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<row _id="1"><国名>河内国</国名><郡名>南河内郡</郡名><村名>丹南村</村名><大字名>丹南</大字名><項目名>来迎寺</項目名><説明>来迎寺は北方字毘沙門にあり。諸仏山護念院と号し、融通念仏宗大念仏寺末にして、中本山格同派六別寺(*時)の一なり、阿弥陀如来を本尊とす。寺伝に依れば、昔は小阜状をなして毘沙門又は多聞院といへる一草庵を存せしが、鳥羽天皇の勅願に依りて融通念仏を勧進し、崇徳天皇の天承元年五月聖応大師来りて堂宇を建営し、且阿弥陀寺と称せしが、後醍醐天皇の御宇に至り、法明上人は聖応大師の芳跡を慕ひ、来りて錫を当寺に止め、専ら教宗の振作に従事し、同三年十月を以て本堂・坊舎を建築し、正中元年正月官允を得て、寺号を河原(*内)十筒(*箇)郷辻本別寺(*時)諸仏山護念院来迎寺と改め、降りて正保四年八月源通上人更に之を再建し、頽勢を興して旧観に復し、法灯連綿として今に至る。境内は壱千壱百六拾九坪を有し、本堂・庫裏・座敷・玄関・茶所・納家・土蔵・鐘楼・納骨堂、及び弁天堂・位牌堂・観音堂を存す。寺宝に法明上人護持仏・小松内大臣重盛護念仏舎利・上宮太子作弥陀尊像等あり。旧丹南藩主高木家の菩提所にして、山門の傍に同家の墳墓並べり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>537-538</掲載頁><緯度>34.559114</緯度><経度>135.555166</経度><まつばらいろはかるた番号>k22</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>来迎寺 藩主の墓地や 大いぶき</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/300</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="2"><国名>河内国</国名><郡名>南河内郡</郡名><村名>丹南村</村名><大字名>丹南</大字名><項目名>丹南陣屋の址</項目名><説明>丹南陣屋の址は北方にあり。元和九年高木主水正正次封を当国に受け、治所を此に定めて築き、爾来同家累代世襲せしが、明治二年六月に至り主水正正担版籍を奉還しければ、丹南藩の庁舎となり、同四年七月十四日丹南県の庁舎に充てられ、同年十一月二十二日廃県さられて址は過半畑地と化せり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>538.0</掲載頁><緯度>34.559393</緯度><経度>135.556143</経度><まつばらいろはかるた番号>k16</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>丹南藩 一万石の 陣屋址</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/301</原資料画像URL><備考>発掘調査により陣屋の遺構を確認した地点に位置座標を設定。かるた絵札に描かれた旧丹南藩主高木主水正陣屋址碑は、来迎寺の山門前に建立されたもので、陣屋址の位置と異なる。</備考></row>
<row _id="3"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>矢田村</村名><大字名>枯木</大字名><項目名>阿麻美許曽神社</項目名><説明>阿麻美許曽神社は字福井の天見丘(一名阿麻岐志)にあり、延喜式内社の神社にして素戔嗚命を祀り、俗に阿麻岐志の宮と呼び、又天王と称す。大同年中の創建なりと伝ふれども、社記の紛失に依りて其の沿革は明ならず。又社名の由来も明ならず。境内はもと南北六拾間・東西参拾九間参尺にして文禄三年より除地となり、真言宗の神宮寺ありて奉仕し、南木本・北木本・矢田部・池内・住道・城蓮寺・油上・芝八ヶ村の産土神なりしが、明治初年の神仏分離に依りて神宮寺は廃絶し、社は同五年郷社に列し、同四十年一月神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は七百参拾参坪を有し、本殿の外に拝殿・神饌所・絵馬所・祓所・納屋・社務所等を存し、摂社に春日神社・恵比須神社・末社に琴平神社あり。本殿は南に面して、大宮造檜皮葺、摂社春日神社及び同恵比寿神社は王子造檜皮葺にして、共に三百年以前の建営なり。伝えいふ、春日神社は大治二年二月十五日大和国奈良春日神社よりの勧請にして当時氏地に存したる氏子三戸の姓に藤字を附せしは、藤原氏の祖たる同神を迎へしに依れりと。今の氏地は本地及び大字矢田部・同富田、天美村大字城連寺・同池内・同芝・同油上にして、例祭は十月十七日・夏祭は七月十七日に行はる。社頭は老楠古樹鬱葱し、東北隅に行基池あり。池の北方に行基塚といへるあり。東西弍間・南北壱間半・高さ五尺の封土なり、村老の口碑に依れば、昔行基の住せし所にして、塚は其の墓なりといふ。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>659-660</掲載頁><緯度>34.59509</緯度><経度>135.529744</経度><まつばらいろはかるた番号>k43</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>絵馬たくし 阿麻美社に 神たのみ</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/361</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="4"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>天美村</村名><大字名>池内</大字名><項目名>池内池</項目名><説明>河内志に・池内池は本地にあり、広さ参百余畝なり、或は曰ふ、推古天皇十五年冬十一月河内国に作らしめ給ひし依羅池は即ち是れなりと記すれども、今は池内池といへるものなし。