゆき）5間、梁間（はりま）5間、寄棟造（よせむねづくり）、本瓦葺で、屋根は行基葺（ぎょうきぶき）となっています。前面2間は礼堂（らいどう）、その北側の中央桁行3間梁間2間を内陣、内陣の側背3面1間通りを外陣とし、周囲に濡れ縁（ぬれえん）をめぐらせます。全体的には伝統的な和様を基調とする落ち着いた造りですが、随所に禅宗様（ぜんしゅうよう）という鎌倉時代に伝わった新しい建築様式が取り入れられていることから、鎌倉時代でも後半期に属する建物と考えられています。

伽藍：寺院の建物の総称
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/ko.kannondou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="2"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>2</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺本堂</名称><名称_カナ>ガンセンジホンドウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1993/8/17</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東・西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東・西本願寺に属していました。

本堂は、寛文3年（1663年）～翌4年（1664年）にかけて再建されたもので、桁行（けたゆき）27.8メートル、梁間（はりま）27.0メートルの規模の大きな建物で、屋根は入母屋造（いりもやづくり）、本瓦葺とし、正面に向拝（こうはい・ごはい）一間を備えています。内陣、余間廻りには丸柱を用い、その正面および内部を彫物や金箔、極彩色で華やかに装飾し、前面には広い外陣（げじん）を備え、周囲に広縁（ひろえん）、落縁（おちえん）を廻すなど本山格の大型真宗本堂の一典型として高い評価を受けています。改造は少なく、外陣廻りの蔀戸（しとみど）も含め建立当初の姿をよくとどめています。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
向拝：社殿や仏堂の正面で、屋根を前に張り出した場所。参拝者が本殿に向かって礼拝するところ
蔀戸：柱の間に入れる間仕切りの一つで、両面あるいは一面に格子を組み、上部から釣り下げ、上にはねあげるようにして開くようにした板戸
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/gan.hondou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="3"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>3</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺表門</名称><名称_カナ>ガンセンジオモテモン</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1993/8/17</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東・西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東・西本願寺に属していました。

表門は、規模が大きな四脚門で、屋根は切妻造、本瓦葺とします。正面の冠木長押（かぶきなげし）上に龍の彫物（元禄3年・1690年制作銘）、四周組物間（ししゅうくみものかん）に透彫の彫物を置くなど、全体的に極めて装飾性に富んでいます。願泉寺所蔵『手鑑』に「一、門延宝七ヨリ六拾八年」とあることから、延宝7年（1679年）の建立と考えられています。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
冠木長押：門などの上方にあって柱と柱をつなぐ冠木としてとりつけられた長押。長押は、柱と柱との間を、柱の側面から水平に打ちつけた材木のこと
四周組物間：四周の各柱上にある組物と組者の間
 「組物」とは斗（ます）や肘木（ひじき）などの部材で構成されるもので、柱の上にのり屋根や軒を支える構造物
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/gan.omotemon.html</URL><備考 /></row>
<row _id="4"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>4</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺太鼓堂</名称><名称_カナ>ガンセンジタイコドウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1993/8/17</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東・西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東・西本願寺に属していました。

太鼓堂は、切石積基壇上に建つ重層の建物で、屋根は入母屋造（いりもやづくり）、本瓦葺とします。下層は方3間で北側に入口を設け、四方に花頭窓（火灯窓）（かとうまど）を配します。上層は方2間で、中央に巨大な太鼓を備え付け、四方に彫刻入りの格狭間（ごうざま）形の窓を配します。願泉寺所蔵『手鑑』（てかがみ）に「一、太鼓堂建立寛文四ヨリ八十三年/再興享保四ヨリ二十年 二間半四面高サ三間」とあることから、享保4年（1719年）の再建と考えられています。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/gan.taikodou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="5"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>5</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺築地塀（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジツイジベイ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1993/8/17</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東・西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東・西本願寺に属していました。

築地塀は、門前通りである「御坊前通り」に面する表門から左右に延びる部分の2棟が附として指定されています。築地は柱を見せた塗り塀で、屋根は本瓦葺とします。願泉寺所蔵『手鑑』（てかがみ）に「築地寛文十一ヨリ七拾六年」とあることから、寛文11年（1671年）の建立と考えられています。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/gan.tuijibei.html</URL><備考 /></row>
<row _id="6"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>6</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺目隠塀（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジメカクシベイ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1993/8/17</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東・西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東・西本願寺に属していました。

目隠塀は、柱間3間の築地塀（ついじべい）で、屋根は本瓦葺とします。伽藍（がらん）整備当初からの構成要素として貴重な建造物です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書

伽藍：寺院の建物の総称
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/gan.mekakusibei.html</URL><備考 /></row>
<row _id="7"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>7</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺鐘楼（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジショウロウ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1993/8/17</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東・西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東・西本願寺に属していました。

鐘楼は方1間で、四本の柱を立て、屋根は切妻造（きりづまづくり）、本瓦葺とします。昭和20年（1945年）の貝塚空襲でもともとあった鐘楼が被災したため、昭和23年（1948年）に貝塚市森の廃青松寺（稲荷神社境内にあった寺院）（はいせいしょうじ）の鐘楼を移築したもので、元禄13年（1700年）の建築です。鐘楼に吊られた銅鐘は鎌倉時代のもので、大阪府の文化財に指定されています。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kenzoubutu/gan.syourou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="8"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>8</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造文殊菩薩立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウモンジュボサツリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

文殊菩薩は、諸仏の知恵をつかさどる菩薩で、釈迦如来（しゃかにょらい）の脇侍（きょうじ）として、普賢菩薩（ふげんぼさつ）とともに三尊を形成します。本像は、右手に剣、左手に巻子（かんす）を持ち（いずれも後世のもの）、普賢菩薩像と対にして安置されていますが、いわゆる唐服（からふく）をまとっているので、本来は天部像と判断されます。髻頂（けいちょう）より足元まで、両袖口までを含んでカヤの一材で彫り出しています。背面襟の少し下より膝裏のあたりにかけて内刳（うちぐ）りをし、蓋板（ふたいた）をあてています。白土（はくど）下地の上に朱、緑青（ろくしょう）などの彩色をほどこしていることがわかります。天冠台（てんかんだい）は金箔（きんぱく）を置いています。普賢菩薩像とは顔立ちや服装が異なることから、両像が一対とは考えにくいかも知れませんが、ほぼ同じ像高を示し、製作時期も同じ頃と考えられるので、当初より一対で製作された可能性は否定できません。

伽藍：寺院の建物の総称
脇侍：中尊をはさんで左右に待する仏像のことで、釈迦如来に待するのが文殊菩薩と普賢菩薩
巻子：紙を長く横につぎ合わせ、その一端に軸をつけた巻き物
唐服：中国風の衣服
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
蓋板：内刳り部分を隠すために使用される蓋状の板
天冠台：仏などがかぶる宝冠
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.monjubosaturyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="9"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>9</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造釈迦如来坐像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウシャカニョライザゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

釈迦如来は、仏教の開祖である釈迦牟尼仏（しゃかむにぶつ）が仏となったものです。本像は、文殊（もんじゅ）・普賢菩薩（ふげんぼさつ）を脇侍（きょうじ）として安置されていますが、両脇侍像はもと天部像ですので、本像ももとから釈迦如来として製作されたかどうかは不明です。現に左手指の形は薬壷（やっこ）を持するかのようであり、薬師如来の可能性があります。本像は、衲衣（のうえ）を偏袒右肩（へんたんうけん）に着し、右手は施無畏印（せむいいん）として、右足を上に結跏趺座（けっかふざ）する如来形です。頭・体根幹部をカヤかと思われる一材で彫り出し、これに膝前材を矧ぎつけます。後頭部、背面部、像底より内刳（うちぐ）りをほどこし、蓋板（ふたいた）をあてます。衲衣の表は朱、裏は緑青（ろくしょう）彩としています。全体に量感を強調する傾向は少なく、体奥・膝高も小さいです。右肩や膝前にみられる翻波式衣文（ほんぱしきえもん）も浅く、表面的な線状的美しさを見所としているかに見え、本像の製作が9世紀に遡らないことを示しています。また、像底からの内刳りは大きく、膝前材を腹部に刳り込む技法を使用していますが、これも10世紀後半以降のものですので、本像の製作期は10世紀後半以降と考えられます。

伽藍：寺院の建物の総称
釈迦牟尼仏：仏教の開祖である釈迦のこと
脇侍：中尊をはさんで左右に侍する仏像のことで、釈迦如来に侍するのが文殊菩薩と普賢菩薩
衲衣：如来がまとう衣
偏袒右肩：右肩をあらわにする衲衣の着方
施無畏印：仏像の手の組み方の一つで、右手をあげてずべての指を伸ばし外向きにすること
結跏趺坐：足の甲で左右されぞれ反対側のももを押さえる形の座り方
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
蓋板：内刳り部分を隠すために使用される蓋状の板
翻波式衣文：平安時代初期の木彫の仏像にみられる衣のしわの表現様式。大波と小波を交互に規則正しく繰り返したような表現をする
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.syakanyoraizazou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="10"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>10</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造薬師如来立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウヤクシニョライリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

薬師如来は、12の大願（たいがん）を発して、衆生（しゅじょう）の病苦を救い、身体的欠陥を除き、悟（さと）りに近づけようと誓った仏です。頭頂より足ホゾまで、両袖口までを含んで、カヤの一材で彫り出し、内刳（うちぐ）りはほどこさず、表面は黄土彩（おうどさい）としています。裳（も）をつけ、衲衣（のうえ）を偏袒右肩（へんたんうけん）にまとい、右手は施無畏印（せむいいん）とよばれる印をむすび、左手に薬壷（やっこ）を持って直立します。腫（は）れあがったような肉髻（にっけい）部と地髪部、そしてその下の圧縮された面部に強く大きく刻み出された鼻目などにより醸（かも）し出される神秘感は、本像独特のものがあります。

伽藍：寺院の建物の総称
大願：仏教で仏が衆生を救おうとする誓願
衆生：生きとし生けるもの
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
裳：腰から下に巻きつける衣
衲衣：如来がまとう衣
偏袒右肩：右肩をあらわにする衲衣の着方
施無畏印：仏像の手の組み方の一つで、右手をあげてすべての指を伸ばし外向きにする
肉髻：如来三十二相（そう）とよばれる如来の身体的特徴の一つで、頭部の盛り上がった部分
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.yakusinyorairyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="11"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>11</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造弥勒菩薩坐像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウミロクボサツザゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

弥勒菩薩は、弥勒の浄土とよばれる兜率天（とそつてん）に住み、釈迦（しゃか）の入滅（にゅうめつ）の56億7千万年後にこの世界にあらわれて衆生（しゅじょう）を救うといわれる菩薩のひとつです。本像は、通肩（つうけん）の上に偏袒右肩（へんたんうけん）の着衣をまとい、右足を前にして結跏趺坐（けっかふざ）し、両手を胸前にして掌（てのひら）を見せ、各第1・3指を結びます。印相（いんぞう）からは阿弥陀如来（あみだにょらい）とすべきでしょうが、なお検討を要します。頭頂より地付（じつき）まで、両手袖口までを含めてカヤの縦一材で彫り出し、膝前・両手先・螺髪（らほつ）〈現在脱落〉は別材とします。後頭部および背中に内刳（うちぐ）りをほどこして、それぞれ蓋板（ふたいた）をあてています。面部をはじめ、全身に黄土彩（おうどさい）をほどこしています。面部は眼鼻を大きめに表して、芒洋（ぼうよう）とした表情をもち、肩を張った体部は量感豊かで、衣文（えもん）の彫りは粗（あら）くかつ深く、全体に重厚な印象を与えています。和泉地方を代表する9世紀初めの優品です。

伽藍：寺院の建物の総称
釈迦：仏教の開祖
入滅：人間の迷いを捨てて悟りの境地に入ることで、特に釈迦の死を指す
衆生：生きとし生けるもの
通肩：二枚の布を体に巻きつけて両肩を包む着衣方法の一つ
結跏趺坐：足の甲で左右それぞれ反対側のももを押さえる形の座り方
偏袒右肩：右肩をあらわにする衲衣の着方
印相：仏や菩薩のもつ内面的な意思をあらわす手や指の組み方
地付：地面と接する部分で、本像では台座と接する部分
螺髪：如来三十二相（そう）とよばれる如来の身体的特徴の一つで、巻き毛状になった髪
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
蓋板：内刳り部分を隠すために使用される蓋状の板
芒洋：広々として限りないさま
衣文：彫刻などにおいて人物などの体の動きによって生じる衣服の線
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.mirokubosatuzazou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="12"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>12</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造聖観音立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウショウカンノンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

聖観音は、衆生（しゅじょう）を救済するためにさまざまな姿であらわれる大慈大悲（だいじだいひ）の菩薩（ぼさつ）で、単に観音菩薩とか観音さまといえばこの聖観音を指します。本像は、左手を胸前にして、華瓶（けびょう）〈後世に製作されたもの〉を持つ像です。髻頂（けいちょう）より裾まで、両肩までを含めてケヤキの縦一材で彫り出し、両肩先はヒノキの別材を足しています。背中と背面下肢の部分に内刳（うちぐ）りを施し、蓋板（ふたいた）をあてています。本像は孝恩寺の他の菩薩像が体前に1条のみ天衣（てんね）をわたすのにたいして、本像は一般的な2本をわたす形式をしており、また相当に虫損（ちゅうそん）が進んでいることから、伝来にも興味のもたれるところです。やや長身ながら抑揚（よくよう）のない肉付け、浅く形式的にあらわれた翻波式衣文（ほんぱしきえもん）などから、本像の製作は10世紀もあまり遡らないものと思われます。

伽藍：寺院の建物の総称
衆生：生きとし生けるもの
大慈大悲：広大無辺の慈悲
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
蓋板：内刳り部分を隠すために使用される蓋状の板
天衣：菩薩や天部などが肩や腕から垂らす帯状の衣
虫損：虫喰いによる損傷
翻波式衣文：平安時代初期の木彫の仏像にみられる衣のしわの表現様式で、大波と小波を交互に規則正しく繰り返したような表現をする
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.syoukannonryuzou1.html</URL><備考 /></row>
<row _id="13"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>13</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造聖観音立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウショウカンノンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

聖観音は、衆生（しゅじょう）を救済するためにさまざまな姿であらわれる大慈大悲（だいじだいひ）の菩薩（ぼさつ）で、単に観音菩薩とか観音さまといえばこの聖観音を指します。本像は、観音菩薩像とされていますが、観音菩薩像と断定できる特徴がないため、本来は単なる菩薩像とすべきでしょう。天冠台（てんかんだい）をつけ、条帛（じょうはく）・天衣（てんね）をかけ、右手は垂直に下ろし五指を伸ばし、左手は曲げて第一・三指を捻じて、両手の掌（てのひら）は内側に向け、二段折返しの裳（も）を着けて立ちます。本像も体の前に天衣を1条のみわたす形式のものです。髻頂（けいちょう）より足ホゾまで、右手および左臂（ひじ）までを含んで、カヤかと思われる縦一材で彫り出しています。本来は、彩色仕上げとしていたものと思われ、天冠台には金箔（きんぱく）が見られます。肉付きの良い丸顔に小さく鼻目を配して、穏やかな表情としています。衣文（えもん）も一部に直線的な部分が見られるものの、衣文の稜線（りょうせん）の鎬（しのぎ）をまるめ、厚めの柔らかな布の質感を出そうとしているかのようです。製作は9世紀～10世紀と思われます。

伽藍：寺院の建物の総称
衆生：生きとし生けるもの
大慈大悲：広大無辺の慈悲
天冠台：仏などがかぶる宝冠
条帛：菩薩・明王・天部などが肩から脇へ斜めにかける布
天衣：菩薩や天部などが肩や腕から垂らす帯状の衣
裳：腰から下に巻きつける衣
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
衣文：彫刻などにおいて人物などの体の動きによって生じる衣服の線
稜線の鎬：衣文の山形部分
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.syoukannonryuzou2.html</URL><備考 /></row>
<row _id="14"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>14</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造十一面観音立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウジュウイチメンカンノンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

十一面観音は、救済の働きが多面的であることを象徴した10あるいは11の小面をつけた観音です。本像は、頭上面はすべて後世のものですが、当初から十一面観音像として製作されたものと考えられます。右手を垂直に下ろし、左手は曲げて華瓶（けびょう）を持ち、やや右に腰をひねって立ちます。髻頂（けいちょう）から裾先まで、右手先、左肩を含んで、カヤかと思われる縦一材で彫り出しています。左肩先は別材とし、左臂（ひじ）より先、持物（じもつ）は後世のものです。全身に黄土彩（おうどさい）をほどこしています。通常、天衣（てんね）は両足前面に2条通るのが一般的ですが、本像は1条のみで、孝恩寺には他に、十一面観音（伝観音）、十一面観音（伝勢至）の2像、聖観音立像があり、孝恩寺像の一特色といえるでしょう。やや粗野な作風で、面部や衣部の彫りも深く、9世紀～10世紀ころの製作と思われます。

伽藍：寺院の建物の総称
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
持物：仏像の手にしているもの
天衣：菩薩や天部などが肩や腕から垂らす帯状の衣
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.juitimenkannonryuzou1.html</URL><備考 /></row>
<row _id="15"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>15</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造地蔵菩薩立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウジゾウボサツリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

地蔵菩薩は、六道（ろくどう）のすべての衆生（しゅじょう）の苦を除き、福利を与えることを願いとする菩薩です。円頂で、裳（も）をつけ、大衣を通肩（つうけん）にまとい、現在右手に錫杖（しゃくじょう）、左手に宝珠（ほうじゅ）を持って蓮台（れんだい）に立ちますが、両手首先および両足先は後世のものですので、像の製作期から判断すると、本来は右手を垂直に下ろす古い形式の地蔵菩薩像であったと思われます。頭頂より裾先まで、両袖口まで含んで、カヤの一材で彫り出し、白土（はくど）下地に彩色をほどこしています。頭部を大きく、肩幅も広くし、口唇に鎬（しのぎ）を立てるところは古い様式ですが、全体に彫り口が浅く、大腿部の盛り上りを強調すべく施されたY字状衣文（えもん）も緩く、散漫になっており、製作は10世紀後半もそう遡らないものと思われます。

伽藍：寺院の建物の総称
六道：全ての生き物が生前の行いなどによって生死を繰り返す六つの迷いの世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六世界をいう
衆生：生きとし生けるもの
裳：腰から下に巻きつける衣
大衣：正式には僧伽梨（そうぎゃり）といい、僧の着る三衣(さんえ)という袈裟の中で最も大きなもの
通肩：二枚の布を体に巻きつけて両肩を包む着衣方法の一つ
錫杖：杖の一種
宝珠：宝の玉
蓮台：蓮の花の形につくった台座
鎬を立てる：上端の中央を刀の背峰形に高くする
衣文：彫刻などにおいて人物などの体の動きによって生じる衣服の線
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.jizoubosaturyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="16"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>16</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造虚空蔵菩薩立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウコクウゾウボサツリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

虚空蔵菩薩は、広大無辺な知恵と福徳を虚空のごとく蔵するとされる菩薩で、一般的には半跏（はんか）像や坐像であらわされますが、本像は頭部に三山冠（さんざんかん）をいただき、がい襠衣（とうい）を着した天部形像です。そのため、尊名についてはなお検討を要します。カヤかと思われる縦一材で彫り出した像で、彩色仕上げとしています。当寺蔵の聖観音立像（しょうかんのんりゅうぞう）と作風が似ており、技法上の共通性はもちろん、ほぼ同像高で、身体のプロポーションも酷似しています。また、肉付きの良い童顔の各部の特徴、なで肩でずん胴気味の体躯（たいく）、襟や衣の縁などに見られる粘りのある緩やかな曲線などに共通性が見られます。おそらく、この二像は同一工房の製作と思われ、同一作者である可能性もあります。

