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    [1,462144,"","鹿児島県","垂水市","鹿児島島津家墓所\n（垂水島津家墓所）","カゴシマシマヅケボショ（タルミズシマヅケボショ）","","","国指定史跡","その他","","鹿児島県垂水市田神字上ノ平添328番２、328番4、328番7","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","垂水市","2020-03-10","日月火水木金土祝","","","","","","国指定史跡である鹿児島島津家墓所の構成文化財の一つである、垂水島津家の墓所。","","垂水島津家墓所は、江戸時代、鹿児島藩（薩摩藩）を治めた大名である鹿児島藩主島津家（島津宗家（そうけ））の一門家（いちもんけ）と呼ばれる藩主親族家である鹿児島島津家墓所のひとつである。\n垂水島津家墓所は、その形成過程や特性において、島津一門家であることにより、他の墓所と比較して極めて宗家の影響を色濃く受けている。\nその一方で、当主夫妻墓が並立しているなど、垂水島津家墓所独自の要素も見られることから、必ずしも宗家の模倣に始終するのではなく、垂水島津家の独自性を打ち出していた。\n このように、垂水島津家墓所は，鹿児島藩家臣団最上位に位置する一門家の形成が、島津宗家との密接な関連性の中で行われていたことを墓碑形式で表しており、幕藩体制下を中心とした鹿児島藩内における墓制・葬制・島津宗家を頂とした階層構造を知る上で貴重であるといえる。","","",""],
    [2,462144,"","鹿児島県","垂水市","勝軍地蔵","ショウグンジゾウ","","","県指定有形文化財","美術工芸品","","鹿児島県垂水市高城地蔵の下2535","",null,null,"0994-32-7551","","1","体","","","1953-08-25","","","","","","","県内最古級の木仏像。県指定文化財。","","勝軍地蔵は、永正３年（1506）当時の高城城主肥後文次郎盛明が太守島津忠昌（ただまさ）を施主として子孫繁栄・武運長久・領内安穏を祈願して建立したもので、中央に地蔵菩薩、左に毘沙門天、右に多門天の３体からなり、いずれも木彫りで色彩が施されていた。\n胎内に宝珠金蔵寺、其時住持前任総持桂隠作者加治木、岩屋寺住寺快扶とある。県内最古の木仏像で、その作巧妙といわれ、昭和28年県文化財に指定された。\n明治の初め廃仏毀釈に際し、土地の信仰厚き人々によって、後方山腹の洞穴に隠されていたが、明治12年現在地に堂を建てて安置された。昭和53年大修理が施された。","","",""],
    [3,462144,"","鹿児島県","垂水市","柊原貝塚出土品","クヌキバルカイヅカシュツドヒン","","","県指定有形文化財","その他","垂水市文化会館","鹿児島県垂水市田神2750-1","",31.485318,130.704465,"0994-32-7551","","196","個","","垂水市","2012-04-20","月火水木金（祝を除く）","08:30","17:15","垂水市文化会館開館日に利用可","","","貝塚","","遺跡周辺は古くから「塚」と呼ばれており，畑の耕作中に土器片や貝殻が見られたという。大\n正３年には，イギリス人考古学・人類学者のN.G.マンローが大隅郡肝属\nきもつき\n地区クノギハラ近くで貝\n塚を発見しており，学史的にも重要な遺跡である。遺跡全体の範囲は約10,200 ㎡で，その内貝塚本体は約930 ㎡，貝塚周辺の点在している直径0.5～２ｍの小廃棄からなる貝ブロックの分布範囲は2,600 ㎡と推定されている。遺跡の旧地形は，ほぼ平坦な台地だが，当時の海岸線は現在の標高５ｍ付近であったので，現在よりも海岸に近接した場所であった。縄文時代後期は遺跡付近の海況は暖流の強い影響下にあっ\nたと推定されている。貝塚本体の推定面積は約930 ㎡，現状の最厚部は約1.1ｍだが，上面は旧国鉄大隅線鉄道造\n成時に削平を受けており，本来は４～５ｍの高さがあったと推定されている。貝塚は平坦な地形に積み上げられて形成されているが，貝層の傾斜から貝塚南側から廃棄していたと考えられる。貝塚中からは市来式・草野式・丸尾式が多く出土しており，貝塚本体の時期は縄文時代後期中葉の時期であると推定される。貝塚を構成する貝は94 種類に及ぶが，主要なものはモクハ\nチアオイガイ・マガキガイ・バイガイ等７種で全体の96 パーセントを占め，選択性の高い採取が行われていたことを示している。\n貝塚に関係する遺構としては，住居址じゅうきょし４基，土壙墓どこうぼ４基，溝状遺構４基，土坑５基，ピット17 基，獣骨を伴う集石が１基，埋葬の可能性がある犬骨が２か所検出されている。住居址については，指宿いぶすき式期のものが１基，上加世田うえかせだ式期が２基，丸尾まるお式期が１基の竪穴住居址が検出されている。土壙墓はいずれも人骨は伴うが，副葬品等はない。その他，貝塚南方で頭骨１体が出土している。\n貝層中からは，貝類遺体・動物遺体・魚類遺体・種子等の食料廃棄物が多量に出土し，土器\nなどの遺物も多く出土したことから，貝塚の第一義的機能としては廃棄場所があげられる。し\nかし，貝塚最下部からは埋葬人骨や埋葬された可能性のある犬骨，岩偶をはじめとする多量の\n軽石製品などの出土から，祭祀的機能も併せ持つ貝塚であったことが想定されている。