旧名を逸したるものならんか。【日本書紀：推古天皇十五年、是歳冬於倭国作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池、山背国堀大溝於栗隈、且河内国作戸苅池・依羅池、亦毎国置屯倉】</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>662-663</掲載頁><緯度>34.588377</緯度><経度>135.537399</経度><まつばらいろはかるた番号>k45</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>杜の島 鳥居が浮かぶ 弁天池</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/363</原資料画像URL><備考>ため池台帳に記載された名称は弁天池。現在は埋め立てにより宅地や道路となっている。</備考></row>
<row _id="5"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>天美村</村名><大字名>城連寺</大字名><項目名>安明寺</項目名><説明>安明寺は部落の西端にありて、正観世音を本尊とす。元中の初め和田正遠の家臣城連寺左衛門安明なるもの来住し、同二年出家して一宇を建立し、其の主正遠の守本尊たりし正観世音を安置して安明寺と号せしもの、当寺の起源なり。後和田正遠の裔和田某、北軍と戦ひて敗るゝに及び、復た本地に来りて匿れ住せしが、当寺は同家旧臣の建立なるのみならず、同家祖先の守本尊を安置して同家と深き因みのあるを以て、同家累代の保護崇信する所となり、同家は後、姓を長谷川と改む、今の長谷川正達氏は其の裔なりといふ。同家の旧記に依れば、寺は初め東部にありて境内も広く堂宇も宏壮なりしも、宝永元年大和川転鑿に際し、其の地は川床用となり、翌二年代地を与へられて転築せしは字松本なり、松本に於ける境内は狭小となりて九間に拾四間即ち四畝六歩、本堂は弐間四面・庫裏は参間半に弐間たるに過ぎざりしも、尚境内は除地となりて、之に長さ百弐拾間・幅弐間の馬場先を存し、弍反四畝弐拾歩・石高弐石九升七合の寺領を有せしが、年月不詳山賊の為め火災に罹りて焼失し、再建旧に復したるも、明和元年七月十四日の夜再び火災に罹りて灰燼となる。其の址は今松本の名を没して、堂の前・馬場側等の名を存す。明和の火災には本尊も共に焼失せしならんと思ひ居たるに、其の後新池の増堀を為すに際し、図らずも土中より霊像を発見し、之を検したるに片手を損せるも、当寺の本尊に紛れなかりしば、長谷川家は驚喜に堪へず、同池の東に沿へる所有地内に元の如き弐間四面の堂宇を建営し、尊像は損所あるも触るゝを憚りて其の儘之を安置せしもの、現在の所即ち是れなり。然るに年所を経て大破したるを以て、明治の初年更に長谷川家に依りて旧形の如く再建せられ、同四年無檀無住の令に依りて廃寺となる。依て長谷川家の私寺となり、最勝寺の住職を以て之を守らしめ、本尊は当主正達氏に至り修補せられて両手具備せり。像は高さ壱寸八分の木像にして、作者不詳なれども優秀の作なりと。本尊の傍には後醍醐天皇の御尊牌及び和田・楠一統の位牌を安置せらる。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>664-665</掲載頁><緯度>34.595313</緯度><経度>135.534896</経度><まつばらいろはかるた番号>k05</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>本尊は 楠木守る 聖観音</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/364</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="6"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>天美村</村名><大字名>城連寺</大字名><項目名>最勝寺</項目名><説明>最勝寺は同所にあり、真宗東本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。寺地は善正寺の旧地なり、同寺の砂村に移転後順恵なるものを住持に取り立てゝ村民朝夕参仏せしが、寛永十二年三月十二日本山より木仏を下附せられ、且今の寺号を授与せらる。文和三年類焼の災に罹り、同六年再建し、慶安年中無住となりたる為め、善正寺の兼ぬる所となり、其の後同寺を離れて独立し、宝暦九年更に再建し来りしが、今の堂宇は復た其の後の再建なり、境内は弐百六拾八坪を有し、本堂・庫裏・座敷・納屋・門を存す。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>665-666</掲載頁><緯度>34.595313</緯度><経度>135.534896</経度><まつばらいろはかるた番号>k05</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>本尊は 楠木守る 聖観音</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/364</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="7"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>天美村</村名><大字名>我堂</大字名><項目名>産土神社</項目名><説明>産土神社は中央宮田にあり、誉田別命を祀る。創立の年月は詳ならず。里伝によれば、泉北郡百舌鳥村鎮座八幡神社の分霊を奉祀せしものなりといふ。もと十五社と号し、明治維新後八幡神社と改め、大正二年に至り更に産土神社と改称せらる。