伽藍：寺院の建物の総称
半跏：正式には「半跏趺坐」（はんかふざ）。左足は右足の下にし、右足は足の裏を上にして、右足のももにおいて座ること
三山冠：礼服を着る時にかぶる礼冠（らいかん）の一種で、髻（もとどり）をおさめる部分が三つの山のような形状をしたもの
体躯：からだつき
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.jizoubosaturyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="17"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>17</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造普賢菩薩立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウフゲンボサツリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

普賢菩薩は、如来の理法（りほう）や禅定（ぜんじょう）、修行の面を顕わした菩薩で、釈迦如来（しゃかにょらい）の脇侍（きょうじ）として、文殊菩薩（もんじゅぼさつ）とともに三尊を形成します。本像は、がい襠衣（とうい）を着し、沓（くつ）をはくところから、本来は天部像であったと判断され、さらに衣の下に着甲（ちゃっこう）するところから、梵天（ぼんてん）もしくは帝釈天（たいしゃくてん）像と考えられます。髻頂（けいちょう）から足元まで両肩を含んでカヤの縦一材で彫り出します。両肩先は別材で、角ホゾで留めています。背中から裾の少し上にかけて内刳（うちぐ）りをほどこし、蓋板（ふたいた）をあてています。全面白土（はくど）下地の上に彩色をほどこしています。等身大の端正な姿と小作りの穏やかな面貌（めんぼう）表現、誇張のない肉身部と浅い形式的な衣文（えもん）、流麗な衣端表現などから、本像の製作は10世紀頃と考えられています。

伽藍：寺院の建物の総称
理法：のっとるべき道理
禅定：心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想。心を統一して静かに対象を観察し、思索して真理に至ること
脇侍：中尊をはさんで左右に侍する仏像のことで、釈迦如来に侍するのが文殊菩薩と普賢菩薩
着甲：よろいを着けること
梵天：インドの古代宗教で世界の創造主とされたブラフマンを神格化したもので、仏教にはいると釈迦の守護者として、諸天のなかでも最高位にあるという。日本では帝釈天とともに8世紀ごろから信仰された
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
蓋板：内刳り部分を隠すために使用される蓋状の板
面貌：かおつき
衣文：彫刻などにおいて、人物などの体の動きによって生じる衣服の線
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.hugenbosaturyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="18"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>18</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造難陀龍王立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウナンダリュウオウリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

難陀龍王は、海や水をつかさどることから航海の守護神や雨乞いの本尊とされる八大竜王のひとつです。本像は、髻（もとどり）を覆うような冠を着し、裳（も）、広袖の衣の上からがい襠衣（とうい）をまとって、右手を曲げて立つ天部像です。頭部より足先まで、両袖口を含めてカヤの一材で彫出し、内刳（うちぐ）りは施さず、全表面に黄土彩を施しています。過大な冠、目鼻立ちの大きな面貌は古い様式で、製作は9世紀前半頃と思われます。また、髻が岩のような盛り上げのみで毛を表わさず、体部の側面、背面には荒いノミ痕を残し、腹前の結び紐も未完成であることから、像全体として未完成段階のものと考えられています。

伽藍：寺院の建物の総称
髻：髪を頭の上に集めて束ねたところ
裳：腰から下に巻きつける衣
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
面貌：かおつき
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.nandaryuouryuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="19"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>19</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造跋難陀龍王立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウバナンダリュウオウリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

跋難陀龍王は、海や水をつかさどることから航海の守護神や雨乞（あまご）いの本尊とされる八大竜王のひとつです。本像は、丈高の大きな宝髻（ほうけい）を結って冠を着し、裳（も）の上から広袖の衣をまとってがい襠衣（とうい）を着する天部像です。髻頂（けいちょう）より足元まで、両袖口を含んでカヤの一材で彫り出し、内刳（うちぐ）りはほどこしていません。白土（はくど）の残存するところから、当初は彩色像であったと思われます。丈高の大きな髻（もとどり）、幅広の冠、深い面奥の頭部に大きく明確に刻み出された各部、ゆったりと構える堂々とした体?（たいく）と、袖部や体前に鋭く的確に彫出された翻波式衣文（ほんぱしきえもん）には、9世紀の一木彫成像の特色が存分にあらわれています。襟などは手が切れるかと思われるほど鋭く、全体に神経の行き届いた優品です。

伽藍：寺院の建物の総称
宝髻：髪を頭の上に集めて束ねたところ
裳：腰から下に巻きつける衣
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
体躯：からだつき
翻波式衣文：平安時代初期の木彫の仏像にみられる衣のしわの表現様式。大波と小波うぃ交互に規則正しく繰り返したような表現をする
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.banandaryuouryuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="20"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>20</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造多聞天立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウタモンテンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

多聞天は、四天王あるいは十二天の一つとして北方を守護し、わが国では七福神の一つ「毘沙門天」としても有名です。本像は、垂髻（すいけい）を結って冠を着し、裳（も）・広袖の衣の上から着甲して、左手は曲げて邪鬼上に立ちます。現在は亡失していますが、左手には宝塔を、右手には持物（じぶつ）を持っていたものと思われます。右袖口から先と左手首先はですが、両手の構えから当初より多聞天像であったと思われます。髻頂より足元まで、右袖口・左手首を含めてヒノキの一材から彫り出し、白土下地の上から彩色を全身に施しています。首の右辺から両足中央にかけて大きく割れ目がありますが、これは割矧（わりはぎ）の矧ぎ目である可能性があります。怒りを表情にあらわさず、また直立して少しも動勢をあらわさず、のびやかな長身で軽く邪鬼上に立つ姿は、平安後期も11世紀～12世紀の都風の作風を示すものであり、孝恩寺の仏像群中では異例の作例です。

伽藍：寺院の建物の総称
毘沙門天：多聞天の別称。独尊で福徳と富貴の神として信仰され、後世には七福神の一つとしても数えられる
垂髻：髪を頭頂部で束ねて、根本ともう一カ所を紐などでくくり、残りを下に垂らす髪の結い形
裳：腰から下に巻きつける衣
着甲：よろいを着けること
宝塔：塔の美称。仏舎利（ブッダの遺骨）を安置するための建造物（仏塔）を模したもの
持物：仏像の手にしているもの
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
割矧の矧ぎ目：仏像を一木造の製作途中で木目にそって割り、内刳りをほどこしたあと接合して仕上げる技法を割矧造といい、その接合部分</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.tamontenryuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="21"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>21</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造帝釈天立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウタイシャクテンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

帝釈天は、梵天（ぼんてん）と並び称される仏教の守護神で、四天王あるいは十二天の一つとして東方を守護します。本像は、髻（もとどり）を結び、冠を着し、裳（も）・甲（よろい）をまとい、がい襠衣（とうい）を着し、両手を曲げて前方に向け、沓（くつ）をはいて直立する天部像です。尊名は帝釈天となっていますが、甲を衣の下に着ける例や手の構えは梵天の例もあるので、尊名については今後の検討が必要です。髻頂（けいちょう）より足元まで、両袖口を含んで、カヤの一材で彫り出し、頭部・体部とも深い内刳（うちぐ）りを施し、背面に蓋板（ふたいた）をあてています。両手首先は後世のものですが、保存状態は良好です。表面は白土（はくど）下地に彩色をほどこしており、袖口や衣の縁には金箔（きんぱく）を置いています。本像は異常に長身にあらわされていますが、端正な顔立ちにも見られるように、むしろ堅実で洗練されたものです。また、本像の特色は共彫りの冠にもあります。この冠はいわゆる三面頭飾（さんめんとうしょく）の一種ですが、全体の形が柔らかい植物の花弁（かべん）様で、このような冠の現存遺例は9世紀前半あるいは9世紀半ば頃とされる奈良県室生寺（むろうじ）の伝帝釈天曼荼羅図（でんたいしゃくてんまんだらず）の中央三尊が最古と考えられており、孝恩寺の帝釈天像の上限を示しています。

伽藍：寺院の建物の総称
梵天：インドの古代宗教で世界の創造主とされたブラフマンを神格化したもので、仏教に入ると釈迦の守護者として、諸天のなかでも最高位にあるという。日本では帝釈天とともに8世紀ごろから信仰された
髻：髪を頭の上に集めて束ねたところ
裳：腰から下に巻きつける衣
髻頂：髻の頂点
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
蓋板：内刳り部分を隠すために使用される蓋状の板
三面頭飾：正面と左右に飾りのついた髪飾り
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.taisyakutenryuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="22"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>22</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造弁才天立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウベンザイテンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

弁才天は、もともとインドの神で、仏教では財・福・知恵・延寿（えんじゅ）などを与え、災厄を除き、戦勝を得させるという女神で、わが国では七福神の一つ「弁財天」として福徳や財宝を与える神として有名です。頭頂に蛇身・人頭（じゃしん・じんとう）の宇賀神（うがじん）をのせ、八本の腕にそれぞれ持物（じもつ）を持っています。現在は弁才天像としていますが、頭頂の宇賀神も背面に挿した脇手も後世のものですので、当初の尊名は明らかではなく、いわゆる唐服（からふく）をまとうところから天部像の一つであることがわかるのみです。髻頂（けいちょう）より裾先まで、カヤかと思われる縦木一材で彫り出し、内刳（うちぐ）りはほどこしていません。面部・肉身とも彫りは浅く、ややこじんまりとした体型です。腰部と袖後部に施された翻波式衣文（ほんぱしきえもん）も浅目で、製作は10世紀後半と思われます。

伽藍：寺院の建物の総称
蛇身・人頭：蛇の体と人の頭
持物：仏像の手にしているもの
唐服：中国風の衣服
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
翻波式衣文：平安時代初期の木彫の仏像にみられる衣のしわの表現様式。大波と小波を交互に規則正しく繰り返したような表現をする
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.benzaitenryuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="23"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>23</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺板絵著色天部像</名称><名称_カナ>コウオンジイタエチャクショクテンブゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>面</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1913/4/14</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

本絵像は、ヒノキの一枚板を、ほぼ蓮弁形（れんべんけい）に切り取って、表面に天部像（具体的な尊名は不明）を描いています。頂部のとがった頭光（ずこう）と体部にそった身光（しんこう）を負い、花の三面頭飾（さんめんとうしょく）をつけ、鰭袖衣（はたそでごろも）を長袂（ちょうけつ）の大衣の上に着し、沓（くつ）をはいて“くゆ座”とよばれる台座上に立ちます。奈良県室生寺（むろうじ）金堂仏後壁の伝帝釈天曼荼羅図（でんたいしゃくてんまんだらず）（9世紀の制作）の中尊（ちゅうぞん）および両脇侍（きょうじ）に近いもので、冠や頭光・身光部等にみられる火炎の表現は同じく室生寺金堂の伝釈迦如来立像（でんしゃかにょらいりゅうぞう）（9世紀から10世紀の制作）の光背（こうはい）にもみられることから、中央に近い作風をもつものであることがわかります。制作は9世紀から10世紀と思われます。

伽藍：寺院の建物の総称
蓮弁：蓮の花びら
頭光：仏などが頭部の後ろから発する光
身光：仏などが体部の後ろから発する光
三面頭飾：正面と左右に飾りのついた髪飾り
長袂：着物の袖口の袋のようになった部分が長いこと
大衣：正式には僧伽梨（そうぎゃり）といい、僧の着る三衣(さんえ)という袈裟の中で最も大きなもの
室生寺：奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派の大本山
脇侍：中尊を挟んで左右に侍する仏像のことで、釈迦如来に侍するのが文殊菩薩と普賢菩薩
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/kaiga/ko.tenbuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="24"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>24</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造阿弥陀如来坐像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウアミダニョライザゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1938/8/26</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

阿弥陀如来は、いっさいの衆生（しゅじょう）を救うために、四八の誓いをたてた、西方浄土に住む仏です。本像は、現在、孝恩寺の仏像群を収めた収蔵庫内部中央に、伝観音、伝勢至の両像（ともに本来は十一面観音立像）を配して安置されています。頭部に耳後を通る線と正中線に矧（は）ぎ目が見られるので、3材～4材製と思われますが、体部の構造は後補（こうほ）の漆箔（しっぱく）のために明らかではありません。いわゆる半丈六（はんじょうろく）の阿弥陀像で、衲衣（のうえ）を遍袒右肩（へんたんうけん）に着して、右足を前に結跏趺坐（けっかふざ）し、腹前で弥陀定印（じょういん）〈上品上生印（じょうぼんじょうしょういん）〉を結んでいます。丸顔で起伏の少ない面部に小さめの眼・鼻・口を配して穏やかながら繊細な感覚が見られます。体部も起伏が少ないですが、衣文（えもん）にはやや自由の風がうかがえ、製作は12世紀後半と思われます。

伽藍：寺院の建物の総称
衆生：生きとし生けるもの
後補：後の時代に補修すること
漆箔：漆の上に金箔や銀箔をおく技法
半丈六：仏像の高さの基準で、立像は八尺、坐像は四尺のものを指す。なお、釈迦の身長が一丈六尺（約4.85メートル）であったとされることから、その高さの仏像を丈六（坐像は半分の八尺）、丈六より大きなものを大仏、半分のものを半丈六という
衲衣：如来がまとう衣
偏袒右肩：右肩をあらわにする衲衣の着方
結跏趺坐：足の甲で左右それぞれ反対側のももを押さえる形の座り方
弥陀定印：仏像の手の組み方の一つ。禅定印が変化したもので、阿弥陀如来のみにみられる。結跏趺坐した状態で両手とも掌を上にして合わせ、両手の第二指を立て、残りの四指の指先を互いに接する
衣文：彫刻などにおいて人物などの体に動きによって生じる衣服の線
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.amidanyoraizazou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="25"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>25</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造十一面観音立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウジュウイチメンカンノンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1938/8/26</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

十一面観音は、救済の働きが多面的であることを象徴した10あるいは11の小面をつけた観音です。本像は、阿弥陀如来坐像（あみだにょらいざぞう）の脇侍（きょうじ）の勢至菩薩（せいしぼさつ）像として安置されていますが、頭上面の穴からもとは十一面観音であったことがわかります。髻頂（けいちょう）より足元まで、両臂（ひじ）までを含んで一材から彫り出しますが、内刳（うちぐ）りはほどこしていません。装飾品や持物（じもつ）、両臂先、衣の一部などは後世のものです。伝観音像とほぼ同じ像高で、同じ蓮茎（れんけい）を持ち、肉身部は漆箔（しっぱく）、衣部は黒漆（くろうるし）としていますので、一見、両像は一組の像のように見えますが、両像は形式及び様式において相違点が目立ちます。伝観音像のプロポーションの良い体に比べて伝勢至像は抑揚の少ない、いわゆるずん胴形で、両腕も異様に太く、臂部もとび出し、誇張的な面が見られます。衣の表現も類型的な翻波式衣文（ほんぱしきえもん）と、両脚間の図式的な振動波状の波であり、背面の粗い処理と呼応して、伝観音像よりも製作時期の下降を感じさせます。伝観音の洗練された作風とは異なり、いわゆる地方作の粗さと力強さを持つ像です。

伽藍：寺院の建物の総称
脇侍：中尊をはさんで左右に侍する仏像のことで、阿弥陀如来に侍するのが観音菩薩と勢至菩薩
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
持物：仏像の手にしているもの
天衣：菩薩や天部などが肩や腕から垂らす帯状の衣
蓮茎：蓮の花とその茎
漆箔：漆の上に金箔や銀箔をおく技法
翻波式衣文：平安時代初期の木彫の仏像にみられる衣のしわの表現様式。大波と小波を交互に規則正しく繰り返したような表現をする
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.juitimenkannonryuzou2.html</URL><備考 /></row>
<row _id="26"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>26</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造十一面観音立像 </名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウジュウイチメンカンノンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1938/8/26</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

十一面観音は、救済の働きが多面的であることを象徴した10あるいは11の小面をつけた観音です。本像は、阿弥陀如来坐像の脇侍（きょうじ）の観音菩薩像として安置されていますが、頭上面の穴からもとは十一面観音であったことがわかります。後世の漆箔（しっぱく）により判断しがたい部分もありますが、髻頂（けいちょう）より足元まで、少なくとも右手首、左臂までを含めて、カヤの一材から彫り出しています。下半身には背刳（せぐ）りを施しますが、上半身は不明です。装飾品や持物（じもつ）、漆箔・黒漆（くろうるし）などは後世のもので、また頭上面のすべてを欠失していますが、保存状態は良好です。腰をしぼった天平風のきわめてプロポーションの良い姿をした像ですが、表情は暗く、肉身は固太りで、衣部も木彫りの固さに柔らかい布の表現が並存しており、製作は9世紀と考えられます。

伽藍：寺院の建物の総称
脇侍：中尊をはさんで左右に侍する仏像のことで、阿弥陀如来に侍するのが観音菩薩と勢至菩薩
漆箔：漆の上に金箔や銀箔をおく技法
髻頂：髪を頭の上に集めて束ねたところを髻（もとどり）といい、その頂点
背刳り：背中部分の内刳り。内刳りは、木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
持物：仏像の手にしているもの
天平風：奈良時代の天平年間（729年～749年）に聖武天皇を中心にした貴族文化である天平文化の作風に似ていること
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.juitimenkannonryuzou3.html</URL><備考 /></row>
<row _id="27"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>27</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造阿弥陀如来立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウアミダニョライリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>重要文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1938/8/26</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積（こつみ）の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基（ぎょうき）に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の羽柴（豊臣）秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

阿弥陀如来は、いっさいの衆生（しゅじょう）を救うために、四八の誓いをたてた、西方浄土に住む仏です。本像は、通肩（つうけん）の上から偏袒右肩（へんたんうけん）の衣を着し、いわゆる来迎印（らいごういん）を結んで立ちます。両手首先および両足先は後世のものであることから、本来は阿弥陀如来像として製作されたものかどうかは不明です。頭頂より裾先まで両袖口を含んでカヤの一材より彫り出し、内刳（うちぐ）りはほどこしていません。ところどころに白土（はくど）が残っているので、もとは彩色仕上げであったと思われます。量感に富む体?（たいく）ですが、面部の彫りは浅く穏やかであり、裳（も）や袖の背部の翻波式衣文（ほんぱしきえもん）も洗練度がとくに高いわけでもなく、両脚部のY字状衣文（えもん）も大腿部の強調度は緩くなっており、本像の製作は10世紀後半頃と考えられます。なお、頭部の螺髪（らほつ）は、前面部は整然としかも丸味を持つものの、後頭部は賽（さい）の目状に彫られたままであり、正面礼拝のみを期待されたものと思われ興味深いものです。

