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    [1,472115,1,"本島上陸地点","ホントウジョウリクチテン","","","沖縄守備軍は、米軍の沖縄本島上陸地点を数ヵ所予想していたが、そのうちのひとつ、北谷村から読谷村にいたる中部地区の西海岸が現実に上陸地点となった。",null,null,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html","北谷海岸"],
    [2,472115,2,"倉敷陣地壕","クラシキジンチゴウ","","","第24師団（山部隊）が1944年8月に沖縄に転入してから、同年12月に南部へ移動する直前まで構築していた陣地。倉敷周辺だけで数百ヵ所の陣地壕が確認されているが、蛸壷、クランク型、L字型など数形式がある。",26.389818,127.799756,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html","倉敷ダム"],
    [3,472115,3,"奉安殿","ホウアンデン","","","天皇・皇后の写真を「御真影」といい、教育勅語の発布と前後して、御真影は全国の学校に配られ、沖縄県では1887年に他県に先んじて配布された。御真影と教育勅語を大切に保管した建物を「奉安殿」といい、児童生徒はその前を通るたびに最敬礼を強要された。",26.364679,127.819732,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html",""],
    [4,472115,4,"忠魂碑","チュウコンヒ","","","天皇に忠義・忠節を尽くした戦死者の魂を慰めるための碑をいう。明治維新の内戦で天皇軍の戦死者を殉難者として祀った招魂日がその始まりとされ、日清・日露戦争を契機に全国各地に建立される。天皇のために死ぬといった忠義の行動を顕彰強調する政治的・宗教的特徴をもち、戦前の軍国主義思想のシンボルとして思想形成に利用された。",26.364251,127.819896,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html",""],
    [5,472115,5,"比屋根の壕一帯","ヒヤゴンノゴウイッタイ","","","高原から与儀にかけては対戦車戦闘壕が帯状に掘られていたようであるが、比屋根の運動公園入り口には、この対戦車戦闘壕に隣接して陣地壕がまだ現存する。",null,null,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html",""],
    [6,472115,6,"中飛行場格納庫","ナカヒコウジョウカクノウコ","","","中飛行場とは、1944年4月下旬から9月末にかけて日本軍が建設した飛行場である。米軍の同飛行場の占領に伴い整備・拡張され、現在に至る。現、嘉手納飛行場。格納庫は未だ、嘉手納基地内に残っている。",26.357725,127.793305,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html",""],
    [7,472115,7,"降伏調印式の碑・旧越来村森根","コウフクチョウインシキノヒ・キュウゴエクムラモリネ","","","1945年9月7日、宮古島から第28師団長の納見敏郎中将、奄美大島から高田利貞陸軍少将、加藤唯雄海軍少将らが嘉手納基地に召還され、アメリカ第10軍司令官スティルウェル大将に対し、「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れ、6通の降伏文書に署名して正式に降伏した。",26.348282,127.790517,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html",""],
    [8,472115,8,"収容所","シュウヨウジョ","","","沖縄戦中の収容所には、屋嘉収容所に代表されるように捕虜になった軍人を収容する捕虜収容所や一般住民を入れた難民収容所、そして海外や県外からの引揚者を収容した海外引揚収容所がある。戦中の避難民を含め終戦直後には、北部に膨大な数の難民が集められ沖縄本島に12ヵ所の難民収容所が設置された。その南限が嘉間良難民収容所である。また、引揚者のための収容施設のひとつインヌミ収容所が、沖縄市高原一帯に設置されていた。",null,null,"","","https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k015/shiseijouhou/gaiyou/hewajigyou/heiwanohi/2537/2604.html",""]
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