往時より宮寺ありて神宮寺と号し、寺僧の奉仕する所たりしが、明治維新の神仏分離に依りて寺は廃絶し、社は同五年村社に列し、大正四年四月神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は弐百弐拾七坪を有し、本殿の外に幣殿・拝殿・遥拝所等を存し、末社に琴平神社・天雨神社・稲荷神社あり。氏地は本地一円にして、例祭は十月十五日なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>669.0</掲載頁><緯度>34.582839</緯度><経度>135.526236</経度><まつばらいろはかるた番号>k02</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>ロマンあり 我堂八幡宮 力石</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/366</原資料画像URL><備考>現在の社名は我堂八幡神社。</備考></row>
<row _id="8"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>布忍村</村名><大字名>高木</大字名><項目名>布忍川</項目名><説明>布忍川は狭山池の下流たる西除川の本地附近に於ける別名なり。其の流は東南方松原村及び南河内郡北八下村大字河合の界より来りて、大字東代・同更池の間より北流し、大字向井の界を経て本地の東端を斜に北流し、字「ナカレ」に至りて更に本地及び大字清水の界を西流し、天美村大字我堂を過ぎて新大和川に入る。流水潺々砂礫を露せり。【狂歌：夕たちに 大水出れは 布忍川 はゝは何丈何尺かある  秀綱/返し/夕立に 大水出れば 布忍川 波のしはにて 幅はしられす  浄久】</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>672|673</掲載頁><緯度>34.587724</緯度><経度>135.522073</経度><まつばらいろはかるた番号>k04</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>西除の 夜桜たのし 今池堤</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/368</原資料画像URL><備考 /></row>
<row _id="9"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>布忍村</村名><大字名>向井</大字名><項目名>布忍神社</項目名><説明>布忍神社は西方字坊中にあり、阿麻美許曾大神・事代主命・武甕槌命を祀れり。里老の口碑に依れば、社はもと十八町許り北方なる字天見丘にありしを、白布を敷きて当所に迎え奉る。故に社名を布忍と号し、村名を向井と称すと。社の近傍なる氏子の各村は毒虫の到ることなく、神霊の奇端なりと称して崇拝せり。明治五年村社に列し、大正四年八月神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は七百七拾壱坪を有し、本殿・幣殿・拝殿・絵馬舎・社務所を存し、末社に春日神社・水分神社あり。氏地は本地及び大字高木・同東代・同清水・同更池、天美村大字堀にして、例祭は十月十五日、夏祭は七月十三日に行はる。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>676.0</掲載頁><緯度>34.579032</緯度><経度>135.536166</経度><まつばらいろはかるた番号>k06</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>扁額は 八つの景勝 布忍宮</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/370</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="10"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>布忍村</村名><大字名>向井</大字名><項目名>永興寺の址</項目名><説明>永興寺の址は西方にあり。寺は寛治三年僧永興の開創にして布忍山と号し、本尊十一面観世音は行基の作と伝へ、七堂を具備せる大伽藍たりしが、明徳二年の兵燹に罹りて堂宇悉く灰燼となり、僅に寺号を存せしも、明治六年終に全く廃寺となり、本尊は大林寺に転置せらる。旧敷地は東西四拾六間・南北七拾間余・広さ八百六拾参坪なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>677.0</掲載頁><緯度 xsi:nil="true" /><経度 xsi:nil="true" /><まつばらいろはかるた番号>k10</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>布忍にも 十一面観音 大林寺</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/370</原資料画像URL><備考>江戸時代の永興寺境内に位置座標を設定。中世以前の境内については不明。</備考></row>