伽藍：寺院の建物の総称
衆生：生きとし生けるもの
通肩：二枚の布を体に巻きつけて両肩を包む着衣方法の一つ
偏袒右肩：右肩をあらわにする衲衣の着方
来迎印：仏像の手の組み方の一つで、主として阿弥陀如来にみられる。りょうてとも第一指・第二指を稔じ、右手は胸前にあげて掌を外に向け、左手は垂直に下げて掌を外に向ける形を基本形とする
内刳り：木彫像において、木の干割（ひわ）れを防ぎ、重量を軽減するために、像の背面や底面から木心を除くこと
体躯：からだつき
裳：腰から下に巻きつける衣
翻波式衣文：平安時代初期の木彫の仏像にみられる衣のしわの表現様式。大波と小波を交互に貴族正しく繰り返したような表現をする
衣文：彫刻などにおいて人物などの動きによって生じる衣服の線
螺髪：如来三十二相（そう）とよばれる如来の身体的特徴の一つで、巻き毛状になった髪
賽の目：サイコロ程度の小さな立方体 
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tyoukoku/ko.amidanyorairyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="28"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>28</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>丸山古墳</名称><名称_カナ>マルヤマコフン</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>国史跡</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>33000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>地蔵堂</所在地_町字><所在地_番地以下>198</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>基</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市</所有者等><文化財指定日>1956/5/15</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>丸山古墳は全長約70メートル、後円部の直径約43メートル（高さ5メートルで3段築成）、前方部の最大幅約27メートル（高さ約4メートル）という大きさの前方後円墳で、古墳時代前期後半（4世紀後半）の築造です。

昭和31年（1956年）5月15日付で国の史跡指定を受け、昭和33年（1958年）より貝塚市が史跡管理団体として管理をしています。

平成14年度の発掘調査では埴輪列を発見し、古墳時代前期後半の築造であることが確定しました。古墳からは円筒埴輪や朝顔形埴輪のほか、全国的にも珍しい冠帽形埴輪などの形象埴輪（いずれも貝塚市指定文化財）が多数出土しています。

古墳の南側に位置する貝塚市立南小学校の敷地内からは古墳時代中期5世紀の埋没古墳6基（地蔵堂古墳群1号墳～6号墳＝円墳4基、方墳2基）が発見され、丸山古墳を中心とした古墳群の存在が判明しています。各古墳からは古墳に供えられていた各種須恵器類（貝塚市指定文化財を含む）が出土しています。これらの古墳群の発見により、4世紀後半から5世紀にかけて地蔵堂周辺に強い権力を持つ者が存在していたことがわかっています。

なお、伝承では、天正13年（1585年）の羽柴（豊臣）秀吉の紀州攻めにおいて、秀吉自らがこの古墳に本陣を置き、橋本の積善寺城を攻めたといいます。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/siseki/maruyamakohun.html</URL><備考 /></row>
<row _id="29"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>29</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>和泉葛城山ブナ林</名称><名称_カナ>イズミカツラギサンブナリン</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>国天然記念物</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>53000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>蕎原</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>蕎原・木積町会他</所有者等><文化財指定日>1923/3/7</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>和泉葛城山ブナ林は、貝塚市蕎原と岸和田市塔原にまたがる和泉葛城山（標高858メートル）の北斜面に広がる原生林で、岸和田市域と合わせて約8ヘクタールが国の天然記念物に指定されています。

ブナは日本特産の植物で、中部地方以北や日本海側に広く分布していますが、太平洋側ではもともと分布が狭く、1,000メートル程度の山で見られるのが普通です。ところが和泉葛城山のブナ林は、太平洋側で、位置的にも南限に近く、しかも低い山で見られるなど他地域には見られない条件をもつことから、大正12年（1923年）に国の天然記念物に指定されました。大阪府下でごくわずかに残る自然のままの森としても大切なものです。

天然記念物指定当時は 、直径30センチメートル以上のブナが約1,800本あったとされていますが、近年、ブナの大木が次々と枯れ、林内に後継樹となる若木がほとんど見られないなど、個体数が激減しています。さらには地球温暖化も影響して、和泉葛城山のブナ林が絶滅する危険性が懸念されるようになりました。

そのため 、現在岸和田・貝塚両市の教育委員会では、ブナ林を健全な状態で将来に引き継ぐために、学識経験者等の指導を得ながら保護増殖活動を継続しています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tennenkinenbutu/bunarin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="30"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>30</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>水間鉄道水間駅舎</名称><名称_カナ>ミズマテツドウミズマエキシャ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>39000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>水間</所在地_町字><所在地_番地以下>260</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>水間鉄道株式会社</所有者等><文化財指定日>1999/2/17</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>水間駅舎は、水間鉄道の終着駅として、大正15年（1926年）に貝塚市（当時は木島村）水間の現在地に建設されました。外観は水間寺の参詣客を意識して正面中央部は卒塔婆（そとば）風のものになっています。その一方、左右対称の両端に円形の部屋を設置したり、改札前を吹き抜けの空間にしたりするなど、洋風のデザインが取り入れられています。当時、貝塚では珍しかった鉄筋コンクリート造りで、70年以上経った今も基本構造は建設時のままです。

平成11年2月17日、大阪府下では南海電鉄の浜寺公園駅、諏訪ノ森駅西駅舎に続き、国登録有形文化財の駅舎となり、平成12年（2000年）には第1回「近畿の駅百選」の認定駅にも選ばれています。

平成21年6年1日に「水間駅」から改称され、「水間観音駅」になりました。

卒塔婆：仏塔
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/mizumaekisya.html</URL><備考 /></row>
<row _id="31"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>31</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>並河家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>ナミカワケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>21000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>北町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/3/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>並河家は、三代彦左衛門正文が老役（ろうやく）をつとめたのをはじめ、貝塚寺内（じない）の地頭（じとう）であった願泉寺卜半（ぼくはん）家の内家来として代々その要職をつとめた家柄です。明治4年（1871年）2月の作成と考えられる同家歴代の覚書には、初代文六正在は丹波国（たんばのくに）の生まれで、元禄12年（1699年）に卜半家六代了友に召し抱えられたとあります。以後六代琢磨正悟までは卜半家の家来をつとめ、明治時代以降も貝塚町や泉南郡役所の役人をつとめました。

当家住宅は、願泉寺の門前通りである「御坊前通り」に西面します。敷地は間口8間半、奥行21間で、主屋は間口一杯に建っています。その外観は町屋形式ですが、内部構造は式台玄関（しきだいげんかん）を配するなど、商家の町家とは趣を異にします。

式台玄関：式台を設けた玄関で、格式の高い玄関構造とされている。式台とは玄関の土間と部屋の境に設けられた板敷きの部分のこと
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/namikawake.html</URL><備考 /></row>
<row _id="32"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>32</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>山田家住宅主屋</名称><名称_カナ>ヤマダケジュウタクシュオク</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>21000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>北町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/3/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>山田家は並河家同様、貝塚寺内の地頭であった願泉寺卜半家の家来をつとめた家柄です。2代良助が、明治3年（1876年）9月作成の「卜半真教院家来中宗門改之帳」ほか幕末～明治初年の記録に登場しますが、家来として召し抱えられた経緯やその役職等については不明です。江戸時代末期から古美術商を営み、今日に至ります。

当家住宅は堀之町筋に南面しています。敷地は間口6間、奥行11間で、主屋は間口一杯に建っています。主屋は19世紀末頃の建築で、玄関に設けられた摺上（すり）げ大戸（おおど）が特徴的です。

摺上げ大戸：上方に摺り上げて開ける形式の大戸。大戸は、町屋などの出入口に設けられる潜り戸がついた戸で、土間を広く使用するために大きく作られる
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/yamadake.html</URL><備考 /></row>
<row _id="33"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>33</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>竹本家住宅東主屋ほか</名称><名称_カナ>タケモトケジュウタクヒガシシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>21000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>北町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/3/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>北町の竹本家住宅は堀之町筋に南面し、利齋家住宅の東隣に位置します。当家は昭和初期まで貝塚市特産の黄楊（つげ）櫛製造業を営んでいました。東西の主屋はもともとは別構造の2軒の民家建物です。東主屋は桁行2間半の小規模な町家で、後の改造も多いですが、江戸時代の小規模な町家の様子をしのぶことができます。西主屋は間口3間半の昭和7年（1832年）頃建築の町家で、貝塚における近代町家の一例といえます。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/takemotoke.html</URL><備考 /></row>
<row _id="34"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>34</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>利齋家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>リサイケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>21000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>北町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>3</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/3/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>利齋家は、当家が所蔵する「三宅氏系図」によると、先祖の式部という人物が松尾寺（現和泉市にある天台宗当院）に出家していましたが、織田信長の兵乱（天正9年・1581年）後に貝塚に来住したという旧家です。代々「孫左衛門」を名乗り、薬種問屋を営み、ほぼ江戸時代を通じて北之町の町年寄役をつとめていました。

当家住宅は堀之町筋と御下筋が交差する角地にあります。主屋は堀之町筋に南面し、その背後に中庭を隔てて離れが建ち、西側の御下筋に面して土蔵が建ちます。主屋は後の改造が大きいですが、原形が17世紀まで遡る可能性を持っています。離れは暖炉のタイルや窓のステンドグラスなどの装飾が残り、洋風の趣きが感じられます。
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/risaike.html</URL><備考 /></row>
<row _id="35"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>35</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>岡本家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>オカモトケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>21000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>北町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>5</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/3/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>岡本家はもと屋号を唐津屋といい、江戸時代は代々「市郎兵衛」を名乗り、昭和初期まで醤油製造業を営んでいました。江戸時代は北之町の町年寄役もつとめていました。

当家住宅は御下筋の北端の角地に位置します。主屋は御下筋に西面し、北側に新蔵、中蔵、北蔵および座敷（離れ）が並び建ちます。主屋は18世紀中頃まで遡る可能性があり、背後に増築された角屋座敷には天保12年（1841年）の棟札が残されています。土蔵3棟はいずれも醸造用ではなく、道具などを納める内蔵的な性格を持つものです。座敷は後の改造がありますが、内部に端正な8畳の茶室を残しています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/okamotoke.html</URL><備考 /></row>
<row _id="36"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>36</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>宇野家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>ウノケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>21000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>北町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>5</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/3/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>宇野家はもと貝塚鋳物師（いもじ）である金屋長右衛門（かなやちょうえもん）家の分家で、代々「茂兵衛」（もへえ）を名乗り、製粉業を営んでいました。明治20年（1887年）ごろに長右衛門家の鋳物業（いものぎょう）を引き継ぎ現在に至っています。本家の長右衛門家は江戸時代を通じて鋳物業を営み、全国の鋳物師を統率した京都の真継（まつぎ）家の支配のもと、泉州鋳物師仲間に所属していました。

当家住宅は旧紀州街道に面し、主屋は敷地の北西隅寄りで、その北東に茶室、西隅に西土蔵、背後に東土蔵が主屋を取り囲むように配置されています。主屋は桁行9間、梁間7間の大規模な町家で、安政元年（1854年）に発生した安政南海地震の後に建築されたと伝えられます。

鋳物師：鋳物をつくる職人
鋳物業：金属を溶かしたものを鋳型に流し込んで金物を造る業種
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/unoke.html</URL><備考 /></row>
<row _id="37"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>37</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>尾食家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>オメシケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>21000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>北町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/3/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>尾食家は16世紀半ばから貝塚寺内に居住し、江戸時代を通じて代々「左近右衛門」（さこんえもん）を名乗り、旅籠屋（はたごや）や両替商（金融業）を営み、幕末には干鰯屋（ほしかや）や木綿仲買なども営んでいました。尾食姓は、紀州藩主が参勤交代（さんきんこうたい）時に当家で食事したことから、呼ばれるようになったものと伝えられます。

当家住宅は貝塚寺内の北側の出入口にあたる「上方口」の西側、北境川に接して建ちます。敷地は間口10間規模で、川沿いにあるため、台形の平面となっています。主屋もこの地形にあわせて、居室の一部が台形になっています。前面は昭和6年（1931年）の国道26号（現在の府道堺阪南線）開発時に切断され、不整形な形状となっています。

旅籠屋：江戸時代、武士や一般庶民が宿泊した食事つきの旅館
干鰯：江戸時代から明治にかけて使用された鰯を乾燥させて作った肥料
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/omesike.html</URL><備考 /></row>
<row _id="38"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>38</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>竹本家住宅主屋</名称><名称_カナ>タケモトケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>10000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>西町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/7/1</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>西町の竹本家住宅は紀州街道から西に1本入った筋にある食い違いの交差点の南西に位置し、主屋は北面しています。古家を購入して内部を改装したもので、当初の住人の職業は不明です。間口7間規模で、正面に出格子（でごうし）や与力窓（よりきまど）などを配し、東側の無双窓（むそうまど）からは貝塚御坊願泉寺を望むつくりとしていることから、貝塚寺内の地頭（じとう）であった願泉寺卜半（ぼくはん）家の家来の住居であった可能性があります。

出格子：外部へ張り出して作った窓の格子
与力窓：太い格子を横にとりつけた窓。江戸時代、長屋などの道に面した側につけた
無双窓：窓に竪板をその板と同じ間隔くらいにあけてうち、内側に同じようにすきまを作った引戸を入れて、これを動かして閉じたり、開けたりできる窓


</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/takemotoke2.html</URL><備考 /></row>
<row _id="39"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>39</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>吉村家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>ヨシムラケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>10000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>西町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>3</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/7/1</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>吉村家は江戸時代中期から貝塚寺内に居住し、屋号を和泉屋・泉久といい、代々「久」の字を使った名前を名乗っていました。江戸時代には油屋や両替商（金融業）を営んでいました。当家にのこる「文政三年諸用記」によると、町年寄の格式を持ち、西之町の中老役をつとめていたことが明らかとなっています。

当家住宅は紀州街道から西に1本入った筋にある交差点の北東に位置しています。主屋は西面し、右手に付属屋があり、その奥の座敷へと続きます。奥座敷両横に土蔵が隣接し、北側土蔵の前には2間四方の中庭が配置されています。主屋は内外とも改造が多いですが、桁行5間半、梁間5間の建物で、18世紀中頃の建築と思われます。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/yosimurake.html</URL><備考 /></row>
<row _id="40"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>40</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>廣海家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>ヒロミケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>10000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>西町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>8</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2003/7/1</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>廣海家は、天保6年（1835年）、貝塚寺内の有力町人明瀬（みょうせ）家の娘ひろが、摂津国鳴尾（せっつのくになるお、現在の兵庫県西宮市鳴尾町）の酒造家辰馬半右衛門（たつうまはんえもん）家から養子を迎え、貝塚寺内の地頭（じとう）であった願泉寺卜半（ぼくはん）家から廣海姓を賜り、諸色問屋（廻船問屋）業を開業したことに始まります。慶応年間（1865年～68年）には4隻の大型和船を所有し、北陸地方、東北日本海岸、北海道産の米穀や肥料を扱っていました。明治16年（1883年）には海運業から撤退しましたが、戦前まで肥料問屋を営み、一方で貝塚銀行など地元企業の設立にも積極的に関わるなど、泉南地域の近代化にも深く貢献しました。

当家住宅は旧近木之町筋（こぎのちょうすじ）に面し、屋敷地は東西約73メートル、南北約36メートルで、ほぼ一街区を占めます。主屋は北面し、東より5間が付属屋、続く13間が本屋で一続きの屋根が架かっています。このほか、離れや土蔵などが敷地内に配置されています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/hiromike.html</URL><備考 /></row>
<row _id="41"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>41</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>貝塚市歴史展示館（旧ユニチカ㈱貝塚工場事務所）</名称><名称_カナ>カイヅカシレキシテンジカン（キュウユニチカカブシキガイシャカイヅカコウジョウジムショ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>56000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>半田</所在地_町字><所在地_番地以下>138-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市</所有者等><文化財指定日>2007/5/15</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>貝塚市歴史展示館（愛称：ふるさと 知っとこ！館）は、ユニチカ株式会社（旧大日本紡績株式会社・ニチボー株式会社）の貝塚工場事務所として建てられたものです。ユニチカ株式会社が平成17年（2005年）に事務所を改修し、表門から前庭を含めた一画を本市に寄贈し、本市が展示施設として平成17年10月1日に開館したものです。

建造物は、南に面して建ち、西半を北へ曲げたL字型の平屋建ての木造建築で、床面積は325.94平方メートルです。屋根はスレート葺きで寄棟造とします。正面入口両側の壁にはスクラッチタイルが貼られ、低平で水平感が強調された建物は、昭和初期の建築の特色を表しているものです。設計は橋本勉建築事務所、施工は竹中工務店が行いました。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/rekisitenjikan.html</URL><備考 /></row>
<row _id="42"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>42</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>南川家住宅旧主屋ほか</名称><名称_カナ>ミナミガワケジュウタクキュウシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>11000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>新町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2007/10/2</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>南川家住宅は、貝塚市新町に所在し、主屋と離れが国の有形文化財として登録されています。主屋は紀州街道に面し、昭和2年（1927年）に転用材を用いて建築されたと伝えられています。離れは主屋の奥にあり、明治初期の建築と考えられます。ともに切妻造、本瓦葺、木造平屋建てで、当地域の近代初頭から昭和初期の住宅の様子をうかがえる貴重な建物です。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/minamigawake.html</URL><備考 /></row>
<row _id="43"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>43</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>名加家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>ナカケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>18000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>南町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2008/4/18</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>名加家は文化15年（1818年）以前から貝塚寺内に居住し、大正年間頃まで貝塚の名産であるつげ櫛の卸問屋業を営んでいました。当家の住宅は主屋（北西部）と隠居屋（南東部）の2棟の建物を合わせたもので、ともに国の有形文化財に登録されています。主屋は18世紀中期から後期頃の建築、隠居屋は明治4年～5年（1871年～72年）頃に願泉寺卜半（ぼくはん）家の家来屋敷を曳家（ひきや）してきたといわれ、正面の駒寄（こまよ）せやツシ2階の虫籠窓（むしこまど）の形状が異なります。

曳家：建築物をそのままの状態で移動する建築工法
駒寄せ：建物の壁面を保護するために竹や角材などで作った低い柵
虫籠窓：虫かごのように目の細かい格子をつけた窓
ツシ2階：天井や屋根の下部に二階のように作った物置場
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/nakake.html</URL><備考 /></row>
<row _id="44"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>44</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>感田神社本殿ほか</名称><名称_カナ>カンダジンジャホンデンホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>10-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>12</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人感田神社</所有者等><文化財指定日>2008/10/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>祭神は天照大神（あまてらすおおみかみ）、素盞鳴尊（すさのおのみこと）、菅原道真（すがわらのみちざね）。貝塚寺内の産土神（うぶすながみ）。

創建年代は明らかではありませんが、海塚村（かいづかむら、現在の貝塚市海塚）の牛頭天王社と堀村（同堀）の天神社から祭神を勧請（かんじょう）し、陶器のほこらを造ったのが始まりだといわれています。慶安元年（1648年）に本社などが再建され、境内にあった神宮寺（じんぐうじ）である天台宗寺院「宗福寺」（そうふくじ）の住職が神事にあたるようになりました。

当初は「感田瓦明神」と称しましたが、明和5年（1768年）に大明神の号を授けられ「感田瓦大明神」と公称するようになりました。文化10年（1813年）、落雷により本殿などが焼失しましたが、翌年には再建されました。明治元年（1868年）、明治政府の神仏分離政策により宗福寺は廃寺となり、新たに神職がおかれました。同5年（1872年）には郷社となり、同40年（1907年）には貝塚町北にあった海幸神社を合祀（ごうし）しました。昭和20年（1945年）7月の貝塚空襲では、本殿、神饌所（しんせんじょ）、神楽殿（かぐらでん）、潜戸神社（くけとじんじゃ）が全焼、神馬舎（しんめしゃ）が一部被災しました。

