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    [1,1,"勘定場の坂","カンジョウバノサカ","Kanjoba-no-saka\nSlope","","記録：明治絵図・町役所日記\n大手門と北台を結ぶ坂。坂下にあった勘定場（高札）に由来する。\n勘定場は正徳元年(1711)に焼失した。\n昭和56年(1981)発行の『伝統的建物群保存対策調査報告書』では最も見応えのある石段として記述されている。\n石段の幅は4.09ｍで53段、長さは65ｍあり、約24度の勾配がある。\n一段の蹴上は15㎝、踏面1.2ｍで、踏面は前面にわずかな傾斜を取る。\nこれは駕籠による登降を考慮したものと考えられる。"],
    [2,2,"番所の坂","バンショノサカ","Bansho-no-saka\nSlope","","記録：町役所日記\n北浜と北台を結ぶ坂。坂の頂上に北浜口番所があったことに由来する。\n御殿の裏門に通じており、宝永3年(1706)3月、杵築藩主初代松平英親の葬儀の際、この番所の坂を登り、酢屋の坂、塩屋の坂を通り、南台本丁を経て菩提寺養徳寺に入った。\n町役所日記の嘉永2年(1849)の項には「一、北浜番所外坂並坂下廻り角石橋、御番所前切石に仕候。尤も土留羽口迄。一、小沢孫史郎脇坂（番所の坂）仕替え仕り候。」という記述がる。\n石段の登り口の幅が4.1ｍに対し、最上段では3.4ｍと逆に狭くなっており、城下町の入り口であったためと推測される。\n一段の蹴上14㎝、踏面85㎝で、石段の築き方は勘定場に似ている。"],
    [3,3,"酢屋の坂","スヤノサカ","Suya-no-saka\nSlope","","記録：町役所日記\n谷町と北台を結ぶ坂。坂下にあった塩屋が天明6年（1786）に酢の永代株を請けたことに由来する。\n谷町からの登り口では幅が3.3mであるが、中程より上は扇形に拡がり、最上段では8.05ｍと最下段の倍以上の幅になっている。\n一段の蹴上は3㎝、踏面1.33ｍで斜路に近い石段であり、勘定場の坂とは異なった手法が取られている。\nこれは騎馬による登降を考慮したものと考えられる。"],
    [4,4,"塩屋の坂","シオヤノサカ","Shioya-no-saka\nSlope","","記録：金子絵図\n谷町と南台を結ぶ坂。坂下にあった豪商塩屋に由来する。\nこの坂は藩主及び近親者の菩提寺参詣や葬送の道として使用された。\n坂の幅の取り方は酢屋の坂と同様で、登り切った処は道幅が拡げられている。\n昭和40年（1965）ころの写真より登口から資料館手前まで石段だったとうか\nがえるが、昭和42年（1967）に石段は撤去され、コンクリート舗装となった。\n平成18年（2006）に坂の登口から中腹までを石段に戻し、上半分を石畳として現在に至る。"],
    [5,5,"岩鼻の坂","イワハナノサカ","Iwahana-no-saka\nSlope","","記録：町役所日記\n仲町と北台を結ぶ坂。\n谷町北側西詰に切り立った崖があり、その岩鼻を\n避けるように曲がっている。町役所日記の記録では、弘化2年（1845）2月に「岩鼻の北側の坂道普請」を町人3名がしたいという願出がある。\nまた嘉永2年（1849）11月には、「岩鼻坂浅井平吉様角まで仕替え並に塀\n下石垣仕る」とある。\n大正5年（1919）に天理教分教会が坂の西側に創立された際、坂の途中に下からの石段が築かれ、石段より先に続いていた坂道を撤去して現在の景観となった。"],
    [6,6,"飴屋の坂","アメヤノサカ","Ameya-no-saka\nSlope","","記録：金子絵図・町役所日記\n仲町と南台裏丁東端を結ぶ坂。別名「雨夜の坂」とも呼ばれ、雨が降る暗い夜でも白っぽい石畳のため坂道が良く見えたことに由来する。\n町役所日記には「飴屋坂」の記載はあるが菓子屋、飴屋があったという記録はない。\n石段造りでくの字に曲がった坂。傾斜も急で、蹴上14㎝、踏面85㎝とされ独特の景観を作っている。"],
    [7,7,"紺屋町の坂","コンヤマチノサカ","Konyamachi-no-saka\nSlope","","記録：杵築城内外古図\n仲町と西町を結ぶ坂。\n坂周辺は紺屋町といい、町名の通り、紺屋が集まっていたことに由来するという。\n段造りの記録も事績もなく土砂の坂であった。現在はアスファルト舗装。"],