<row _id="11"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>布忍村</村名><大字名>向井</大字名><項目名>大林寺</項目名><説明>大林寺は融通念仏宗来迎寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。もと八上郡大饗村にありしが、檀家信徒協力の上にて明治十一年一月当所に移転せり。境内は壱百五拾九坪を有し、本堂・庫裏・長屋・門を存す。外に地蔵堂あり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>677.0</掲載頁><緯度>34.579063</緯度><経度>135.537217</経度><まつばらいろはかるた番号>k10</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>布忍にも 十一面観音 大林寺</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/370</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="12"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>田井城</大字名><項目名>田座神社の址</項目名><説明>田座神社の址は字東口にあり、社は延喜式内の神社にして、三代実録に依れば清和天皇の貞観四年四月廿六日従五位下を授けられ、同五月十七日官社に列し給ひ旧社にして、末社八座を存し、本地に縁由の神社なるべけれども、祭神詳ならず。境内は弐百壱坪を有して、俗に八幡と称せられ、明治五年村社に列せられしも、同四十一年三月大字上田の柴籬神社に合併せられて今はなし。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>680.0</掲載頁><緯度>34.582035</緯度><経度>135.546041</経度><まつばらいろはかるた番号>k17</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>れんめんと 農業 見守る 田坐神社</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/372</原資料画像URL><備考>明治時代の合祀後も社地と神殿が残されていた。昭和60年(1985)4月28日、旧来の社地に戻る。</備考></row>
<row _id="13"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>阿保</大字名><項目名>阿保親王の邸址</項目名><説明>親王は平城天皇第二の皇子にして、在原行平・同業平の父なり。大和国三条坊門の南高倉の西・磯上筒井筒の地に住し給ひしも、承和元年第宅を此に経営して初めて移居し給へり。是れ本地草創の起源なりと伝へ、其の址は旧西阿保村の字公垣内にあり、面積凡壱千坪の地にして、同親王の殿宇を築きて永く其の子孫をして居住せしめ給ひし所なりといふ。今は其の裔孫已に絶えて独り其の址を存するのみ。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>681.0</掲載頁><緯度>34.582085</緯度><経度>135.556879</経度><まつばらいろはかるた番号>k09</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>りりしきは 阿保親王と 人したう</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/372</原資料画像URL><備考>阿保親王の邸が所在したと伝えられる字名「公垣内」の位置が不明であるため、阿保親王社を合祀した阿保神社に位置座標を設定。</備考></row>
<row _id="14"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>阿保</大字名><項目名>阿保神社</項目名><説明>阿保神社は西南にあり、菅原大神を祀り、境内に阿保親王社及び厳島姫命神社あり。阿保親王社は阿保親王を祀り、親王殿の跡より此に移せりといひ、厳島姫命神社は弁財天山にありしを明治六年此に移転せしものなり。境内は壱百参拾九坪を有し、甚だ広からざれども老楠二株鬱葱として社頭を蔽ひ、清浄の神域にして社は明治五年村社に列せらる。氏地は本地一円にして、秋祭は十月五日・夏祭は七月十五日なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>682.0</掲載頁><緯度>34.582084</緯度><経度>135.556878</経度><まつばらいろはかるた番号>k28</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>楠大樹 千年と伝う 阿保神社</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/373</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="15"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>阿保</大字名><項目名>親王池</項目名><説明>親王池は南端にあり、周囲九町四拾間にして耕地の養水なり。池は阿保親王の此の地に第宅し給ひしとき、其の庭園に穿ち給ひし泉池の残りしなりといひ、或は農民の旱害を患ひて同親王の掘らしめて灌漑用水となし給ひし所にして、もと大池なりしも年と共に縮小して現況となりしといふ。一に児ヶ池の名あり、俗に棒池と呼べり。伝へいふ、親王の後裔に在原信之といへる者ありて早世しけるに、其の子幸松麿は母と共に居りしが、家貧なれども孝養至らざるなく、母眼病を患ひしかば身を以て葛井寺の観音に祈誓し、幾もなくして母の病癒えしかば、此の池に投じて観音に報ず、実に長和三年六月十五日にして、幸松麿は十三歳なり。依て児ヶ池の名は之より起り、後人其の孝を憐み、池中に塔婆を建てゝ其の冥福を修め、棒ヶ池といへるは該塔婆の立てるより起れりと。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>682.0</掲載頁><緯度>34.578661</緯度><経度>135.559967</経度><まつばらいろはかるた番号>k26</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>野に多く 伝説の池 親王池址</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/373</原資料画像URL><備考>ため池台帳に記載された名称は稚児ヶ池。現在は、埋め立てにより宅地や道路となっている。</備考></row>