神馬舎の神馬は、神馬舎と同時期の宝暦8年(1758年)に岸上武左衛門（きしがみぶざえもん）により製作され、文化7年（1810年）に彩色がほどこされたことが、残されている奉献木札から判明しています。一之社（琴平神社）本殿と神門は安永年間の建立で、いずれも精巧な装飾が施されています。特に神門は、大阪府下でも数少ない楼門形式で、大阪府近世社寺建築調査の際に実測調査が行われ、大工種子島勘左衛門（たねがしまかんざえもん）らが建立に関わっていることが判明しています。三之社・四之社・五之社の各本殿は小規模ながら幕末期の建立、参集殿は明治期の建築ですが、座敷には二間の床の間が設けられるとともに四周に長押（なげし）を回して格式を整えるなど江戸時代の形式をよく伝えています。

これらのほか、境内には50年以上経た建築物として南門、御輿蔵（みこしぐら）、齋館（さいかん）、神楽殿があり、敷地境には古式を伝える土塀が残されています。さらに、境内に残る濠（ほり）は貝塚寺内の環濠の一部で、社殿や鳥居、灯籠、築地などとともに、同神社の景観を構成する貴重な遺跡と言えます。

天照大神：古事記や日本書紀にあらわれる日本固有の神で、皇室の祖神として崇拝されたきた日の神。伊邪那岐（いざなぎ）命の娘で、弟である素盞鳴尊の粗暴なふるまいを怒って天の岩屋戸に隠れた神話などで有名
素盞鳴尊：古事記や日本書紀、風土記にあらわれる日本固有の神。伊邪那岐命・伊邪那美（いざなみ）命の子で、天照大神の弟とされる
菅原道真：平安時代の公家で、学者。学問の神「天満天神」としてあがめられる
産土神：その土地に住む人びとが共通の守護神として祀る神
勧請：神仏の分身、分霊を他の場所に移しまつること
神宮寺：神社に付属して置かれた寺院
合祀：ある神社に祀っていた祭神を、他の神社に移して一緒に祀ること
長押：柱と柱との間を、柱の側面から水平に打ちつけた材木のこと
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/kandajinja.html</URL><備考 /></row>
<row _id="45"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>45</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>寺田家住宅主屋ほか</名称><名称_カナ>テラダケジュウタクシュオクホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>11000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>新町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>7</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2011/7/25</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>寺田家は、岸和田を中心として築かれた寺田財閥の一族である楠治が大正初年に分家した家で、「寺楠」の屋号で呼ばれました。楠治は、分家にともない現在の屋敷地に近い麻生郷村海塚の地で鉄工所を営み、現在地に屋敷地を求めたのは昭和9年（1934年）頃で、新宅をのぞく建造物は昭和11年（1936年）に建築されました。

主屋は敷地北側に位置し、ポーチから応接部をスパニッシュ様式とし、ステンドグラス窓などが設けられています。内蔵は主屋東部に接続して建ち、主屋よりも低い位置に建てられている納屋は、上の階が主屋へ通じる1階、下の階が地下1階となっています。新宅は貝塚市内で最も古い鉄筋コンクリート造です。外蔵は移築された建造物で、入口の庇（ひさし）を支える部分の彫刻より、当初の建築年代は幕末から明治の建築と考えられています。本門と石垣塀は、府道204号堺阪南線に面しています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/teradake.html</URL><備考 /></row>
<row _id="46"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>46</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>要家住宅表書院ほか</名称><名称_カナ>カナメケジュウタクオモテショインホカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>登録有形文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>11</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2017/6/28</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>要家は、江戸時代、岸和田藩領内の畠中村と神前（こうざき）村の2か村の庄屋を代々務め、寛政元年（1789年）に藩の七人庄屋（しちにんじょうや）に加えられた家です。七人庄屋は、藩領内の有力庄屋7人が村落支配全体に深く関わる制度として確立しており、明治維新まで要家は、七人庄屋の一員として岸和田藩行政の役割を担いました。

要家住宅は、要家の屋敷地内にある建造物群です。その屋敷地は、一辺約90メートルにも及ぶ広大なもので、南東側の中央に表長屋門を構え、その左右よりのびる本瓦葺の土塀が全体を囲んでいます。主屋（しゅおく）は敷地のほぼ中央に建ち、その南西側に表書院、北西側に離れ書院と内蔵、内蔵の北東側に唐戸蔵（かねのとぐら）、道蔵（みちぐら）、道具蔵の3棟がコの字形に建ちます。内長屋門は表長屋門の背後にT字形に接続し、中門（なかもん）は表書院の南西側に建ち、また庭門及び塀は中門の南西側の壁から北西にのびています。

要家住宅を構成する主屋をのぞく主要な建物は、いずれも江戸時代に建築されたもので、岸和田藩の七人庄屋屋敷の全体構成をうかがうことができる歴史的重要性が極めて高いものです。

</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/kuni_sitei/tourokubunkazai/kanamekejuutaku.html</URL><備考 /></row>
<row _id="47"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>47</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺石造五輪塔</名称><名称_カナ>コウオンジセキゾウゴリントウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>基</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1970/2/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積の孝恩寺は、元禄7年（1694年）に再興された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂（釘無堂）は、もと観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年（1914年）孝恩寺が観音堂を合併したことで、以後同寺の本堂となりました。観音寺は、行基に開創されたとされる寺院ですが、天正13年（1835年）の豊臣秀吉による紀州攻めに際して伽藍（がらん）や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

孝恩寺の五輪塔は和泉砂岩製で一重の基壇上に立ちます。各輪正面に梵字（ぼんじ）（胎蔵界大日種子〈たいぞうかいだいにちしゅじ〉）を刻しており、地輪中央の梵字の右に「貞和二二年戊子」、左に「七月十四日」と刻します。この五輪塔は、国宝観音堂や重要文化財仏像群とともに、廃観音寺の遺物と思われ、建立の年代が明らかな五輪塔として貴重なものです。

伽藍：寺院の建物の総称
梵字：サンスクリットとよばれる梵語を表記するために使用された古代インドの文字
胎蔵界大日種子：仏教の世界観で理の世界とされる「胎蔵界」の中心本尊である大日如来をあらわす1字の梵字「アーンク」のこと
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/kouonjigorintou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="48"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>48</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺銅鐘</名称><名称_カナ>ガンセンジドウショウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>口</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1970/2/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半家の2代了閑は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の銅鐘は、銘文によると大和国広瀬郡箸尾郷大福寺（奈良県北葛城郡広陵町所在の真言宗寺院）の鐘として、鎌倉時代初期の貞応3年（1224年）2月に鋳造されたものです。その後、康正2年（1456年）4月、木島庄水間寺（貝塚市水間所在の天台宗寺院）に買い取られ、さらに天正13年（1585年）11月、卜半斎「了珍」（願泉寺卜半家初代）を願主（がんしゅ）として「海塚之寺内」に買い取られたものです。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/gansenjidousyou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="49"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>49</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>道教寺銅鐘</名称><名称_カナ>ドウキョウジドウショウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>56001</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>半田一丁目</所在地_町字><所在地_番地以下>3-15</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>口</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人道教寺</所有者等><文化財指定日>1971/3/31</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>道教寺は、真宗大谷派の寺院で、14世紀ごろ、初代道宣が本願寺第3代覚如に帰依（きえ）して当寺を開創したといわれています。

道教寺の銅鐘は、もと河内国勝軍寺の鐘と伝えられ、鎌倉時代に鋳造されたもので、作者は山川助永です。製作年代については、銘文が著しく摩滅していますが、「正」の文字を読み取ることができることから、正応年間に鋳造されたものと考えられています。

帰依：神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぐこと
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/doukyoujidoukyou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="50"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>50</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>岩橋善兵衛天文観測器具及び平天儀等一式</名称><名称_カナ>イワハシゼンベイテンモンカンソクキグオヨビヘイテンギトウイッシキ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>49000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>三ツ松</所在地_町字><所在地_番地以下>216</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>10</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市（貝塚市立善兵衛ランド）</所有者等><文化財指定日>2003/1/31</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>岩橋善兵衛（1756年から1811年まで）は和泉国南郡脇浜新町（現在の貝塚市新町）の出身です。善兵衛は、眼鏡職人として生計をたてながら、オランダからの渡来品の望遠鏡を研究し、寛政5年（1793年）『窺天鏡（きてんきょう）』とよばれる自作の望遠鏡を完成させました。寛政の改暦にあたり江戸幕府の天文方が使用したのをはじめ、天文方の指導のもと全国測量を行い精密な日本地図を作成した伊能忠敬（いのうただたか）にも使用されました。そのほか、紀伊和歌山の徳川家や近江彦根の井伊家などの諸大名、江戸、大坂を主とする諸国の学者らからも多くの需要があったことが知られています。また、享和元年（1801年）には星座・月齢・潮汐の早見盤『平天儀』を完成し、翌2年にはその理論書『平天儀図解』を著述しています。伝存する善兵衛製作の望遠鏡、天文観測・測量器具およびその詳密な観測結果に基づく独創的な著述は、江戸時代の日本の自然科学、とりわけ天文学分野における高い製作技術とその科学的到達点を示す貴重な文化財です。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/zenbeetenmonkansokukigu.html</URL><備考 /></row>
<row _id="51"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>51</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>貝塚市東盆おどり</名称><名称_カナ>カイヅカシヒガシボンオドリ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定文化財</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>17000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>東</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市東盆おどり保存会</所有者等><文化財指定日>1993/11/24</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>東盆踊りは、江戸時代中期に円光寺（貝塚市東所在の浄土真宗本願寺派の寺院）において始められた報恩講（浄土真宗の開祖親鸞の命日に行われる法要）が起源とされています。ゆったりとした三拍子の音頭で、哀調をおびた独特の節まわしをとります。「くどき」と呼ばれる音頭が中心ですが、「ヨホホイ」と呼ばれる独特のものも残っています。伴奏には太鼓や鉦を用いず、三味線や尺八・横笛のほか、胡弓や大正琴も用いられています。踊りは手ぶりのしぐさから、「念仏おどり」の一種とも言われています。踊り手はゆかた姿のほか、いろいろな仮装をして踊ります。

現在は、8月14日から16日にかけて円光寺境内で踊られます。午後8時から12時近くまで踊られ、昔は最終日の夜は、夜通し踊り明かしたそうです。

なお、本行事は昭和49年3月29日付で大阪府の「記録作成の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選ばれた後、平成5年11月24日付で大阪府の文化財に指定されています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/higasibonodori.html</URL><備考 /></row>
<row _id="52"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>52</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>熊野街道半田一里塚</名称><名称_カナ>クマノカイドウハンダイチリヅカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定史跡</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>56000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>半田</所在地_町字><所在地_番地以下>679</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>基</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>半田町会</所有者等><文化財指定日>1959/4/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>熊野街道は古代には南海道と呼ばれ、別名「小栗街道」とも呼ばれる古代からの主要街道です。平安時代には、熊野詣の参詣道として賑わいました。半田一里塚は、熊野街道沿いに設けられた一里塚としては現存する唯一のものです。高さ4メートル、周囲約30メートルの円形で雑木に覆われています。以前は、この塚の前にもう一つの塚があったといわれています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/handaitiriduka.html</URL><備考 /></row>
<row _id="53"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>53</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>行枩邸のむく</名称><名称_カナ>ユキマツテイノムク</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定天然記念物</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>35000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>森</所在地_町字><所在地_番地以下>580</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>株</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>1981/6/1</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>森の行枩邸の庭内に植栽されています。当家は、江戸時代に森村の庄屋や年寄を勤めた旧家です。

むくの木はニレ科に属し、暖温帯地方に広く分布する落葉広葉樹です。高木となり、関東ではケヤキとともに街路樹などによく用いられています。また、葉の表面があらいので、トクサの代用として器物を磨く材料とされます。

行枩邸のものは、樹高が約15メートル、目通り直径（地上から約1.5メートル高の直径）約80センチメートル、地上より約3メートルのところで大きく2本に分かれ、枝は上方によく張っています。樹齢は約300年と推定されています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/yukimatuteimuku.html</URL><備考 /></row>
<row _id="54"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>54</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>菅原神社のカクレミノ</名称><名称_カナ>スガワラジンジャノカクレミノ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府指定天然記念物</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>50000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>大川</所在地_町字><所在地_番地以下>485-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>株</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2005/1/21</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>菅原神社は、貝塚市大川の集落のつきあたりに位置し、菅原道真（すがわらのみちざね）を祭神とする神社です。『和泉国庄名高寺社地并古城名所記』には、天文5年（1536年）に松浦肥前守守（まつらひぜんのかみまもる）が建立したと記されますが、それ以外の社歴については明らかではありません。

カクレミノはウコギ科の広葉樹で、大きな葉がミノに似ているのが名前の由来です。菅原神社のカクレミノは、秬谷川（きびたにがわ）の上流にあたる大川左岸の標高204メートルの地点、菅原神社の本殿が建つ基檀の前面北斜面に位置しています。樹高約14メートル、目通り幹周（地上から約 1.5メートル高の幹周）1.65メートルを測り、幹は北東方向へ約60度の傾斜をもって傾いて立っています。樹形は、地上2.5メートルの所から本殿方向に長く伸びた大きな枝を中心に全体の枝張りも美しく、樹冠が境内を美しく覆っています。

根元には神社本殿の石垣の石材が根にからまるように散在しており、本カクレミノの成長によって石垣を崩した状況がうかがわれ、この石垣の崩壊により現状に近い幹の傾斜を持った可能性も考えられます。こうした状況から、植栽された可能性も残りますが、本殿前面の石垣付近に自生した可能性が高く、成長とともに神社と深いかかわりをもって手厚く保護されてきたものと思われます。

開花期には、その蜜や花粉が近辺の昆虫類の重要な餌資源となっているものと見られ、周辺では蝶、ハチ、甲虫類などが多数観察されるほか、その花の量からも樹勢は極めて盛んな状態にあるものと判断できます。

内陸部の山地では非常に珍しく、しかもカクレミノとしては他に類を見ないほど巨木に育ち、個体として学術上極めて貴重な樹木です。
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/sugawarakakuremino.html</URL><備考 /></row>
<row _id="55"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>55</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>貝塚の東盆踊り</名称><名称_カナ>カイヅカノヒガシボンオドリ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府記録選択</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>17000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>東</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市東盆おどり保存会</所有者等><文化財指定日>1974/3/29</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>東盆踊りは、江戸時代中期に円光寺（貝塚市東所在の浄土真宗本願寺派の寺院）において始められた報恩講（浄土真宗の開祖親鸞の命日に行われる法要）が起源とされています。ゆったりとした三拍子の音頭で、哀調をおびた独特の節まわしをとります。「くどき」と呼ばれる音頭が中心ですが、「ヨホホイ」と呼ばれる独特のものも残っています。伴奏には太鼓や鉦を用いず、三味線や尺八・横笛のほか、胡弓や大正琴も用いられています。踊りは手ぶりのしぐさから、「念仏おどり」の一種とも言われています。踊り手はゆかた姿のほか、いろいろな仮装をして踊ります。

現在は、8月14日から16日にかけて円光寺境内で踊られます。午後8時から12時近くまで踊られ、昔は最終日の夜は、夜通し踊り明かしたそうです。

なお、本行事は昭和49年3月29日付で大阪府の『記録作成等を講ずべき無形の民俗文化財』にも選ばれた後、平成5年11月24日付で大阪府の文化財に指定されています。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/higasibonodori.html</URL><備考 /></row>
<row _id="56"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>56</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>三ツ松明土行念仏（チャンチャンヒキ）　</名称><名称_カナ>ミツマツミョウドイキネンブツ（チャンチャンヒキ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府記録選択</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>49000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>三ツ松</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>三ツ松明土行念仏保存会</所有者等><文化財指定日>2001/2/2</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>三ツ松明土行念仏、通称「チャンチャンヒキ」は、先祖供養と人生儀礼の2つの要素をもつ盆行事です。本来は、毎年8月7日～14日に、年行司（ねぎし）とよばれる数え年18歳になる男子全員が参加し、夕刻に太鼓と鉦を打ち鳴らし、念仏を唱えながら、村内の決められた道順をたどり、共同墓地まで往復するというものでした。

行事はまず、集落の中心にある「堂場」（どうのば）に夕方5時ごろ集まり、盆踊りに使う締め太鼓を先頭に、鉦がつづき、「道歌」をうたいながら出発します。そして、三ッ松の集落を一巡したあと、旧道（水間街道）を通って、「辻堂」、「共同墓地」に至り、それぞれの場所で太鼓を降ろして念仏和讃（わさん）など数回唱えます。その後集落へ戻り、「堂場」で念仏和讃を唱えます。

現在は、昭和30年代に途絶えていたものを、当時の経験者が中心となって保存会をつくり、毎年8月14日に行い、保存継承に努めています。その起源を中世にさかのぼる可能性をもつ貴重な伝統行事で、また町会ぐるみで地域づくりの一環として取り組まれていることは評価に値します。

なお、本行事は平成10年2月23日付で貝塚市の文化財に指定後、平成13年2月2日付で大阪府の「記録作成の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選ばれています。

和讃：仏教歌謡の一つで、仏の徳や教え、または高僧の行跡などを讃えたもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/tyantyanhiki.html</URL><備考 /></row>
<row _id="57"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>57</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>名越安養寺の鉦講</名称><名称_カナ>ナゴセアンヨウジノカネコウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>府記録選択</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>44000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>名越</所在地_町字><所在地_番地以下>507-2</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人安養寺</所有者等><文化財指定日>2009/1/16</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>双盤念仏は双盤（鉦）を叩いて節をつけた念仏を唱えるもので、全国の浄土宗寺院でひろく行われる念仏行事です。安養寺の双盤念仏は毎年春、秋の彼岸と8月3日の施餓鬼会（せがきえ）、11月の御十夜（おじゅうや）に開催しており、江戸時代中期に夜念仏から発展したものといわれます。夜念仏とは講中の人々が鉦を叩いて村の各家を回り、念仏を唱える民俗行事です。安養寺では、戦時中一時期途切れていたようですが、戦後詳しく知る人に教えてもらって復活させました。

双盤は2基あって、二人ずつ計4名が鉦を叩いて念仏を唱えます。一回の演奏は20分程度で、それが終わると和讃（わさん）、回向（えこう）、講話と続きます。鉦講のなかで双盤念仏を叩くことができる人は7人いるそうで、20年程続けている人もいます。念仏にはいくつか流派があり、安養寺のものは和歌山市の西山浄土宗の寺院薬善寺から伝わった「大川流」だと代々伝えられています。

江戸時代には念仏信仰が盛んとなり、市内でも流派や伝承経路の違いなどにより、様々な形の念仏行事があったと思われます。こうした念仏行事は人々の厚い信仰により講が組織され、大事に守られていました。村人達は講中で互いに協力しながら行事を執り行うことにより、共同体としての結びつきを強めていたのです。

大阪府下では、戦時中の金属不足による双盤の供出や戦後の後継者不足により、このような双盤念仏の伝承はほとんど途絶えたものと思われ、現在まで伝承されているというのは、非常に貴重であるといえます。
 
和讃：仏教歌謡に一つで、仏の徳や教え、または高僧の行跡などを讃えたもの
回向：仏事の最後に経文を唱えること
講：神社における氏子や仏教における檀家などがある目的のためにあつまって作った信者の団体
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/fu_shitei/anyoujikanekou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="58"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>58</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺書院</名称><名称_カナ>ガンセンジショイン</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