柊原貝塚出土品は縄文時代後期から晩期の遺物が主体であるが，自然遺物・人工遺物ともに豊富な種類と量があり，鹿児島県の縄文時代遺跡の中でも屈指の情報量を誇っている。特に，柊原遺跡が長期間にわたって連続的に営まれた遺跡であることが，この出土品の重要性を高めている。\n遺物の残存状況も良好である。\n人工遺物に限ってみても，一般的に遺跡から出土する土器や石器の他，有機物のため残存しに\nくい貝製品や骨角牙器・骨角牙製品が多く出土しており，釣針などの生活用具の他，華麗な装身\n具が当時の風俗をほうふつとさせる。また，遠距離交易物である石材なども出土しており，交易\n活動の活発さも示している。\n岩偶などの軽石製品や土製品など，儀礼や祭祀に伴う遺物が豊富であることも柊原貝塚出土品\nの特徴のひとつである。特に岩偶は，軽石という南部九州独特の素材を用いているが，土偶の盛\n行と関係付けることができ，新出の文化を南部九州の風土に合わせて適応したものとしてみるこ\nとができる。さらに貝製品や骨角牙製品の装身具は縄文時代中葉の市来式期に伴い，岩偶や石製\n玉類はその後の黒色研磨期から上加世田・入佐式期に伴うなど，時期差が認められる。装身具や\n祭祀具が変化する様子がひとつの遺跡で連続的に把握できる数少ない資料となっており，当時の社会変化を考察する上でも重要である。","","",""],
    [4,462144,"","鹿児島県","垂水市","お長屋","オナガヤ","","","県指定有形文化財・市指定有形文化財","建造物","","鹿児島県垂水市田神144","",null,null,"0994-32-7551","","1","戸","","垂水市","2014-04-22","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","鹿児島県内では珍しい多聞櫓の建造物","","慶長16（1611）年、垂水島津家四代島津久信が林之城を築城した。お長屋も林之城の一部として建築されたと考えられている。\n　維新前は下級武士の詰所となり、日暮らしの小細工などをしていたと言われている。城郭関連施設の一種で、通常は城郭外周部の石垣上に構築される桁ゆきの長い建物である。多聞櫓もその一種で侍詰所や兵具（武器）庫として用いられた。\n大名屋敷などで、家臣の居住用の建築も造られ、しばしば「長屋」（ながや）と呼ばれたものと同種の建築である。\n　垂水市の「お長屋」は鹿児島県下では唯一の遺構であり、貴重な存在である。\n　明治9（1876）年「私学校垂水分教場」として使用。剣術，漢字等を教授していた。明治以降は垂水小学校の一部として使用。補習科、垂城学院、農工業科教室、高等科教室などとなった。終戦後は一次町役場仮庁舎となり、後に再び小学校の教室、図書室などとして使用されていた。\n　現在は市内より収集された民具等を収蔵。小学校の総合的な学習の時間を活用した調べ学習等の授業で活用されている。","","",""],
    [5,462144,"","鹿児島県","垂水市","牛根麓稲荷神社の埋没鳥居","ウシネフモトイナリジンジャノマイボツトリイ","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市牛根麓675-1","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","","2012-02-09","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","桜島の噴火によって埋もれた鳥居","","大正3年（1914）1月の桜島火山大噴火は，大量の軽石・火山灰を放出し，大隅半島側に厚く堆積した。牛根麓も被害は甚大で，道路田畑には約90～120㎝の降石灰が堆積し，松ヶ崎小学校校舎，村役場，民家32戸が降石灰により倒壊した他，多くの避難民を出した。天正2年牛根城（入船城）が落城し，安楽備前守兼寛より城明け渡しを受けた島津義久は，部下の伊集院魯笑斉久道を牛根郷の地頭として治めさせた（久道の治世は長くはなく，4～5年で伊集院の石谷へ所換えした。後に鎌田政年（寛栖）が赴任）。\n　久道は民心を慰撫し島津の権勢を誇示するため，島津氏の氏神である稲荷神社を創建したとされる。「三国名勝図会」によると，「天正二年甲戌九月十三日，地頭伊集院魯笑齋久道，創建せしこと，棟札に見えたり」とある。\n　神体は久道が奉納した掛け軸であったと言われているが現存していない。また伊集院久道が牛根城にあった荒神を降ろして合祀したとも言われている。\n　牛根神社帳によると「祭日九月十三日と十一月二十八日神供三膳，神楽内侍舞神社四敷二間，上家茅葺，鳥居石高一丈一尺五寸，向拝より八間」とある。\n　しかし，大正三年の桜島大爆発の降灰により埋没し，現在は約1.45ｍまで掘りだしたこの鳥居が現存するのみである。社殿の一部には月輪の石灯籠（寛政六年竹下金蔵奉寄進）がある。神楽等の踊りが盛んで大変にぎわったものだ，と古老達は話していたと言う。\n　牛根麓の稲荷神社も降灰により埋没した。現在は約1.45ｍまで掘りだした鳥居が現存するのみである。\n","","",""],