<row _id="16"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>上田</大字名><項目名>丹治柴籬宮址</項目名><説明>丹比柴籬宮の宮址は東部にあり、広さ四千余坪にして四囲に溝渠を繞らし、別に一郭を為して柴籬林に接し、古樹鬱葱せり。即ち反正天皇の宮居給ひし所にして、帝王編年記に丹比郡今宮坂上路北空地是也とせるは此の地を指せるなるべし。古の全封境は詳ならざれども、本地及び大字高見は挙げて諸殿のありし所なるべし、大宮址の東方に当りて小園田・若山・学堂・東宮・極殿山等の字地を存せるは其の証ならん。天皇は履中天皇と共に仁徳天皇の皇子にして、皇后磐之姫命の所生なり、生れて駢歯、且、浴し給ひしとき多遅花散りて湯瓮中に落ちしかば、多遅比瑞歯別皇子と名づけ奉り、多治部を諸国に定めて皇子湯沐の邑と為し給ふ。容姿美麗にして身長九尺二寸半、履中天皇の晏駕し給ふに及び、入りて大統を嗣ぎ、此の宮に御して天下を治め給へり。此の時に当り風雨時に順ひ五穀成就し、人民富饒天下太平なり。而して天皇は此の宮に於て崩御あらせられ、玉體は泉北郡向井町大字中筋の百舌鳥耳原北陵に永く眠り給へり。【日本書紀：反正天皇の条 瑞歯別天皇(反正)・去来穂別天皇(履中)同母弟也、去来穂別天皇二年立為皇太子、天皇初生于淡路宮、生而歯如一骨、容姿美麗、於是有井、曰瑞井、則汲之洗太子、時多遅花落有于井中、因為太子名也、多遅花者今虎杖花也、故称謂多遅比瑞歯別天皇、元年冬十月都於河内丹比、是謂柴籬宮、当是時風雨順時、五穀成熟、人民富饒、天下太平、是歳也太歳丙午、六年春正月甲申朔丙午、天皇崩于正寝、】【古事記：水歯別命、坐多治比之柴垣宮治天下也、此天皇御身之長九尺二寸半、御歯長一寸、広二分、上下等斉、既如貫珠、】</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>684-685</掲載頁><緯度>34.57181</緯度><経度>135.559785</経度><まつばらいろはかるた番号>k01</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>いにしえに 都置かれし 柴籬宮</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/374</原資料画像URL><備考>丹治柴籬宮址の跡地が不明であるため、柴籬神社に位置座標を設定。</備考></row>
<row _id="17"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>上田</大字名><項目名>柴籬神社</項目名><説明>柴籬神社は字反正山にあり、祭神は反正天皇なり。創建の年代は詳ならざれども、此の地は同天皇の宮居し給ひし所なるを以て、祠を建てゝ同天皇の尊霊を祀りしものなるべし。広庭神社と称し、もと広場山観音寺といへる宮寺ありしが、今はなし。社は附近部落の産土神として崇敬し、明治五年村社に列し、同四十年一月神饌幣帛料供進社に指定せられ、同四十年十二月十八日大字西大塚字天神山の村社菅原神社(菅原道真)を相殿に合祀し、同四十一年三月二十三日大字田井城字東口の同田座神社(不詳)を境内に合併移転せり。境内は壱千六百八拾六坪を有し、本殿は神宮作檜皮葺にして、外に幣殿・拝殿・社務所・絵馬舎等相並び、末社の大歳神社・稲荷神社・住吉神社等は本社を護れり。氏地は本地及び大字立部・同新堂・同岡・同高見・同西大塚・同田井城、例祭は十月十日にして、夏祭は七月二十日に行はる。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>685.0</掲載頁><緯度>34.57181</緯度><経度>135.559785</経度><まつばらいろはかるた番号>k01</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>いにしえに 都置かれし 柴籬宮</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/374</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="18"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>岡</大字名><項目名>聖堂池</項目名><説明>聖堂池といへるあり、其の近くに弁財天の小祠を存す。河内志に「聖堂池在新堂村、父老伝、池傍嘗有聖堂故名、今為宗像祠」と記せるは、本地なる此の池を指せるものにして、其の新堂村にありとせるは、所属村を誤りしものなるべし。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>687.0</掲載頁><緯度>34.564654</緯度><経度>135.553777</経度><まつばらいろはかるた番号>k13</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>王仁博士 教えしあとや 聖堂池</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/375</原資料画像URL><備考>ため池台帳に記載された名称は宮の池及び清堂池。</備考></row>