書院は、重要文化財の本堂の背後に位置し、江戸時代にあった庫裏（くり）、客殿の一部です。願泉寺蔵「吟国関絵図」（ぎんこくかんえず）によると、座敷部はもと花鳥の間、竜の間と呼ばれ、その横に納戸二間が続きます。本堂側に続く茶室は文化14年（1817年）の建築です。部分的に改造を受けていますが、唯一残された卜半家の役所の一部でもあることから、江戸時代の願泉寺の特殊性を知るうえで貴重な建造物であることはもちろん、願泉寺のみならず寺内町の歴史を知るうえでも価値の高いものです。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
庫裏：寺院で、住職やその家族などが住む建物
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/gansenjisyoin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="59"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>59</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺経蔵</名称><名称_カナ>ガンセンジキョウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

経蔵は、本堂の前庭部に位置する経典類を納めるための建物です。3間四方の土蔵造で、北側に唐破風（からはふ）(山形の部分）のついた入口があり、方形の屋根（宝形造＝ほうぎょうづくり）をあげています。願泉寺所蔵『手鑑』（てかがみ）に「一、経蔵 貞享五年ヨリ七拾一年、三間四面」とあることから、貞享（じょうきょう）5年（1688年）に建てられたことがわかります。床下木部をモルタル塗りしていますが、伽藍（がらん）整備当初からの構成要素として貴重な建造物です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
経典：仏の説いた教えを書き記した書物
唐破風：反転曲線をもった山形の破風
宝形造：屋根の形式の一種で、隅棟（二つの屋根面が接する部分）が屋根の中央に集まる形式のもの
伽藍：寺院の建物の総称
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/gansenjikyouzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="60"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>60</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺井戸屋形（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジイドヤカタ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から同13年まで紀州より本願寺第11代顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12代准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、同15年（1610年）住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状を与えられ、以後同家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

井戸屋形は、本堂の前庭部に位置する井戸を覆う建造物で、吹放し形式で、屋根は切妻造（きりづまづくり）本瓦葺です。建築年代についてはこれまで不明でしたが、平成10年秋の台風被害による屋根瓦の全面葺替工事の時に棟札（むなふだ）が発見され、文政元年（1818年）に再建されたことが明らかになりました。経蔵と同じく、伽藍（がらん）整備当初からの構成要素として貴重な建造物です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
伽藍：寺院の建物の総称
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/gansenjiidoyakata.html</URL><備考 /></row>
<row _id="61"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>61</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>水間寺本堂</名称><名称_カナ>ミズマデラホンドウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>39000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>水間</所在地_町字><所在地_番地以下>638</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人水間寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>水間寺は、山号を「龍谷山」といい、天台宗延暦寺末で別格本山の寺院です。寺伝によれば、聖武天皇の勅願、行基（ぎょうき）の開基とされます。創建以来、古代から中世にかけては多くの院坊と寺領を有していたようです。15世紀末に紀州根来寺の支配下となったことで、天正13年（1585年）の豊臣秀吉の紀州攻め時にはその伽藍（がらん）はことごとく焼失し、元禄年間(1688年～1704年)には歴代岸和田城（藩）主の保護を受け、本堂以下おもな諸堂が再建されました。しかし、天明4年（1784年）の火災によって本堂や三重塔などは焼失しました。その後、本堂は文化8年（1811年）、三重塔は天保年間（1830年～44年）に再建され、現在にいたります。

本堂は、高さ約0.8メートルの基壇上に東面して建ち、平面は約23メートル四方におよび、大阪府下でも最大級の規模をもつ本堂です。桁行（けたゆき）7間、梁間（はりま）7間の周囲に1間の庇（ひさし）をめぐらす復古的なものですが、平面・構造は特異で、組物（くみもの）が非常に装飾的です。全体に木太く、破綻なくまとめられており、文化8年（1811年）の建築年代を考えると、極めて優れた建物といえます。府下唯一の三重塔などとともに、現存する伽藍を構成する中心建築として貴重な建造物です。なお、建築年代を確定させる資料として貴重な棟札（むなふだ）が残っています。

伽藍：寺院の建物の総称
組物：斗（ます）や肘木（ひじき）などの部材で構成されるもので、柱の上にのり屋根や軒を支える構造物
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/mizumaderahondou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="62"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>62</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>水間寺三重塔</名称><名称_カナ>ミズマデラサンジュウノトウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>39000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>水間</所在地_町字><所在地_番地以下>638</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人水間寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>水間寺は、山号を「龍谷山」といい、天台宗延暦寺末で別格本山の寺院です。寺伝によれば、聖武天皇の勅願、行基（ぎょうき）の開基とされます。創建以来、古代から中世にかけては多くの院坊と寺領を有していたようです。15世紀末に紀州根来寺の支配下となったことで、天正13年（1585年）の豊臣秀吉の紀州攻め時にはその伽藍（がらん）はことごとく焼失し、元禄年間(1688年～1704年)には歴代岸和田城（藩）主の保護を受け、本堂以下おもな諸堂が再建されました。しかし、天明4年（1784年）の火災によって本堂や三重塔などは焼失しました。その後、本堂は文化8年（1811年）、三重塔は天保年間（1830年～44年）に再建され、現在にいたります。

水間寺の三重塔は、本堂の東南にあり、大阪府内では唯一のものです。使用されている部材や装飾などに本堂と同じ様式が見られることから、当寺の伝承どおり、本堂に引き続いて同じ棟梁（とうりょう）らの手によって建てられたものと考えられます。ただし、初重（しょじゅう）に使われている蟇股（かえるまた）は、様式的にみて元禄年間の再建時のものを使用していると思われます。本堂とともに、現存する伽藍を構成する中心建築として貴重な建造物です。

伽藍：寺院の建物の総称
初重：多層塔の第一層部分
蟇股：蛙が股を広げたような形をした梁（はり）などにおかれる構造材
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/mizumaderasanjuunotou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="63"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>63</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>水間寺行基堂（開山堂）</名称><名称_カナ>ミズマデラギョウキドウ（カイザンドウ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>39000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>水間</所在地_町字><所在地_番地以下>638</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人水間寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>水間寺は、山号を「龍谷山」といい、天台宗延暦寺末で別格本山の寺院です。寺伝によれば、聖武天皇の勅願、行基（ぎょうき）の開基とされます。創建以来、古代から中世にかけては多くの院坊と寺領を有していたようです。15世紀末に紀州根来寺の支配下となったことで、天正13年（1585年）の豊臣秀吉の紀州攻め時にはその伽藍（がらん）はことごとく焼失し、元禄年間(1688年～1704年)には歴代岸和田城（藩）主の保護を受け、本堂以下おもな諸堂が再建されました。しかし、天明4年（1784年）の火災によって本堂や三重塔などは焼失しました。その後、本堂は文化8年（1811年）、三重塔は天保年間（1830年～44年）に再建され、現在にいたります。

行基堂は、秬谷（きびたに）川をはさんだ西側の山腹に位置します。3間四方、寄棟造（よせむねづくり）本瓦葺の小堂で、組物（くみもの）の様式から考えると、天正年間以前の建築を江戸時代前期に改築した可能性があります。しかしながら、水間寺でもっとも古いもので、中世の水間寺の有り様を伝える建造物として貴重です。また、内部には江戸時代前期の制作と考えられる木造行基坐像が安置されています。

伽藍：寺院の建物の総称
組物：斗（ます）や肘木（ひじき）などの部材で構成されるもので、柱の上にのり屋根や軒を支える構造物
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/mizumaderagyoukidou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="64"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>64</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>水間寺弁財天宮殿 </名称><名称_カナ>ミズマデラベンザイテンクウデン</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>39000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>水間</所在地_町字><所在地_番地以下>638</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人水間寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>水間寺は、山号を「龍谷山」といい、天台宗延暦寺末で別格本山の寺院です。寺伝によれば、聖武天皇の勅願、行基（ぎょうき）の開基とされます。創建以来、古代から中世にかけては多くの院坊と寺領を有していたようです。15世紀末に紀州根来寺の支配下となったことで、天正13年（1585年）の豊臣秀吉の紀州攻め時にはその伽藍（がらん）はことごとく焼失し、元禄年間(1688年～1704年)には歴代岸和田城（藩）主の保護を受け、本堂以下おもな諸堂が再建されました。しかし、天明4年（1784年）の火災によって本堂や三重塔などは焼失しました。その後、本堂は文化8年（1811年）、三重塔は天保年間（1830年～44年）に再建され、現在にいたります。

弁財天宮殿は、行基堂の東上方にある弁天堂内にあり、内部には木造弁財天坐像（江戸時代前期の制作）を安置しています。桁行（けたゆき）1間、梁間（はりま）1間、入母屋造（いりもやづくり）こけら葺、妻入（つまいり）の建物で、全面に彩色がほどこされています。様式から見て江戸時代前期のもので、岸和田藩主岡部氏によって再建された当時の建築様式や信仰を伝えるものとして貴重です。なお、弁天堂は、3間四方、寄棟造（よせむねづくり）本瓦葺の小堂で、宮殿と同時期の建物ですが、近年、前面の拝堂増築に際して改造されています。

伽藍：寺院の建物の総称
妻入：建物の妻（棟に対して直角の側面）に出入口を設けて、それを正面とするもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/mizumaderabenzaitenguuden.html</URL><備考 /></row>
<row _id="65"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>65</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>水間寺本堂棟札（附）</名称><名称_カナ>ミズマデラホンドウムナフダ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>建造物</種類><場所名称 /><町字ID>39000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>水間</所在地_町字><所在地_番地以下>638</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>棟</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人水間寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>水間寺は、山号を「龍谷山」といい、天台宗延暦寺末で別格本山の寺院です。寺伝によれば、聖武天皇の勅願、行基（ぎょうき）の開基とされます。創建以来、古代から中世にかけては多くの院坊と寺領を有していたようです。15世紀末に紀州根来寺の支配下となったことで、天正13年（1585年）の豊臣秀吉の紀州攻め時にはその伽藍（がらん）はことごとく焼失し、元禄年間(1688年～1704年)には歴代岸和田城（藩）主の保護を受け、本堂以下おもな諸堂が再建されました。しかし、天明4年（1784年）の火災によって本堂や三重塔などは焼失しました。その後、本堂は文化8年（1811年）、三重塔は天保年間（1830年～44年）に再建され、現在にいたります。

棟札は、文化8年（1811年）の本堂再建時のもので、表面中央に「（梵字〈ぼんじ〉）奉再興龍谷山水間寺金堂一宇」という墨書（ぼくしょ）があり、「辛 文化八年/未 三月廿六日」の年月日が見えます。本堂の建築年代を確定できる資料として貴重です。

伽藍：寺院の建物の総称
梵字：サンスクリットとよばれる梵語を表記するために使用された古代インドの文字
墨書：墨で書いたもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kenzoubutu/mizumaderamunahuda.html</URL><備考 /></row>
<row _id="66"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>66</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>吉祥園寺十六羅漢画像</名称><名称_カナ>キッショウオンジジュウロクラカンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>42000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>王子</所在地_町字><所在地_番地以下>703</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>16</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人吉祥園寺</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>吉祥園寺は白鳳時代の創建と伝えられ、鎌倉時代には寺勢が興隆（こうりゅう）します。藤原定家（ふじわらのていか）の「後鳥羽院熊野御幸記（ごとばいんくまのごこうき）」に吉祥音寺の名で登場します。現在は、真言宗御室派に属しています。

十六羅漢は釈迦の伝法を守り伝える使命をもち、玄奨訳「法住記」（げんじょうやく「ほうじゅうき」）を典拠（てんきょ）としています。我が国の十六羅漢画像には漢画系と大和絵系があります。大和絵系は柔和な表情と温雅な画風を特徴とし、東京国立博物館本(11世紀)の系統と兵庫県斑鳩寺本(12世紀)の系統があります。吉祥園寺の作品は斑鳩寺本の系統で、浄瑠璃寺（じょうるりじ）三重塔初重（しょじゅう）壁画（12世紀）に次ぐ古例です。保存状態は良好とは言えませんが、16幅一揃いが残っており、類品の少ない十六羅漢画像の優品として、仏教美術史上貴重なものです。

興隆：勢いが盛んになり栄えること
後鳥羽院熊野御幸記：平安時代の歌人である藤原定家が執筆した建仁元年（1201年）の後鳥羽上皇による熊野参詣の様子を記した日記。貝塚市域にあった「浅宇河（麻生河）王子」・「鞍持王子」・「胡沐（近木）新王子」を参詣し、「コ木二王（近木仁王）堂」・「吉祥音（園）寺」で昼食をとったことが記される
玄奨訳「法住記」：三蔵法師として知られる中国唐時代の僧侶玄奘（600年～664年）が訳した経典の一つ
典拠：出典
浄瑠璃寺：京都府木津川市加茂町西生（にしお）にある真言律宗の寺院
初重：多層塔の第一層部分
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/kisyouenji16rakan.html</URL><備考 /></row>
<row _id="67"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>67</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>吉祥園寺釈迦三尊画像（附）</名称><名称_カナ>キッショウオンジシャカサンゾンガゾウ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>42000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>王子</所在地_町字><所在地_番地以下>703</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>3</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人吉祥園寺</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>吉祥園寺は白鳳時代の創建と伝えられ、鎌倉時代には寺勢が興隆（こうりゅう）します。藤原定家（ふじわらのていか）の「後鳥羽院熊野御幸記（ごとばいんくまのごこうき）」に吉祥音寺の名で登場します。現在は、真言宗御室派に属しています。

釈迦三尊画像は南北朝期のものですが、後世に大きく補彩されており、当時の姿でないことが惜しまれます。

興隆：勢いが盛んになり栄えること
後鳥羽院熊野御幸記：平安時代の歌人である藤原定家が執筆した建仁元年（1201年）の後鳥羽上皇による熊野参詣の様子を記した日記。貝塚市域にあった「朝宇河（麻生河）王子」・「鞍持王子」・「胡沐（近木）新王子」を参詣し、「コ木二王（近木二王）堂」・「吉祥音（園）寺」で昼食をとったことが記される
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/kisyouenjisyakasanson.html</URL><備考 /></row>
<row _id="68"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>68</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>吉祥園寺縁起（附）</名称><名称_カナ>キッショウオンジエンギ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>42000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>王子</所在地_町字><所在地_番地以下>703</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>巻</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人吉祥園寺</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>吉祥園寺は白鳳時代の創建と伝えられ、鎌倉時代には寺勢が興隆（こうりゅう）します。藤原定家（ふじわらのていか）の「後鳥羽院熊野御幸記（ごとばいんくまのごこうき）」に吉祥音寺の名で登場します。現在は、真言宗御室派に属しています。

縁起は享保7年(1712年)に記されたものですが、寺史や画像の伝来を示す現存唯一の資料です。楷書体で1行平均17文字で書かれています。所々に朱点あり、見返しには金箔がおされています。

興隆：勢いが盛んになり栄えること
後鳥羽院熊野御幸記：平安時代の歌人である藤原定家が執筆した建仁元年（1201年）の後鳥羽上皇による熊野参詣の様子を記した日記。貝塚市域にあった「浅宇河（麻生河）王子」・「鞍持王子」・「胡沐（近木）新王子」を参詣し、「コ木二王（近木二王）堂」・「吉祥音（園）寺」で昼食をとったことが記される</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/kisyouenjiengi.html</URL><備考 /></row>
<row _id="69"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>69</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>尊光寺絹本著色方便法身尊像</名称><名称_カナ>ソンコウジケンポンチャクショクホウベンホッシンソンゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>6-12</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人尊光寺</所有者等><文化財指定日>2003/2/6</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>尊光寺は、山号を「二位山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。もとは高野山の学頭（がくとう）であった正了（せいりょう、しょうりょう）という僧を開基とする真言宗寺院でしたが、明応2年（1493年）、嘉祥寺（現在の泉南郡田尻町）において、本願寺第8世蓮如の教えを受けて浄土真宗に改宗したと伝わります。大永4年（1524年）、本願寺第9世実如より、開基仏（本尊）として方便法身尊像を与えられ、寺号を尊光寺と改めました。もとは麻生郷新井村（あそごうにいむら、現在の貝塚市新井）にありましたが、天正16年（1588年）、貝塚寺内（じない）の現在地に移転しました。江戸時代は興正寺末の寺院で、麻生郷7ヵ村にあった真宗道場を支配していました。

尊光寺の方便法身尊像は、淡い紺色の地に、48条（じょう）の光明（こうみょう）を放ち、蓮台（れんだい）に両足を揃えて立つ姿の、本願寺系の典型的な阿弥陀如来の絵像です。光明が像の中央を上下に通らない描き方が、文明初年（1473年頃）以降に本願寺より与えられる方便法身尊像の特徴を示しています。像が全体的に短身でずんぐりとしたスタイルに仕上げられていることや、衣紋（えもん）の文様に細かい截金（きりがね）技法を使用するなど、16世紀前半期の特徴を持っています。

また、裏書の墨書（ぼくしょ）により、 大永4年5月12日、本願寺第9世実如によって、当時「二位村」（新井村）にあった尊光寺に与えられた絵像とわかります。貝塚市内に残る最古の方便法身尊像で、市内に残る数少ない室町時代以前の仏教絵画のひとつとして貴重です。

学頭：寺院や神社において学事を統率するくらいにあるもの
截金：金などの箔を細い線状や、さまざまな形の小片に切ってはりつける技法
墨書：墨で書いたもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/son.houben.html</URL><備考 /></row>
<row _id="70"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>70</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色方便法身尊像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクホウベンホッシンソンゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2003/2/6</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の方便法身尊像は、紺色の地に、48条（じょう）の光明（こうみょう）を放ち、蓮台（れんだい）に両足を揃えて立つ姿の、本願寺系の典型的な阿弥陀如来の絵像です。光明が像の中央を上下に通らない描き方が、文明初年（1473年頃）以降に本願寺より与えられる方便法身尊像の特徴を示しています。像が全体的にずんぐりとした肩を張ったスタイルに仕上げられていることや、衣紋（えもん）の文様に細かい截金（きりがね）技法を使用するなど、16世紀中頃の特徴を持ちますが、像全体がやや大きく描かれています。

また、裏書の墨書（ぼくしょ）により、 天文19年（1550年）8月10日、本願寺第10世証如によって、「堀海塚」の坊舎（ぼうしゃ）に与えられた絵像とわかります。この方便法身尊像を受けた主体についてはいまだ不明ですが、願泉寺の前身にあたる坊舎に本尊として与えられたものであることから、貝塚寺内町の記念碑的存在の絵画です。方便法身尊像としては尊光寺のもの（貝塚市指定文化財）に次いで古いもので、市内に残る数少ない室町時代以前の仏教絵画のひとつとして貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
截金：金などの箔を細い線状や、さまざまな形の小片に切ってはりつける技法
墨書：墨で書いたもの
坊舎：寺院の境内や内部にある僧侶や修行者が住む家
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.houbenhousin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="71"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>71</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色親鸞聖人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクシンランショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の親鸞聖人画像は、浄土真宗の開祖親鸞を目の粗い絹の上に描いたものです。礼盤（らいばん）という台の上に繧繝縁（うんげんべり）の畳を敷き、黒衣（こくえ）・墨袈裟（すみけさ）を着けて、両手で念珠（ねんじゅ）を繰りながら、右ななめを向いて座る姿が描かれています。

退色により全体的にやや顔料（がんりょう）が剥落（はくらく）していますが、製作当初の状態で残されており、後世の補彩などはみられません。

当初の裏書は、花押（かおう）を含む「本願寺証如」という本願寺第10世証如の木版が押されているのみであることから、証如の晩年から死没直後の16世紀後半に製作された画像だと考えられています。