    [8,8,"一つ屋の坂","ヒトツヤノサカ","Hitotsuya-no-saka\nSlope","","記録：いろは版城下町絵図\n仲町と上町を結ぶ坂。坂途中に一軒しか家がなかったことに由来する。\n延宝から元禄期に描かれた「寸法版城下町絵図」や天保期の「いろは版城下町絵図」、さらには文化12年（1815）の「町屋敷絵図」にも一軒の小屋が描かれている。\n描かれた屋敷の形は町会所の形であり、これが一つ屋の由来と考えられる。"],
    [9,9,"富坂","トミサカ","Tomi-saka\nSlope","","記録：明治絵図\n弓町と西新町を結ぶ坂。\n宝永6年（1709）の造成と言われており、宝永7年（1710）2月に新町口（富坂下）の元鷹屋敷を町方に払い下げることになり、入札が行われた記録が町役所日記にある。\nほかにも正徳元年（1711）12月、下町の大火で焼け出された人々が新町に移されており、富坂沿いにできた新たな町に藩による移住政策が見られる。"],
    [10,10,"久保の坂","クボノサカ","Kubo-no-saka\nSlope","","記録：いろは版城下町絵図\n富坂中腹から一つ屋の坂中腹を結ぶ坂で久保という通称地名が由来する。\n東西に延びる道は途中でクランク状になり、北に30ｍほどの石段を登る。\n石段下までが「下久保」といい、登って左（西）に曲り富坂に至るまでを「上久保」という。"],
    [11,11,"天神坂","テンジンザカ","Tenjin-zaka\nSlope","","記録：町役所日記\n弓町と南台裏丁西端を結ぶ坂。\n坂の中腹には飛松天満社の入り口があることに由来する。記録には文久元年（1861）3月に秋田屋金助が天神坂を修復し、残りの石をカブト石の坂の修理に使ったとある。"],
    [12,12,"寺町坂","テラマチザカ","Teramachi-zaka\nSlope","","記録：杵築城内外古図\n寺町口番所と南台本丁・裏丁・馬場丁を結ぶ坂。\n坂の西側には5つの寺が並ぶことに由来する。\nこれは城下町南西の防御を固めるために藩主松平氏により城下町構想の一環として正保２年（1645）から享保18年（1733）の時間をかけて寺院の移転建立がなされた。"],
    [13,13,"射場の坂","イバノサカ","Iba-no-saka\nSlope","","記録：いろは版城下町絵図\n北祇園と馬場尾口番所を結ぶ坂。\n北側に弓の練習場であった射場があったことに由来する。\n番所の外であるため城下町からは外れるが、豊前往還は馬場尾口番所から射場の坂を通って守末・馬場尾・石生谷を経て溝井に至り、豊前に向かう重要な道であった。"],
    [14,14,"清水寺の坂","セイスイジノサカ","Seisuiji-no-saka\nSlope","","記録：いろは版城下町絵図\n清水寺番所と城下町外の北側を結ぶ坂。\n延宝年間（1673～1681）に梅天無明師（俗銘須田宅之）が開基した清水寺に由来する。\n現在は廃寺。坂は城下町居住者の若宮八幡社への参詣道であり、宮司・高山川を渡り国東方面へ向かう海岸沿いの道でもあった。"],
    [15,15,"臥温の坂","ガオンノサカ","Gaon-no-saka\nSlope","","記録：いろは版城下町絵図\n上町の佐野家の向かいに、北へ下がる坂があり、その入り口右に「臥温泉」と彫られた石柱が建っている。\n左側の石柱は倒れており、そこには「浴場道」と「昭和四年（1929）八月」と彫られている。\n「臥雲亭考」（1959・原山）には「この石柱はかつて吉見氏一族が同浴場を改築の際、中古旧道に石畳と共に設けたので、其の後今の東新道を開鑿して\nからは自然と通行者も減り、この灯標に関意ある人も稀であろう」と記している。\n東新道とは北台と上町の境にあった広小路から北に下る坂である。\n現在は封鎖されている。"],
    [16,16,"カブト石の坂","カブトイシノサカ","Kabutoishi-no-saka\nSlope","","記録：いろは版城下町絵図\n寺町口番所と南台梅ヶ小路・竹ヶ小路の南端を結ぶ坂。\n坂の登り口に兜に似た石があったことに由来する。"],
    [17,17,"台の茶屋坂","ダイノチャヤザカ","Dainocha-zaka\nSlope","","記録：いろは版城下町絵図\n据場と南台南端を結ぶ坂。南台南端には「台の茶屋」と呼ばれた藩主の\n茶屋があった。\nこれは寛文5年（1665）、三川新田干拓工事のため、作業の合図を送るために設けられた場所。"]
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