<row _id="19"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>立部</大字名><項目名>大字立部</項目名><説明>本地は古来丹北郡に属し、立部村と称す。立部は多治部の転ならん。字地に樫木屋といへるあり。思ふに本地は往時の土師郷なるべし、郷は和名抄に「丹比郡土師郷」と載せられたるもの是れにして、古老の口碑に依れば、反正天皇の御宇、初めて此の地に土器を製して同天皇に献ぜしかば、是れより土師村と呼びしと、其の土師村といへるは、盖し土師郷たりしをいへるものならん。今もなほ土師姓を用ふる旧家あり。往時は土盌を製出して名あり、河内志にも「土盌立部村造、有小重油盞三度五度等品」と記せり、然れども今はなし。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>688.0</掲載頁><緯度>34.564628</緯度><経度>135.562972</経度><まつばらいろはかるた番号>k07</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>土器づくり 文化の名残り 立部の土師器</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/376</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="20"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>松原村</村名><大字名>西大塚</大字名><項目名>大塚山</項目名><説明>大塚山は東大塚との界にあり、一に王塚山に作る。一丘隆然として田圃の間に起り、周囲に濠池を繞らし、上に菅原神社ありて道真を祀りしも、明治四十年十二月十八日柴籬神社に合祀せられて今はなし、俗に天神山と呼べるは此の菅原神社のありしに依る。山は正しく一個の古墳にして、前方後円式のものなりしも、前方部は開墾せられ、今は後円部のみ残りて高さ水面より約六拾二尺なり。其の前方部なる開墾せられし所には、人家若干建てり。河内志には来目皇子の埴生山岡上墓なりと記せるも、同皇子の墓は南河内郡埴生村大字埴生野の羽曳山にあれば、同皇子の墓にあらざるは明なり。又里人は之を阿保親王の墓なりと伝え、倭漢三才図会も阿保親王墓在大塚山と記し、南遊紀行にも同じく王塚山は阿保親王の墳なりとせるも、同親王の墓は摂津国菟原郡打出村にありといへば、容易に信じがたし。近時学者中には雄略天皇の御陵ならんかとの説を為せるものあり、内務省は皇陵に準ずべき形式のものなりと認め、大正十年三月五日告示第三十八号を以て、史蹟名勝天然紀念物保存法第一条に依り、史蹟古墳として指定せり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>689-690</掲載頁><緯度>34.57189</緯度><経度>135.568009</経度><まつばらいろはかるた番号>k39</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>雄大な 大塚山古墳 濠広し</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/376</原資料画像URL><備考>現在、大塚陵墓参考地として宮内庁が管理。周知の埋蔵文化財包蔵地としての名称は大塚山古墳。一般的には河内大塚山古墳の呼称が利用されている。</備考></row>
<row _id="21"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>三宅村</村名><大字名>三宅</大字名><項目名>屯倉神社</項目名><説明>屯倉神社は字宮の内にあり、菅原道真・須佐之男命・品陀別命を祀れり。初伝に依れば、天慶五年八月十八日菅原道真を祀りしもの其の創めなりといふ。明治五年村社に列し、同四十年四月八日字西の口の酒屋神社を合祀し、同四十四年五月二十五日神饌幣帛料進社に指定せらる。境内は七百弐拾六坪を有し、本殿・幣殿・拝殿・納札所・薬医門を存す。末社に天津神社・天照大神社・素戔嗚神社・大物主神社・日吉神社・琴平神社・市杵島姫社あり。社傍の巨石は周囲六尺余にして、道真の筑紫に左遷の途、土師里より来り腰を掛けて憩ひしものなりと伝へ、神形石と呼ばる。以前は石側に老梅ありしが今はなし。氏地は本村全部にして、例祭は十月一日・夏祭は七月二十五日に行はる。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>692-693</掲載頁><緯度>34.588757</緯度><経度>135.555107</経度><まつばらいろはかるた番号>k20</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>願いごと かなえてほしき 天神様</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/378</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="22"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>三宅村</村名><大字名>三宅</大字名><項目名>旧酒屋神社</項目名><説明>而して合祀せられたる酒屋神社は延喜式内の神社にして祭神は津速魂命なり、俗に権現と称せらる、創建の年月は詳ならざども、姓氏録河内国神別に「中臣酒屋連、津速魂命十九世孫真人連公之後也」と見ゆれば、酒屋連の其祖を祀りしものならん、清和天皇の貞観七年十二月二十六日従五位下を授かり給ひ、本地の産土神たり。其の旧地西方の小池は酒蓋池と呼び、池の東北隅に一間四方の井あり、古老の口碑に依れば、昔神此に出現ありければ奉祀して酒屋神社と仰ぎ、池名も之に因みて名づけしものなりといふ。