また、表画面上部の讃銘（さんめい）、表画面左端中央部の「和朝親鸞聖人」という札銘（さつめい）、裏書にある慶長12年（1607年）12月25日付の墨書銘（ぼくしょめい）は、西本願寺第12世准如が追記したものです。

とくに、裏書の墨書銘は「願泉寺」の寺号の初見です。同じ年の8月に与えられた親鸞聖人絵伝（貝塚市指定文化財）の裏書に寺号が書かれていなかったことを考えると、この親鸞聖人画像の裏書が追記されると同時に寺号が許可されたものと考えられ、貝塚寺内の中核をなす願泉寺の歴史的性格を考察するにあたり非常に重要な歴史史料の一つと考えられます。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
礼盤：寺院本尊の前に置かれ、僧侶が礼拝し読経するために座る台
繧繝縁：繧繝錦（うんげんにしき）という織物を使用した縁
念珠：数珠のこと
剥落：はがれおちること
花押：署名の一種で、名前の字を図案化したもの
讃銘：「讃」は、絵のかたわらに、その絵の題、あるいはその絵にちなんで書かれた詩・歌・文章のこと。ここでは、浄土真宗の経典の一部を書き写した文章を指す
墨書：墨で書いたもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.sinransyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="72"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>72</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色親鸞聖人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクシンランショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の親鸞聖人画像は、浄土真宗の開祖である親鸞の姿を正面から描いたもので、「真向き御影」（まむきごえい）とも呼ばれます。礼盤（らいばん）という台の上に繧繝縁（うんげんべり）の上畳（あげだたみ）を敷き、黒衣（こくえ）・墨袈裟（すみけさ）を着けて、両手で念珠（ねんじゅ）を繰りながら、正面を向いて座る姿が描かれています。また、彩色は製作当初の状態がよく残されていますが、礼盤の格狭間（こうざま）と上畳の緑と金泥（きんでい）は後世の補彩（ほさい）と認められます。

裏書により、慶長18年（1613年）6月2日、貝塚寺内の卜半が願主（がんしゅ）となり、東本願寺12世教如より与えられたものとわかります。

真向き御影の製作は室町時代後期に初めてみられますが、親鸞の姿を描いたものとしては特殊で、特別な寺院にのみ与えられるものです。この画像を与えられるということは、卜半が本願寺教団内において重要視されていたことを示しています。特に東西に分かれた直後の東本願寺において、この画像を与えることで、教団における卜半への優遇性を主張しようとしたものと考えられるとともに、卜半がそれだけの待遇を保証されるべき存在であったことを知ることができます。なお、裏書に「寺内」と記されていることも、貝塚寺内町を考える上で重要な歴史史料といえます。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
礼盤：寺院の本尊の前に置かれ、僧侶が礼拝し読経するために座る台
繧繝縁：繧繝錦（うんげんにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上に敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
格狭間：台座や基壇などの側面の長方形部分に施される曲線から成る装飾的な刳（く）り方
金泥：金の粉末を膠水で溶いて顔料としたもの
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.sinransyouningazou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="73"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>73</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色親鸞聖人絵伝</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクシンランショウニンエデン</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>4</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

浄土真宗の開祖である親鸞の生涯を描いた4幅の絵伝です。掛幅（かけふく）装の親鸞絵伝は、本願寺第3世覚如（1260年から1351年まで）の時代に作成された巻子（かんす）装の絵巻物をもとに、室町時代以降に製作されるようになっていきました。第8世蓮如（1415年から1499年まで）時代から末寺に与えられるようになり、描かれる絵の内容も統一化されていきました。

願泉寺の親鸞絵伝には各幅に裏書が貼り付けられており、慶長12年（1607年）8月6日、卜半が願主（がんしゅ）となり、西本願寺12世准如によって与えられたものとわかります。緑や紺色など部分的に後世の補彩が認められますが、全体的には保存状態は良好です。

本願寺が東と西に分かれた当初に製作された絵伝で、本願寺の絵師集団がどのように東西に分かれ継承されていったかを示す重要な絵画史料であるとともに、卜半が近世初頭に本願寺教団の中でどのような立場にあったかを知る貴重な史料でもあります。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.sinransyounineden.html</URL><備考 /></row>
<row _id="74"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>74</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色蓮如上人画像、収納箱並包紙（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクレンニョショウニンガゾウ、シュウノウバコナラビニツツミガミ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の蓮如上人画像は、本願寺第8世蓮如をやや目の細かい絹の上に描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、黒衣（こくえ）と墨袈裟（すみけさ）を着けて、両手で念珠（ねんじゅ）を繰りながら、左ななめを向いて座る姿を描いています。

上畳の大紋は蓮如の画像としては非常に特殊で、近年の修復時に描き改められたものと考えられます。また、全体的に材料の絹が墨で塗られたように黒くなっていますが、これは製作当初のもので、後世の補彩などは認められません。

裏書により、元禄11年（1698年）10月20日、卜半を願主（がんしゅ）として、西本願寺第14世寂如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。元禄11年は蓮如の200回忌の年にあたり、それを機に与えられたものです。

浄土真宗の中興の祖とよばれる蓮如の画像を西本願寺から与えられていることから、願泉寺が比較的西本願寺に近い存在であったことがうかがい知れます。

現在残されている収納箱と包紙は当時のものです。特に、包紙には画像を製作した絵師の但馬（たじま）と表具師（ひょうぐし）の与右衛門（よえもん）の刻印がみられ、西本願寺教団内における画像の製作過程を知ることができる貴重な歴史史料です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上に敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
表具師：紙や布などを張って、軸物や襖などを仕立てる仕事を生業とする人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.rennyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="75"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>75</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色証如上人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクショウニョショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の証如上人画像は、本願寺第10世証如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、鶯（うぐいす）色に白で鶴丸（つるまる）らしき紋を描いた色衣（しきえ）と、茜（あかね）色に白で八藤紋（やつふじもん）を描いた袈裟（けさ）を着け、左手に念珠（ねんじゅ）、右手に桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿が描かれています。

衣が僧綱襟（そうごうえり）の色衣で描かれた証如の画像は、この時期に製作されたものとしては珍しく、願泉寺の特殊性を示していると考えられています。

貼付されている裏書（うらがき）には、花押（かおう）を含む「本願寺釈証如」という木版のみが押されており、証如没後で、第11世を継いだ顕如がまだ若年の時に製作されたものと考えられています。

願泉寺絹本着色方便法身尊像（貝塚市指定文化財）が、天文19年（1550年）に証如より与えられていることと関連して、この証如上人画像は、中世末期の貝塚寺内について考察するにあたって重要な史料の一つといえます。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上に敷き重ねる畳
色衣：位の高い僧侶が着る墨染め以外の色のついた法衣
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
僧綱襟：幅の広い襟を折らずに立てたまま着る法衣の着方
花押：署名の一種で、名前の字を図案化したもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.syounyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="76"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>76</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色顕如上人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクケンニョショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の顕如上人画像は、本願寺第11世顕如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、茶色地に白色で八藤紋（やつふじもん）を描いた衣に、茜（あかね）色に白色で八藤紋を描いた袈裟（けさ）を着け、左手に念珠（ねんじゅ）、右手に桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿が描かれています。背景には金箔が貼られており、後世の権威化を意図してなされたものと考えられます。なお、念珠の水晶部分、桧扇、衣の内側に使用されている白色は後世の補彩（ほさい）とみられます。

顕如の画像としては、僧綱襟（そうごうえり）の色衣（しきえ）を着けているところが非常に珍しいものです。

裏書によると、文禄2年（1593年）3月19日、本願寺12世教如によって、貝塚の了珍（りょうちん）に与えられたものであることがわかります。顕如が没して4ヵ月足らずという時期に製作された画像で、文禄2年閏（うるう）9月に引退させられる教如が、顕如の没後、12世を継職して本願寺の寺務を執っていた限られた時期に製作されたものです。教如の活動を知ることができる歴史史料であるとともに、了珍の本願寺教団における重要性を示す非常に貴重なものです。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上に敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
僧綱襟：幅の広い襟を折らずに立てたまま着る法衣の着方
色衣：位の高い僧侶が着る墨染め以外の色のついた法衣
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.kennyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="77"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>77</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色観如上人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクカンニョショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の観如上人画像は、慶長16年（1611年）に15歳で没した東本願寺第12世教如の第2子、観如を描いた画像です。顔は若年風に描かれ、大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、白色の色衣（しきえ）と袈裟（けさ）を着けて、左手に念珠（ねんじゅ）、右手に桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿が描かれています。上畳の一部に剥落（はくらく）がみられるものの、後世の補彩（ほさい）は認められません。

裏書により、慶長18年（1613年）7月13日、貝塚寺内の卜半が願主（がんしゅ）となり、教如より与えられたものとわかります。

観如は東本願寺を継ぐ前に没したため、画像が製作され末寺に与えられている事例は非常に少なく、全国でも現在4点しか確認されていません。観如の画像を受けた寺院は、特別なものと考えられており、教如がこの画像を卜半に与えたことで、東本願寺教団に取り込みたいとする強い意図を読み取ることができます。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上に敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
剥落：はがれおちること
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.kannyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="78"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>78</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色教如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクキョウニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の教如上人画像は、東本願寺第12世である教如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、左ななめを向いて座る姿を描いています。上畳の緑色には、部分的に後世の補彩（ほさい）が認められます。

裏書により、元和9年（1623年）2月3日、貝塚願泉寺の卜半を願主（がんしゅ）として、東本願寺13世宣如より与えられたものとわかります。

全国的に、教如の画像は多くの寿像（じゅぞう）が確認されていますが、その全ては黒衣（こくえ）と墨袈裟（すみげさ）を着けた姿のものです。願泉寺の画像は、没後に製作されたもので衣が色衣とされており、東本願寺の近世教団確立期における教如の地位を確固たるものとする意図を読み取ることができます。また、この画像がいち早く願泉寺に与えられたことも、東本願寺教団における願泉寺の重要性をうかがうことができるものと思われ、歴史史料としても非常に重要なものです。

現在残されている収納箱も当時のものであり、東本願寺での取次として粟津右近（あわづうこん）の名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
寿像：存命中に作っておく像のこと
粟津右近：江戸時代、東本願寺の家臣をつとめた粟津家の人名。右近は通称名で、時期的に、初代元辰（もとたつ）、二代元故（もとゆえ）、三代元恒（もとつね）のいずれかを指すと思われます
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.kyounyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="79"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>79</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色准如上人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクジュンニョショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の准如上人画像は、西本願寺第12世准如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。上畳に剥落（はくらく）がみられるとともに、上部で横に大きな断裂による破損がありますが、後世の補彩（ほさい）などは認められず、製作当初の状態をよく残しています。

裏書により、寛永8年（1631年）8月6日、貝塚願泉寺卜半を願主（がんしゅ）として、西本願寺第13世良如より与えられたものとわかります。

寛永7年（1630年）11月30日に没した准如の画像がいち早く願泉寺に与えられていることは、西本願寺にとって、願泉寺が非常に重要な寺院の一つであることを物語っていると考えられます。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
剥落：はがれおちること
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.junnyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="80"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>80</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色宣如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクセンニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の宣如上人画像は、東本願寺第13世宣如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、左ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）は認められません。

裏書により、万治2年（1659年）3月25日、卜半を願主（がんしゅ）として、東本願寺第14世琢如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

宣如は万治元年（1658年）7月25日に没しており、この画像は没後数ヵ月で製作され、願泉寺に与えられており、願泉寺が東本願寺教団において重要視されていたことがわかります。

なお、現在残されている収納箱も当時のものであり、東本願寺での申次（もうしつぎ）として粟津右近尉（あわづうこんのじょう）の名前がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
粟津右近：江戸時代、東本願寺の家臣をつとめた粟津家の人名。右近は通称名
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.sennyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="81"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>81</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色琢如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクタクニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の琢如上人画像は、東本願寺第14世琢如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、寛文13年（1673年）6月中旬、卜半を願主（がんしゅ）として、東本願寺第15世常如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。寛文11年（1671年）4月14日に没した琢如の3回忌をやや遅れて与えられたものです。

現在残されている収納箱も当時のものであり、東本願寺での申継（もうしつぎ）として粟津右近尉（あわづうこんのじょう）の名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
粟津右近：江戸時代、東本願寺の家臣をつとめた粟津家の人名。右近は通称名
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.takunyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="82"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>82</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色良如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクリョウニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の良如上人画像は、西本願寺第13世良如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、元禄7年（1694年）10月20日、卜半を願主（がんしゅ）として、本願寺第14世寂如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。寛文2（1662）年9月に没した良如の33回忌を機に与えられたものです。

現在残されている収納箱も当時のもので、西本願寺での取次として（宇野）主水（もんど）の名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
宇野主水：本願寺、西本願寺の家臣をつとめた宇野家の人名。主水は通称名
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.ryounyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="83"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>83</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色常如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクジョウニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の常如上人画像は、東本願寺第15世常如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、元禄7年（1694年）6月下旬、卜半を願主（がんしゅ）として、本願寺第16世一如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

常如は元禄7年5月22日に没しており、没後1ヵ月余りで画像が製作され、願泉寺に与えられていることがわかり、東本願寺教団内における願泉寺の重要度を知ることができます。

現在残されている収納箱も当時のものであり、東本願寺の家臣として下間治部卿法橋（しもつまじぶきょうほっきょう）と七里道専（しちりどうせん）の名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
下間治部卿法橋：下間頼房（よりふさ）。治部卿法橋は通称名
七里道専：七里重正（しげまさ）。道専は法名
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.jounyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="84"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>84</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色一如上人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクイチニョショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の一如上人画像は、東本願寺第16世一如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、元禄13年（1700年）6月下旬、卜半を願主（がんしゅ）として、本願寺第17世真如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

一如は元禄13年4月12日に没しており、その画像が没後いち早く製作され、願泉寺に与えられています。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.itinyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="85"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>85</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色寂如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクジャクニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の寂如上人画像は、西本願寺第14世寂如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩などは認められません。

裏書には、「本願寺前住寂如画像」、花押（かおう）を含む「釈住如」、「願主釈」（がんしゅしゃく）の木版があるのみで、西本願寺第15世住如から与えられたものであることはわかりますが、年代や宛所などは特定できません。しかし、この画像を与えられた当時の収納箱には、享保10年（1725年）10月14日の墨書（ぼくしょ）があり、これが本願寺から画像を与えられた年月日にあたると考えられます。

寂如は、享保10年7月に没しており、没後いち早くその画像が製作され、願泉寺に与えられていることから、西本願寺教団内における願泉寺の重要度がわかります。

現在残されている収納箱も当時のものであり、西本願寺での取次として外記（げき）という名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
花押：署名の一種で、名前の字を図案化したもの
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
墨書：墨で書いたもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.jakunyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="86"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>86</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色住如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクジュウニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の住如上人画像は、西本願寺第15世住如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書は、「本願寺前住住如画像」、花押（かおう）を含む「釈湛如」、「願主釈」（がんしゅしゃく）の木版があるのみで、西本願寺第16世湛如から与えられたものであることはわかりますが、年代や宛所などは特定できません。しかし、この画像を与えられた当時の収納箱には、元文5年（1740年）4月24日の墨書（ぼくしょ）があり、これが本願寺から画像を与えられた年月日にあたると考えられます。

住如は元文4（1739年）8月に没していることから、その1周忌を機に画像が製作され、願泉寺に与えられたと考えられます。

現在残されている収納箱も当時のものであり、西本願寺での取次として少進法印（しょうしんほういん）という名がみられ貴重です

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
花押：署名の一種で、名前の字を図案化したもの
墨書：墨で書いたもの
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
少進法印：浄土真宗本願寺派の家臣、下間仲英（しもつまなかひで）か
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.juunyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="87"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>87</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色湛如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクタンニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の湛如上人画像は、西本願寺第16世湛如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書より、延享元年（1744年）9月10日、卜半を願主（がんしゅ）として、本願寺第17世法如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

湛如は寛保元年（1741年）6月に没し、弟の静如（じょうにょ）が本願寺の寺務を継承しましたが、静如にさまざまな問題が生じたため、寛保3年（1743年）、第13世良如の孫にあたる法如が第17世を継承しました。

この画像は、こうした湛如没後の継承問題が解決した翌年、いち早く製作され、願泉寺に与えられたものです。

現在残されている収納箱も当時のものであり、西本願寺での取次として兵部卿法橋（ひょうぶきょうほっきょう）という名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
兵部卿法橋：浄土真宗本願寺派の家臣、下間頼英（しもつまよりひで）か
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.tannyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="88"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>88</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色真如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクシンニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の真如上人画像は、東本願寺第17世真如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、延享2年（1745年）7月23日、（卜半）了観を願主（がんしゅ）として、東本願寺第18世従如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

真如は前年の延享元年（1744年）10月2日に没していることから、その1周忌を機に画像が製作され、願泉寺に与えられたと考えられます。

現在残されている収納箱も当時のものであり、東本願寺の家臣である飼田大膳（かいだだいぜん）と坪坂主馬（つぼさかしゅめ）の名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
飯田大膳：真宗大谷派の家臣、飼田辰好（たつよし）か
坪坂主馬：真宗大谷派の家臣、坪坂直久（なおひさ）か
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.sinnyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="89"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>89</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色従如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクジュウニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の従如上人画像は、東本願寺第18世従如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩などは認められません。

裏書により、宝暦10年（1760年）10月24日、（卜半）了観を願主（がんしゅ）として、本願寺第19世乗如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

従如は宝暦10年7月11日に没しており、没後いち早くこの画像が製作され、願泉寺に与えられたことがわかり、東本願寺教団のなかでの願泉寺の重要性が想定できます。

現在残されている収納箱も当時のものであり、東本願寺の家臣である下間治部卿法眼（しもつまじぶきょうほうげん）と飼田大膳（かいだだいぜん）の名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
下間治部卿法眼：真宗大谷派の家臣、下間頼篤（よりあつ）か
飼田大膳：真宗大谷派の家臣、飼田辰好（たつよし）か
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.junyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="90"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>90</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色法如上人画像</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクホウニョショウニンガゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の法如上人画像は、西本願寺第17世法如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、寛政2年（1790年）1月17日、卜半を願主（がんしゅ）として、西本願寺第18世文如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

法如は前年の寛政元（1789年）年10月に没しており、没後いち早くこの画像が製作され、願泉寺に与えられています。

また裏書には「貝塚坊舎願泉寺」と書かれており、願泉寺が西本願寺教団内で重要視されてていたこともわかります。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.hounyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="91"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>91</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色乗如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクジョウニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の乗如上人画像は、東本願寺第19世乗如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書には、寛政11年（1799年）8月5日、（卜半）了覚を願主（がんしゅ）として、東本願寺第20世達如より願泉寺の寺物として与えられたという墨書（ぼくしょ）があります。しかし、収納箱には寛政4年（1792年）5月16日の墨書があり、この年代の相違については現在のところ理由はわかりません。なお、乗如は寛政4年（1792年）2月24日に没しています。

現在残されている収納箱も当時のものであり、上記の年月日のほか、東本願寺の家臣である下間大蔵卿法橋（しもつまおおくらきょうほっきょう）と稲波外記（いなばげき）の名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
墨書：墨で書いたもの
下間大蔵卿法橋：真宗大谷派の家臣、下間頼興（よりおき）か
稲波外記：真宗大谷派の家臣、稲波順臣（よりおみ）か
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.jonyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="92"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>92</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色文如上人画像、収納箱（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクモンニョショウニンガゾウ、シュウノウバコ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の文如上人画像は、西本願寺第18世文如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、寛政11年（1799年）8月28日、卜半を願主（がんしゅ）として、西本願寺第19世本如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

文如は寛政11年6月14日に没しており、没後2ヵ月余りでこの画像が製作され、願泉寺に与えられています。西本願寺教団内で文如の画像を与えられた寺院としては、かなり早いことが想定できます。

現在残されている収納箱も当時のものであり、西本願寺での取次として頼母（たのも）という名がみられ貴重です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.monnyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="93"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>93</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>願泉寺絹本著色本如上人画像、収納箱並包紙（附）</名称><名称_カナ>ガンセンジケンポンチャクショクホンニョショウニンガゾウ、シュウノウバコナラビニツツミガミ（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>5-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人願泉寺</所有者等><文化財指定日>2004/1/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>願泉寺は、山号を「金凉山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。貝塚寺内町（じないまち）の中心寺院で、天正11年（1583年）から天正13年まで紀州より本願寺第11世顕如（けんにょ）らが移住し本願寺が置かれました。慶長12年（1607年）には西本願寺第12世准如（じゅんにょ）より寺号を授けられ、慶長15年（1610年）、住職卜半（ぼくはん）家の2代了閑（りょうかん)は徳川家康より寺内諸役免許（しょやくめんきょ）の黒印状（こくいんじょう）を与えられ、以後卜半家は貝塚寺内の地頭（領主）となり、明治4年（1871年）までその支配が続きました。江戸時代初期には本願寺が東と西に分かれましたが、願泉寺は戦前まで東西本願寺に属していました。

願泉寺の本如上人画像は、西本願寺第19世本如を描いたものです。大紋高麗縁（だいもんこうらいべり）の上畳（あげだたみ）に、色衣（しきえ）と色袈裟（げさ）を着けて、左手には念珠（ねんじゅ）、右手には桧扇（ひおうぎ）を持ち、右ななめを向いて座る姿を描いています。保存状態は良好で、後世の補彩（ほさい）などは認められません。

裏書により、文政10年（1872年）4月7日、卜半を願主（がんしゅ）として、西本願寺第20世広如より願泉寺の寺物として与えられたものとわかります。

本如は前年の文政9年（1871年）12月12日に没しており、没後いち早くこの画像が製作され、願泉寺に与えられています。

現在残されている収納箱と包紙は当時のものです。特に、包紙には画像を製作した絵師や表具師（ひょうぐし）の刻印がみられ、西本願寺教団内における画像の製作過程を知ることができる貴重な歴史史料です。

黒印状：黒い印肉をつけて押された印のある文書
大紋高麗縁：花紋の大きな高麗錦（こうらいにしき）という織物を使用した縁
上畳：畳の上の敷き重ねる畳
念珠：数珠のこと
桧扇：細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇
願主：仏像や寺院を建立するなどして善行を積もうという願いを起こす人のこと。ここでは画像を寄付した人
表具師：紙・布などを張って、軸物や襖などを仕立てる仕事を生業とする人
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/kaiga/gan.honnyosyounin.html</URL><備考 /></row>
<row _id="94"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>94</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>福原家文書</名称><名称_カナ>フクハラケモンジョ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>21285</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2000/4/21</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>教育委員会では貝塚市福田に所在する福原家の土蔵に保管されていた古文書について、平成元年度より整理・調査をおこない、平成4年度にその成果として文書目録を刊行しました。

福原家は、近世を通じて福田村庄屋をつとめるとともに、岸和田藩領内の七人の有力庄屋（「七人庄屋」と呼ばれる）に次ぐ、「七人庄屋格」として、周辺村の庄屋を兼ねたり（「付庄屋」と呼ばれる）、争論の仲裁役などを任されていました。古文書は、村の代表として福田村全体に関わるもの、隣接する嶋村に関わるもの、「七人庄屋格」としてのもの、福原家のもの、近代のものに大別されます。内容は政治・支配、経済、生活の多岐にわたり、江戸時代における農村の実態を知る上で大変貴重な資料です。嶋村に関わる文書とは、福田村庄屋により枝村として扱われた村のものです。近世被差別部落の実情を理解し、部落差別解消に資するための貴重な資料といえます。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/komonjo/hukuharakemonjo.html</URL><備考 /></row>
<row _id="95"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>95</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>廣海家文書</名称><名称_カナ>ヒロミケモンジョ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>76026</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2006/11/10</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>教育委員会では、平成5年度から全国の経済史研究者が共同して進める廣海家史料調査会の活動に協力するとともに、平成9年度から廣海家文書保存会を立ち上げ、廣海家の古文書の調査・整理をおこないました。平成18年度にその成果として文書目録を刊行しました。

廣海家は、江戸時代末期から近代にかけて泉南地域最大の米穀・肥料商として活躍した家で、廻船を操り、北陸・東北・北海道などで取引活動をおこなってきました。

古文書は近世・近代の商家経営の具体的内容と変遷が明らかになる、長期にわたる系統的なものです。廣海家は全国的に見ると中規模の商家ですが、個別の取引内容に関する帳簿類が系統的に保存されています。また、取引先の商店や銀行との間や、大阪や神戸あるいは北海道へ赴いた店員との間で頻繁にやり取りされた手紙が数多く残されており、商取引や投資活動の具体的な姿を知ることができます。このように、近世・近代の貝塚地域と日本全国の経済・経営史の研究を深める上で大変貴重な資料です。
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/komonjo/hiromikemonjo.html</URL><備考 /></row>
<row _id="96"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>96</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>要家文書</名称><名称_カナ>カナメケモンジョ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>51285</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>2009/3/30</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>教育委員会では、平成13年度より5年間、要家文化財総合調査を実施し、古文書、庭園、埋蔵文化財、建造物、植物など、分野別に詳細な内容の把握をおこない、平成18年度に調査報告書を刊行しました。

要家は畠中（はたけなか）に所在する旧家で、中世土豪の系譜を引き、代々「源太夫（げんだゆう）」を名乗りました。畠中村と神前村（こうざきむら）の庄屋をつとめるとともに、江戸時代中期からは岸和田藩領内の七人の有力庄屋（「七人庄屋（しちにんじょうや）」と呼ばれる）をつとめ、藩と村々との間に入って対立を防ぐ政治的な役割を担っていました。

古文書は、岸和田藩の民政や藩政改革の動向、近木庄12か村と真上新田村とあわせ水利などの地域の動向、要家の農業経営などを記したものです。政治や支配、経済、生活の多岐にわたり、江戸時代における農村の実態を知る上で、大変貴重な資料です。また、学術研究において活用が進められており、貝塚市の歴史のさらなる掘りおこしが期待されます。
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/komonjo/kanamekemonjo.html</URL><備考 /></row>
<row _id="97"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>97</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>秦廃寺出土鬼瓦、軒丸瓦</名称><名称_カナ>ハタハイジシュツドオニガワラ、ノキマルガワラ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>56000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>半田</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>和泉秦寺は、7世紀後半から8世紀初頭に造営された秦氏の氏族寺院で、「広隆寺末寺并別院記（こうりゅうじまつじならびにべついんき）」には天武天皇8年（679年）に秦勝賀佐枝（はたのすぐりかさえ）によって建立されたと記されています。秦廃寺出土の瓦は、昭和初期に半田集落の南部の田より発見されたもので、貝塚市域最古の寺院の存在を証明する貴重な資料です。

鬼瓦
2片に割れ、右下部が欠落していますが、原型をよくとどめています。厚さ5センチメートルの粘土板に目・鼻・眉・歯・牙などを突出させて表現し、周縁は二重の界線（かいせん）を巡らせ、その間に珠文（しゅもん）を配しています。黒色粒・赤色粒・細礫を含む胎土で作られ、淡黄灰色で硬質な仕上がりです。

軒丸瓦
単弁八葉蓮華文（たんべんはちようれんげもん）で外縁に唐草文をめぐらす様式をとっています。細礫や黒色粒を含む胎土でつくられ、黒灰色を呈しています。 「池田寺式」と呼ばれる泉州地域独自の様式のもので、秦廃寺では比較的後期に使用されたものと考えられます。

広隆寺末寺并別院記：京都市右京区太秦にある秦氏の氏寺「広隆寺」が所蔵する古文書の一つ
秦勝賀佐枝：広隆寺末寺并別院記に「和泉秦寺」の建立者として記載のある秦氏の一族
界線：境界線
珠文：小さな丸い粒状の文様
単弁八葉蓮華文：ひとえの花びらと八つの葉で構成された蓮華の花をデザインした文様
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/hata.oni.html</URL><備考 /></row>
<row _id="98"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>98</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>秦廃寺出土瓦片　軒丸瓦片、軒平瓦片（附）</名称><名称_カナ>ハタハイジシュツドカワラヘン　ノキマルカワラヘン、ノキヒラカワラヘン（ツケタリ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>56000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>半田</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>2</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>個人</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>和泉秦寺は、7世紀後半から8世紀初頭に造営された秦氏の氏族寺院で、「広隆寺末寺并別院記（こうりゅうじまつじならびにべついんき）」には天武天皇8年（679年）に秦勝賀佐枝（はたのすぐりかさえ）によって建立されたと記されています。秦廃寺出土の瓦は、昭和初期に半田集落の南部の田より発見されたもので、貝塚市域最古の寺院の存在を証明する貴重な資料です。

軒丸瓦片
7世紀後末から8世紀初頭にかけて使われた紀寺（きでら）式と、8世紀前半に使われた池田寺式の2種類が認められます。紀寺式は、中心に複弁六葉蓮華文、その外側に雷文がほどこされたもので、下記の重弧文軒平瓦と組み合わせて葺かれていました。また池田寺式は、指定品の軒丸瓦と同じく、中心に単弁八葉蓮華文、その外側に唐草文を施したもののほか、中心が細弁十四葉蓮華文のもの、中房の蓮子に環がないものの3種類があります。

軒平瓦片
三重弧文と均正唐草文（きんせいからくさもん）の2種類が認められます。三重弧文は、弓なりの弧を描く線が3重になった文様です。また均正唐草文は、唐草文が中央から左右対称に展開し、外側に鋸歯文（きょしもん）や珠文（しゅもん）がほどこされています。

これらは破片ではありますが、秦廃寺の実態を解明するうえで大変貴重な資料です。

広隆寺末寺并別院記：京都市右京区太秦にある秦氏の氏寺「広隆寺」が所蔵する古文書の一つ
秦勝賀佐枝：広隆寺末寺并別院記に「和泉秦寺」の建立者として記載のある秦氏の一族
均正唐草文：左右対称の唐草文様
鋸歯文：のこぎりの歯のような文様
珠文：小さな丸い粒状の文様
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/hata.nokihira.html</URL><備考 /></row>
<row _id="99"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>99</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>橋本遺跡出土青磁碗、皿</名称><名称_カナ>ハシモトイセキシュツドセイジワン、サラ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>3</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市教育委員会</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>橋本共同墓地は、行基が設置したと伝えられる起源の古い墓地であり、中世以降も近木庄の惣墓とされていたようです。一部移転・区画整理が行われた後も、中世の墓石がいくつか現存しています。

青磁碗・皿は、昭和26年（1951年）に市営斎場が建設されたおりに、発掘調査によらず発見されたもので、埋蔵状況の詳細は不明です。当時としてはかなり高級品であることから、身分の高い人物の副葬品と考えられます。完全な形をしたものとしては、土生遺跡の指定品とともに市域では数少ない出土品であり、橋本墓地や近義荘の歴史を考える際の資料としてとても貴重なものです。

碗は中国の龍泉窯系、皿は中国の同安窯系のもので、全体に灰緑色の釉薬（ゆうやく、うわぐすり）がかかり、大変美しく焼き上がってます。

惣墓：中世、とくに南北朝時代から戦国時代にかけて成立した「惣」と呼ばれる農民の自治組織が築いた集団墓地
釉薬：装飾と水分を吸収するために使用される素焼きの陶磁器に塗るガラス質の溶液
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/hasimoto.seijiwan.html</URL><備考 /></row>
<row _id="100"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>100</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>澱池遺跡出土貨泉</名称><名称_カナ>トドノイケイセキシュツドカセン</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市教育委員会</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>澱池遺跡は、貝塚市南西部海岸付近に位置し、古代から中世にかけての掘立柱建物や溝、中世の土釜・瓦器椀・木櫛等の遺物が出土しています。

貨泉は、中国の「新」時代（紀元8年～23年）の紀元14年から鋳造が始まったもので、日本国内の弥生時代中期末～後期の遺跡からの出土例があります。澱池遺跡のものは中世の遺構面より出土しており、その時期に他所から搬入されたものと考えられますが、市域では他に出土例はありません。時代の指標となる遺物として全国でも50点あまりの出土しかなく、貴重な資料です。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/todonoike.kasen.html</URL><備考 /></row>
<row _id="101"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>101</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>史跡丸山古墳出土円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪</名称><名称_カナ>シセキマルヤマコフンシュツドエントウハニワ、アサガオガタハニワ、ケイショウハニワ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>41</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市</所有者等><文化財指定日>2006/11/10</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>史跡丸山古墳は、全長約72メートル、後円部径約32メートル、前方部最大幅約27メートルの前方後円墳で、昭和33年（1958年）に国の史跡に指定されました。

円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪は、平成12年度～14年度に実施した古墳周辺整備に伴う調査において発見したものです。調査では、墳丘のほとんどが後世に土取り等により崩されていたものの、北側の一部で古墳一段目テラスに巡る埴輪列と二段目斜面部の葺石を確認しました。

円筒埴輪は、形成方法及び全体の形状などから古墳時代前期後半（4世紀後半）に位置づけられるものです。

朝顔形埴輪は、古墳後円部南半で発見したもので、円筒埴輪とは胎土（たいど）、厚みが異なり、器面には朱が塗布されています。

形象埴輪は、主にくびれ部から集中的に出土したもので、家、靱（ゆぎ）、盾などが確認できるほか、全国的にも出土例の少ない冠帽形埴輪（かんぼうがたはにわ）と考えられるものがあります。

埴輪の出土により、丸山古墳の築造時期が古墳時代前期後半であることが確定しました。和泉では岸和田市摩湯山古墳に次ぐ古い時期のものです。埴輪の種類はバラエティに富み、埴輪を使用した祭りの状況を復元想定できるものです。大和地域及び古市古墳群や百舌鳥古墳群といった古墳群との比較検討により、古墳時代前期の和泉地域の政治勢力を考える上で重要な資料です。

葺石：墳丘の流失を防ぐ目的で、古墳の墳丘斜面などに敷きつめられた石
朱：朱色（黄色みを帯びた赤色）の顔料
冠帽形埴輪：「冠帽」とよばれる帽子状の冠をかたどって作られた埴輪
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/maruyama.haniwa.html</URL><備考 /></row>
<row _id="102"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>102</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>地蔵堂古墳群1号墳周溝出土須恵器、3号墳周溝出土須恵器</名称><名称_カナ>ジゾウドウコフングン１ゴウフンシュウコウシュツドスエキ、３ゴウフンシュウコウシュツドスエキ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>21</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市</所有者等><文化財指定日>2006/11/10</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>地蔵堂古墳群は、昭和56年に始まった貝塚市立南小学校の校舎、体育館増築に伴う発掘調査において初めてその存在を認識した埋没古墳群です。これまでの調査において、円墳4基、方墳2基の合計6基の古墳を確認しています。古墳はいずれも約10メートル前後の規模のもので、幅約2～3メートルの周溝が巡ります。1号墳は円墳、3号墳は方墳で、周溝内からまとまって須恵器が出土しました。これらの須恵器は古墳に供えられたものと考えられます。

1号墳からは高坏（たかつき）4点、高坏蓋（たかつきふた）4点、器台（きだい）、台付有蓋壺（だいつきゆうがいつぼ）、壺、耳付無蓋高坏（みみつきむがいたかつき）が出土しており、3号墳からは坏（つき）3点、坏蓋（つきふた）3点、高坏、甕（かめ）、壺が出土しています。いずれも陶邑古窯址群（すえむらこようしぐん）において製作されたもので、古墳時代中期（5世紀前半）に位置づけられます。

地蔵堂古墳群は、和泉に前方後円墳が築かれなくなり、各地で小規模古墳群が築かれるようになった時期のものです。これらの須恵器は、こうした小規模古墳群における古墳での祭りの状況を示すとともに、陶邑からの須恵器流通状況を考える上で重要な資料です。

陶邑古窯址群；大阪府の堺市から和泉市にかけての丘陵地にひろがる日本最大の須恵器（すえき）の古窯跡群
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/jizoudou.sueki.html</URL><備考 /></row>
<row _id="103"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>103</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>加治・神前・畠中遺跡出土井戸枠、井戸枠内出土木製品、土師器坏</名称><名称_カナ>カジ・コウザキ・ハタケナカイセキシュツドイドワク、イドワクナイシュツドモクセイヒン、ハジキツキ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>8</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市</所有者等><文化財指定日>2006/11/10</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>加治・神前・畠中遺跡は、弥生時代から中世にかけての複合遺跡です。

井戸は貝塚市民文化会館建設に伴う調査で発見したもので、短軸4メートル、長軸4.5メートル、深さ1.8メートルの大型の井戸です。井戸枠は木製枠で、独木船（まるきぶね）の転用材を5枚並べたものです。

この規模の大型井戸は、平城京など官衙（かんが）施設に類例が確認できますが、一般の集落では確認できないものです。周囲では、飛鳥時代から平安時代にかけての掘立柱建物が多数発見されているほか、円面硯（えんめんけん）や石帯（せきたい）といった遺物も出土していることから、官衙施設の存在が推定できます。

また、井戸枠の底部からはツチノコと土師器坏が出土しました。これらは実用品とはできず、井戸の祭りに伴うものと考えられます。

ツチノコ2点は樹皮がまだ残っており、外面には使用痕（しようこん）が認められません。1点は長さ約15.5センチメートル、最大厚5.7センチメートル、もう1点は長さ約16.5センチメートル、最大厚5.5センチメートルを測ります。

土師器坏は粗製のもので、口径25.9センチメートル、高さ26.8センチメートルを測ります。

加治・神前・畠中遺跡出土の指定文化財は、井戸の祭りを示す遺物と共に、古代和泉国近木郷の官衙を考えていく上で重要な資料です。

官衙：役所
円面硯：すずりの一種。円形で上部が少し内側に反り、足を持った形態のもの
石帯：革製の帯の一種。ここではその飾りに使用される石のこと
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/kajikouzaki.idowaku.html</URL><備考 /></row>
<row _id="104"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>104</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>土生遺跡中世墓出土青磁碗、土師器皿、銭貨</名称><名称_カナ>ハブイセキチュウセイボシュツドセイジワン、ハジキサラ、センカ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>27000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>畠中</所在地_町字><所在地_番地以下>1-17-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>11</員数（数）><員数（単位）>点</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚市</所有者等><文化財指定日>2006/11/10</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>土生遺跡は、津田川右岸に位置し、岸和田市域にまたがる遺跡で、主に弥生時代中期から古墳時代前期を中心とする、中世にかけての複合遺跡です。

青磁碗・土師器皿・銭貨は、中世の土坑墓（どこうぼ）より一括で出土したものです。

土坑墓は、長軸1.2メートル、短軸0.64メートルの規模を測ります。遺物の出土状況により、頭位は西と考えられます。

青磁碗は、口径16.5センチメートルを測り、ほぼ完形です。これは中国の龍泉窯系のもので、鎌倉時代に位置づけられます。

土師器は、直径13.8センチメートルの皿1枚と直径約8センチメートル前後の小皿4枚が一括で出土しました。京都系の薄手土師器で、精巧なものです。

銭貨は、5枚一括が錆により接着した状態で出土しており、銭種は皇宋通寶（こうそうつうほう）2枚と開元通寶（かいげんつうほう）1枚が確認できます。

これらの出土遺物は、中世における副葬品の様子を示しています。橋本遺跡出土の青磁碗と青磁皿（貝塚市指定文化財）は惣墓（そうばか）における副葬品ですが、惣墓以外での地域墓制の在り方を考えるうえで重要な資料です。