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>693.0</掲載頁><緯度>34.590457</緯度><経度>135.551852</経度><まつばらいろはかるた番号>k40</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>名水や 酒屋権現 出でし井戸</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/378</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="23"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>三宅村</村名><大字名>三宅</大字名><項目名>三宅寺の址</項目名><説明>三宅寺の址は屯倉神社の境内にあり、西方なる高野街道の辺を大門口と称へ、大門のありし所なりといふ。寺は梅松院と号し、屯倉神社の宮寺たりしが、明治後の神仏分離に依りて廃絶し、本尊十一面観世音は西方寺に転置せられ、建物は村役場に充用せらる。河内志には当寺を以て天平勝宝八年二月孝謙天皇の知識寺南行宮に御して巡拝し給ひし六寺中の三宅寺なりとせるも、同天皇の六寺巡拝は一日に終らせ給ひしものなれば、其の六寺は何れも同行宮に余り遠からざる所にありしなるべければ、同天皇の巡拝ありし三宅寺を当寺に擬せるは恐らくは非ならん。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>693.0</掲載頁><緯度>34.588757</緯度><経度>135.555107</経度><まつばらいろはかるた番号>k20</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>願いごと かなえてほしき 天神様</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/378</原資料画像URL><備考>現在、屯倉神社の社務所が存在する。</備考></row>
<row _id="24"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>三宅村</村名><大字名>三宅</大字名><項目名>西方寺</項目名><説明>西方寺は安養山と号し、融通念仏宗大念仏寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。創立の年月は詳ならず。法明上人の念仏勧進道場として本尊を安置せし所にして、像は聖徳太子の作なりと伝ふ。境内は壱百四拾壱坪を有し、本堂・庫裏・薬医門を存す。外に観音堂あり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>694.0</掲載頁><緯度>34.589919</緯度><経度>135.551851</経度><まつばらいろはかるた番号>k37</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>西方寺 平安朝の 夢やどし</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/379</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="25"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>別所</大字名><項目名>熱田神社</項目名><説明>熱田神社は字西山にあり、日本武尊を祀れり。由緒は詳ならず。明治五年村社に列せらる。境内は弐百六拾九坪を有し、本殿・拝殿を存す。氏地は本地一円にして、祭日は七月・十月・十二月の各十五日なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>697.0</掲載頁><緯度>34.588912</緯度><経度>135.563808</経度><まつばらいろはかるた番号>k03</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>はるかなり キリシタン灯籠 熱田神社</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/380</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="26"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>別所</大字名><項目名>別荘城</項目名><説明>別荘城の址は東北字城山にあり、東西四間・南北五間・高さ凡七尺・周囲四拾参間の地なり、今は田圃となりて遺跡の見るべきものなし。口碑に依れば、畠山高政の拠守せし所にして、其の子孫相伝へて畠山勘解由に至り、大坂の役に関東軍の追撃を恐れ、逃れて堺に去りしといふ。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>697.0</掲載頁><緯度>34.592215</緯度><経度>135.56677</経度><まつばらいろはかるた番号>k34</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>恵我の地に 古戦場残す 若林</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/380</原資料画像URL><備考>松原市史などでは別所城の名称を使用。</備考></row>
<row _id="27"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>一津屋</大字名><項目名>厳島神社</項目名><説明>厳島神社は字弁天にあり、市杵島姫命を祀れり。由緒は詳ならず。明治五年村社に列せらる。境内は壱百九拾九坪にして本殿のみを存す。氏地は本地一円にして、祭日は七月・十月・十二月の各十日なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>698-699</掲載頁><緯度>34.579571</緯度><経度>135.575857</経度><まつばらいろはかるた番号>k35</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>敵をうつ かねつき山は とりであと</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/381</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="28"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>一津屋</大字名><項目名>一津屋城址</項目名><説明>一津屋城址は字鐘撞山にあり、昔三好駿河守之を拠守せしと伝ふれども、其の興廃の年月等は詳ならず。今は櫓の址は林となり、濠址は田圃と変じて、僅に其の名残を留むるのみ。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>699.0</掲載頁><緯度>34.579571</緯度><経度>135.575857</経度><まつばらいろはかるた番号>k35</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>敵をうつ かねつき山は とりであと</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/381</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="29"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>小川</大字名><項目名>深居神社</項目名><説明>深居神社は西北字馬場脇にあり、品陀別命を祀れり。養老元年の創建にして津堂・若林・大堀・川辺及び本地の産土神なりしも、元弘・建武の兵乱以来は単に本地のみの産土神となり、明治五年村社に列せらる。境内は参百五坪を有し、本殿・拝殿を存せり。祭日は七月・十月の各十五日なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>700.0</掲載頁><緯度>34.587683</緯度><経度>135.576962</経度><まつばらいろはかるた番号>k44</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>一津屋に 残るトリキは 昔人の知恵</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/382</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
<row _id="30"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>大堀</大字名><項目名>八幡神社</項目名><説明>八幡神社は字中島にあり、品陀別命を祀れり。由緒は詳ならず。もと産土神社と称し、明治五年村社に列し、同二十一年十月九日今の社名に改められる。境内は弐百六拾坪を有し、本殿・幣殿・拝殿・神輿庫・絵馬舎・社務所を存す。末社に稲荷神社あり。氏地は本地一円、祭日は七月・十月・十二月の各十五日なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>701.0</掲載頁><緯度>34.592997</緯度><経度>135.572504</経度><まつばらいろはかるた番号>k33</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>高速道 近代都市を むすぶ道</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/382</原資料画像URL><備考>現在の社名は大堀八幡神社。平成27年(2015)3月、新たな社地(松原市大堀3丁目1-44)に移転。位置座標は移転前の社地を設定。</備考></row>
<row _id="31"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>大堀</大字名><項目名>大堀塁</項目名><説明>大堀左馬の居りし大堀塁のありし所なれども、其の遺址及び興廃の年月等は明ならず。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>701.0</掲載頁><緯度>34.584888</緯度><経度>135.573746</経度><まつばらいろはかるた番号>k34</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>恵我の地に 古戦場残す 若林</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/382</原資料画像URL><備考>詳細不明のため、小字名「城屋敷」に位置座標を設定。松原市史などでは大堀城の名称を使用。</備考></row>
<row _id="32"><国名>河内国</国名><郡名>中河内郡</郡名><村名>恵我村</村名><大字名>若林</大字名><項目名>若林神社</項目名><説明>若林神社は北方にあり、品陀別命を祀れり。由緒は詳ならず。明治五年村社に列せらる。境内は壱百五拾八坪にして本殿・拝殿を存す。銀杏の老樹あり、高さ十五間、鬱として社頭を蔽へり。氏地は本地一円にして、祭日は七月・十月・十二月の各十五日なり。</説明><掲載巻数>4</掲載巻数><掲載頁>702.0</掲載頁><緯度>34.590201</緯度><経度>135.58032</経度><まつばらいろはかるた番号>k34</まつばらいろはかるた番号><まつばらいろはかるた読み句>恵我の地に 古戦場残す 若林</まつばらいろはかるた読み句><原資料画像URL>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/383</原資料画像URL><備考>***</備考></row>
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