皇宋通寶：中国北宋（ほくそう、960年～1127年）時代に鋳造された銭貨の一つ。のちに輸入銭として大量に日本に輸入され、国内で流通した
惣墓：中世、とくに南北朝時代から戦国時代にかけて成立した「惣」と呼ばれる農民の自治組織が築いた集団墓地
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/koukosiryou/habu.seijiwan.html</URL><備考 /></row>
<row _id="105"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>105</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>妙順寺紙本墨書六字名号（蓮如筆）</名称><名称_カナ>ミョウジュンジシホンボクショロクジミョウゴウ（レンニョヒツ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>49000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>三ツ松</所在地_町字><所在地_番地以下>1330</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人妙順寺</所有者等><文化財指定日>2001/2/5</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>妙順寺は、当寺所蔵の近世文書「傳言記（でんごんき）」によると、本願寺8世蓮如が布教のためこの地を訪れた際、当地の豪族である南兵衛太郎が浄土真宗に帰依（きえ）し、道円の法名を授けられて作られた道場を起源とされています。

「南無阿弥陀仏」の6文字を書いた六字名号は、本願寺が浄土真宗の教えを広めるために、本尊として各地の道場などに与えたものです。8世蓮如や9世実如は自ら筆をとり、多く製作し布教を行ったとされています。

本寺に伝わるものは筆跡が躍動感にあふれ、虎斑（とらふ）と呼ばれる文字のかすれが認められます。蓮如真筆とされる大阪市願泉寺所蔵品とも酷似し、花押（かおう）等は無いですが蓮如真筆と言えます。布教の際のものと考えられます。この地域での浄土真宗の広まりや根来衆との関係、貝塚寺内町の成立を考える上での貴重な資料と言えます。

帰依：神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぐこと
虎斑：墨の擦（す）れによってできた虎の体表のような模様
花押：署名の一種で、名前の字を図案化したもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/syoseki/myoujunji.rokujinyougou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="106"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>106</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>善正寺紙本墨書六字名号（蓮如筆）</名称><名称_カナ>ゼンショウジシホンボクショロクジミョウゴウ（レンニョヒツ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>42000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>王子</所在地_町字><所在地_番地以下>796</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>幅</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人善正寺</所有者等><文化財指定日>2001/2/5</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>善正寺は当寺所蔵の近世文書「略縁起（えんぎ）」によると、もとは15世紀後半に土地の豪士出原善右衛門が仏法に帰依（きえ）して草創した真言宗道場でした。本願寺8世蓮如が紀州、泉州に布教に訪れた時にこの名号を授けられ、浄土真宗に改宗したと伝えます。

「南無阿弥陀仏」の6文字を書いた六字名号は、本願寺が浄土真宗の教えを広めるために、本尊として各地の道場などに与えたものです。8世蓮如や9世実如は自ら筆をとり、多く製作し布教を行ったとされています。

本寺に伝わるものは文字が太く、筆の走りがやや遅く感じられますが、東本願寺所蔵品と酷似し、虎斑（とらふ）と呼ばれる文字のかすれが認められます。蓮如真筆とされる大阪市願泉寺所蔵品とも酷似し、花押（かおう）等は無いですが蓮如真筆と言えます。この地域での浄土真宗の広まりや根来衆との関係、貝塚寺内町の成立を考える上での貴重な資料と言えます。

縁起：社寺、仏像、宝物などの由来。また、それを記した文書
帰依：神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぐこと
虎斑：墨の擦（す）れによってできた虎の体表のような模様
花押：署名の一種で、名前の字を図案化したもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/syoseki/zensyouji.rokujinyougou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="107"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>107</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造持国天立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウジコクテンリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>1999/9/20</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>木積の孝恩寺は、行基開創の伝承をもつ観音院を前身としています。根来騒乱により伽藍や持仏の大部分が焼失してしまいました。 現存の観音堂は国宝に、平安期の仏像19点、板絵1点は重要文化財に指定されています。

持国天立像は一木造で、材質はカヤ材と考えられます。左肩先、右手首、右足先、右裾先端をつぎ、当初は彩色仕上げであったと想定されます。左上 腕は欠落しています。全体に太く奥行きのある印象や、太い眉に大きな彫眼などから9世紀の作と考えられます。寺では持国天として信仰されていますが、甲冑（かっちゅう）を装着しているものの持物が失われていて、他の天部尊像の可能性もあります。泉州地域で9世紀に溯る作例は、孝恩寺の重要文化財指定のものの他は少なく、貴重です。

伽藍：寺院の建物の総称
甲冑：鎧と兜
持物：仏像の手にしているもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/tyoukoku/kouonji.jikokutennryuuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="108"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>108</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>孝恩寺木造阿弥陀如来立像</名称><名称_カナ>コウオンジモクゾウアミダニョライリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>52000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>木積</所在地_町字><所在地_番地以下>798</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人孝恩寺</所有者等><文化財指定日>2002/1/31</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>孝恩寺は、奈良時代に僧行基が開創したと伝える観音院が起源といわれています。観音院は、根来騒乱により伽藍や仏像の大部分が焼失しました。江戸時代になって新たに浄土宗の孝恩寺が設立されました。現存する鎌倉時代の観音堂（通称「釘無堂」）は国宝、平安時代の仏像19体、板絵1点が重要文化財に、持国天立像が市指定文化財に指定されています。

阿弥陀如来立像は、現在孝恩寺の本尊として信仰されています。桧材の割はぎ造、全身漆箔（しっぱく）仕上げの像で、平安時代後期様式を継承する鎌倉時代初期の作品です。観音院を中心とした葛城山麓地域の浄土教の展開を跡づけるうえで、貴重な作例ということができます。

伽藍：寺院の建物の総称
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/tyoukoku/ko.amidanyorairyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="109"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>109</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>常福寺木造菩薩立像</名称><名称_カナ>ジョウフクジモクゾウボサツリュウゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>53000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>蕎原</所在地_町字><所在地_番地以下>467</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人常福寺</所有者等><文化財指定日>2002/1/31</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>常福寺は永正9年（1512年）の開創で、もとは真言宗に属していましたが、江戸時代の元禄年間（1688年から1704年まで）に浄土宗に改宗したとの伝承がある寺です。

菩薩立像は、桧材の割はぎ造、肉身部は金泥（きんでい）塗り、衣部は漆箔（しっぱく）仕上げの像です。細みでなで肩の優しい姿をしており、平安時代後期12世紀の作品と考えられます。左に腰をひねっているところと両手の構えから、もとは薬師如来の脇侍（きょうじ）である日光菩薩かと推測されます。葛城山麓地域の仏教文化の系譜を考えるうえで貴重な作例です。

金泥：金の粉末を膠水で溶いて顔料としたもの
脇侍：中尊をはさんで左右に侍する仏像のことで、釈迦如来に侍するのが文殊菩薩と普賢菩薩
系譜：もののつながり、系統
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/tyoukoku/jouhukujimokuzoubosaturyuzou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="110"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>110</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>常福寺木造僧形坐像</名称><名称_カナ>ジョウフクジモクゾウソウギョウザゾウ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>美術工芸品</種類><場所名称 /><町字ID>53000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>蕎原</所在地_町字><所在地_番地以下>467</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>躯</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人常福寺</所有者等><文化財指定日>2002/1/31</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>常福寺は永正9年（1512年）の開創で、もとは真言宗に属していましたが、江戸時代の元禄年間（1688年から1704年まで）に浄土宗に改宗したとの伝承がある寺です。

僧形坐像は、「びんづるさん」として信仰され、親しまれています。桧材の一木造で、顔面部、両耳、膝前の部分が欠落し、全体に摩滅が進んでいます。大きく奥行きのある頭部、なで肩でやや浅い胴部の表現等に平安時代後期の様式を見いだすことができます。また、背中にある墨書（ぼくしょ）からは、久安5年（1149年）に釈迦堂を建立したことが読みとれます。本像は、昭和16年（1941年）まで常福寺境内にあった釈迦堂にまつられていた像ですが、本来の尊像名は明らかではありません。釈迦信仰や修験道との関係が推察され、葛城山麓地域の仏教文化を考えるうえで貴重な作例です。

墨書：墨で書いたもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/tyoukoku/jouhukujimokuzousougyouzazou.html</URL><備考 /></row>
<row _id="111"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>111</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>水間寺千本搗餅つき</名称><名称_カナ>ミズマデラセンボンヅキモチツキ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>39000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>水間</所在地_町字><所在地_番地以下>638</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>水間寺千本搗餅つき若中保存会</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>水間寺の開創については、天平（てんぴょう）年間（729年～749年）に聖武（しょうむ）天皇の勅命を受けた僧行基（ぎょうき）が、十六童子（じゅうろくどうじ）の導きにより、水間「観音出現の滝」で白髪の老人から観音菩薩像を授けられたという伝説があります。その時、行基と童子たちが餅をついて供養を行ったのが、この行事の起源と伝えられています。

本行事は、毎年1月2、3日に、水間の集落の“若中” （わかちゅう）とよばれる座中（ざなか）の男子によって執り行われています。全員が白いハッピにえび茶の袴（はかま）、緋（ひ）だすきの姿で、8名1組で2臼ずつを搗きます。8名が餅を搗きながら、杵で餅を高く差し掲げ、上げ下ろしし、決まった掛け声をかけ、音頭が歌われます。音頭の歌詞にはご詠歌（えいか）や地元の風物（ふうぶつ）に因んだものなどが数種あります。

寺院を核とした座組織に立脚した正月行事として村ぐるみで継承されており、他に類を見ない貴重な伝統行事です。

十六童子：水間寺の開創伝説に登場する16人の子どもの姿をした神さまで、現在の貝塚市清児（せちご）の辺りで現われたことから清児の地名の由来ともなっている
若中：水間寺の寺座に「座入り」（座に加入すること）した者のうち、若座（座入りした者のうち60歳までの者）の父親が健在の長男のこと
座中：水間寺の寺座の構成員のこと
緋だすき：緋色（火のような深紅の色）の生地でつくられたたすき
ご詠歌：霊場めぐりの巡礼者などが歌う仏の徳などをたたえた歌
風物：ある土地の生活、行事に関係のある事物

参考 水間寺の寺座
水間寺を核に作られた水間地区の人的組織で、その起源は中世まで遡るといいます。「座中」と呼ばれる構成員は、水間地区の座筋の家（座に加入する資格をもつ家のこと）に生まれた男子に限られます。座筋の家の男子は出生時に水間寺へ届け出され、数え15歳になると座入り（座に加入すること）します。60歳までは「若座」と呼ばれ、そのうち父親健在の長男を「若中」と呼びます。60歳になると得度（僧侶になること）を行い、水間寺の寺僧となり、その管理運営や年中行事を行います。
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/mukeiminzoku/mizuma.senbontukimotituki.html</URL><備考 /></row>
<row _id="112"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>112</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>貝塚三夜音頭</名称><名称_カナ>カイヅカサンヤオンド</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>14000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>近木町</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>貝塚三夜音頭継承連絡会</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>さんや音頭は、戦前まで泉州地域海岸部の各地で行われていた盆踊りで、泉南地域に河内音頭や江州音頭がもたらされる以前の盆踊りのかたちを残すものです。貝塚では旧貝塚寺内町地域に残っています。貝塚のものは、天正11年（1583年）に本願寺11世顕如が貝塚に本願寺を移したことを祝い、民衆が三日三晩踊り明かしたことが起源とされています。貝塚で「さんや」に「三夜」の字をあてるのはこれにもとづくものと考えられます。明治初期までは願泉寺境内で、その後南町の浜辺などで踊られていましたが、現在は感田神社境内で8月のお盆の時期に2日間連続で踊られています。

音頭は“さんや”と呼ばれる短い一口音頭を囃子（はやし）でつなぎ、何回も続けていきます。音頭取りは主に女性で、歌詞は貝塚の名所をおりまぜたものなどたくさんあります。囃子はやぐらの上で主に男性が行います。音頭の合間と音頭と音頭のつなぎに比較的長く入れます。踊りは輪踊りで、願泉寺境内や南町の浜辺で踊られていたころはやぐらからはなれた場所で踊りましたが、現在はやぐらを取りかこむ形になりました。太鼓は締太鼓で、打ち手は男性が行い、「ブチ」というレンガ状の木片により、音頭に合わせて太鼓のまわりを踊りながら打ちます。この独特の打ち方を「チョンガケ」といいますが、打ち方が難しく、体力も必要で、後継者の育成が難しくなっています。

貝塚三夜音頭は、ほとんどの地域で盆踊りが河内音頭や江州音頭に代わった中で、地域独自の形態を残してことは大変貴重です。また、地元の婦人会が中心となって保存継承活動を展開していることからも高く評価できます。

囃子：日本古来の芸能で、演技の拍子をとり、または気分を出すために奏でる音楽
締太鼓：両側の皮面の縁をひもで結び、胴に締めつけた太鼓
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/mukeiminzoku/kaidukasanyaondo.html</URL><備考 /></row>
<row _id="113"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>113</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>三ツ松明土行念仏（チャンチャンヒキ）　</名称><名称_カナ>ミツマツミョウドイキネンブツ（チャンチャンヒキ）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>49000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>三ツ松</所在地_町字><所在地_番地以下 /><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>三ツ松明土行念仏保存会</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>三ツ松明土行念仏、通称「チャンチャンヒキ」は、先祖供養と人生儀礼の2つの要素をもつ盆行事です。本来は、毎年8月7日～14日に、年行司（ねぎし）とよばれる数え年18歳になる男子全員が参加し、夕刻に太鼓と鉦を打ち鳴らし、念仏を唱えながら、村内の決められた道順をたどり、共同墓地まで往復するというものでした。

行事はまず、集落の中心にある「堂場」（どうのば）に夕方5時ごろ集まり、盆踊りに使う締め太鼓を先頭に、鉦がつづき、「道歌」をうたいながら出発します。そして、三ッ松の集落を一巡したあと、旧道（水間街道）を通って、「辻堂」、「共同墓地」に至り、それぞれの場所で太鼓を降ろして念仏和讃（わさん）など数回唱えます。その後集落へ戻り、「堂場」で念仏和讃（わさん）を唱えます。

現在は、昭和30年代に途絶えていたものを、当時の経験者が中心となって保存会をつくり、毎年8月14日に行い、保存継承に努めています。その起源を中世にさかのぼる可能性をもつ貴重な伝統行事で、また町会ぐるみで地域づくりの一環として取り組まれていることは評価に値します。

なお、本行事は平成10年2月23日付で貝塚市の文化財に指定後、平成13年2月2日付で大阪府の「記録作成の措置を講ずべき無形の民俗文化財」にも選ばれています。

和讃：仏教歌謡の一つで、仏の徳や教え、または高僧の行跡などを讃えたもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/mukeiminzoku/tyantyanhiki.html</URL><備考 /></row>
<row _id="114"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>114</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>尊光寺のカイヅカイブキ</名称><名称_カナ>ソンコウジノカイヅカイブキ</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定文化財</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>6-12</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>株</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人尊光寺</所有者等><文化財指定日>1998/2/23</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>尊光寺は、山号を「二位山」といい、浄土真宗本願寺派の寺院です。寺伝によると、もとは高野山の学頭（がくとう）正了（せいりょう）を開基とする真言宗寺院でしたが、明応2年（1493年）嘉祥寺（現泉南郡田尻町）において本願寺第8世蓮如の教化を受けて浄土真宗に改宗したといいます。大永4年（1524年）本願寺第9世実如より開基仏として方便法身尊像を賜り、寺号を尊光寺と改号。もとは新井村にありましたが、天正16年（1588年）貝塚寺内の現在の地に移転しました。江戸時代は興正寺末の寺院で、麻生郷七ヶ村に所在した真宗道場を支配していました。

カイヅカイブキは、ヒノキ科ビャクシン属、ビャクシンの変種とされており、東北地方以南の主に海岸部に分布します。尊光寺のものは、植栽されたものと考えられますが、樹齢は300年から400年（当寺の伝承によれば約400年）と推測され、幹の直径は60センチメートルを越えます。手入れが行きとどき、老木としての風格が感じられます。市の木"カイヅカイブキ"の代表的なものとして、価値の高いものです。

学頭：寺院や神社において学事を統率する位にあるもの
</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/tennenkinenbutu/son.kaidukaibuki.html</URL><備考 /></row>
<row _id="115"><全国地方公共団体コード>272086</全国地方公共団体コード><ID>115</ID><地方公共団体名>大阪府貝塚市</地方公共団体名><名称>感田神社濠（貝塚寺内町環濠跡）</名称><名称_カナ>カンダジンジャホリ（カイヅカジナイマチカンゴウアト）</名称_カナ><名称_通称 /><名称_英語 /><文化財分類>市指定史跡</文化財分類><種類>その他</種類><場所名称 /><町字ID>63000</町字ID><所在地_都道府県>大阪府</所在地_都道府県><所在地_市区町村>貝塚市</所在地_市区町村><所在地_町字>中町</所在地_町字><所在地_番地以下>10-1</所在地_番地以下><建物名等(方書) /><緯度 /><経度 /><高度の種別 /><高度の値 /><電話番号 /><内線番号 /><連絡先メールアドレス /><連絡先FormURL /><連絡先備考（その他、SNSなど） /><郵便番号 /><員数（数）>1</員数（数）><員数（単位）>件</員数（単位）><法人番号 /><所有者等>宗教法人感田神社</所有者等><文化財指定日>2015/3/6</文化財指定日><利用可能曜日 /><開始時間 /><終了時間 /><利用可能日時特記事項 /><画像 /><画像_ライセンス /><概要>感田神社は貝塚寺内町の南東端に位置し、海塚村（かいづかむら、現在の貝塚市海塚）の牛頭天王社（ごずてんのうしゃ）と堀村（現在の貝塚市堀）の天神社から祭神を迎えて、ほこらを造ったのが始まりとされる貝塚寺内町の産土神（うぶすながみ）です。

貝塚寺内町は願泉寺（がんせんじ）を中心として、戦国時代から江戸時代にかけて発展し、町の周囲に濠をめぐらせていました。願泉寺が所蔵する慶安元年（1648年）の絵図には、感田神社の周囲に濠が描かれています。江戸時代、近代を経て貝塚寺内町の濠は埋め戻され、感田神社の濠は戦前まで境内の三方に残っていましたが、中町通りの拡張時などに埋められ、現在は境内に取り入れられた大阪側の濠が残るのみとなりました。

現在残っている濠は、両岸に石垣が積まれています。国登録有形文化財の参集殿（さんしゅうでん）のある大阪側は、もともと寺内町の外側にあたり、建物の移転にともなって石垣が築かれたと考えられ、谷積みという近代の積み方になっています。一方、和歌山側の石垣は布積みという方法で積まれており、江戸時代に造られたものと考えられます。この濠が貝塚寺内町の環濠の面影を残す唯一の遺構であり貴重なものです。</概要><概要_英語 /><説明 /><説明_英語 /><URL>https://www.city.kaizuka.lg.jp/bunkazai/bunkazaidata/bunkazai/shi_shitei/siseki/kandajinjyahori.html</URL><備考 /></row>
</data>