    [6,462144,"","鹿児島県","垂水市","広田家庭園","ヒロタケテイエン","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市牛根麓261","",null,null,"0994-32-7551","","1","庭","","","1968-04-25","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","江戸時代の庭園跡","","江戸時代乗丹寺の和尚（不詳）の手によって造られたという。昭和42年鹿児島大学の西田教授の鑑定によると、庭木の主木となっている梅木の大きさ、池に架けられている石橋など仮山石組座を主景とする風景式で、桃山風が加味され、規模は大きくないが庶民の庭としては古い方であり、全国的に非常に少ない様式のものである。","","",""],
    [7,462144,"","鹿児島県","垂水市","岩屋観音堂跡と石塔群","イワヤカンノンドウアトトセキトウグン","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市中俣","",null,null,"0994-32-7551","","約10","基","","","1982-03-13","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","鎌倉初期～室町期にかけての石塔群","","シラスの崖をくりぬいた洞穴に観音が祀られていたので、岩屋観音といわれ、また御堂の下の平地に山伏の修行道場があったので、道場観音とも呼ばれている。古くから人々に深く信仰されていた。\n記録によると、堂内の釈迦像に文正２年（1465）平義忠、阿弥陀像に明応６年（1496）平義直とあり、いずれも石井氏である。\n現在洞内に多くの五輪塔があるが、鎌倉初期から室町期にかけたもので、古いものは中俣氏（垂水郡司）のものと推定され、他は石井氏のものである。またここには宝物が埋蔵されているとの伝説があり、それを探しに宝探しをした話も伝わっている。","","",""],
    [8,462144,"","鹿児島県","垂水市","島津氏久逆修塔と\n石塔群　","シマヅウジヒサギャクシュウトウトセキトウグン","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市新御堂","",null,null,"0994-32-7551","","約60","基","","","1982-03-13","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","島津家第六代太守　島津氏久が死を覚悟して建てた石塔群","","島津氏久は、第六代の太守である（1326～1388）。正平10年（1355）南朝方の肥後種顕（ひごたねあき）、種久兄弟が畠中重顕（はたなかしげあき）を引き入れて海潟の崎山城により足利尊氏にそむいた。氏久は、これを攻め、約10日間でこれを落とした。\n当時大隅には肝付兼重、楡井頼仲（にれいよりなか）等南朝方の豪族が居たが、これらを討つために垂水を通った際に建てられたものと思われる。\n　逆修塔とは、中世の武将たちが大きな戦に臨む時、死を覚悟して石塔を建て武運長久と死後の供養を祈願したのである。この塔は、宝篋（ほうきょう）印塔でそのまわりに家臣の石塔が60余基ある。","","",""],
    [9,462144,"","鹿児島県","垂水市","浦川内石塔群","ウランカワウチセキトウグン","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市新城浦川内2443","",null,null,"0994-32-7551","","6","基","","","1985-03-09","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","","","新城浦川内地区の個人宅の裏手のがけに五輪塔が１基あり、その下方に土砂に埋もれていた石塔が見えていた。昭和57年３月に整備復元した。五輪塔6基を組み立てることが出来た。その中に、宝塔的五輪塔が１基ある。塔身の型である。また笠石の下部にも段があり、全体の形は五輪塔である。山川石が使われており、時代は、室町初期と推定される。","","",""],
    [10,462144,"","鹿児島県","垂水市","段の五輪塔\n（俗称平家墓）","ダンノゴリントウ","平家墓","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市高城段1754","",null,null,"0994-32-7551","","4","基","","","1985-03-09","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","","","水之上地区の個人宅の庭に、四基の五輪塔がある。俗に平家墓と呼ばれている。石質は荒い凝灰石、高さ90cm、鎌倉期から室町初期と推定される。","","",""],
    [11,462144,"","鹿児島県","垂水市","宝塔","ホウトウ","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市田神3501","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","","1985-03-09","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","伊地知重武が、下大隅を平定した際建てた宝塔","","宝塔の笠石に東カクバン　西タラーク　南ウーン　北キリークの梵字が刻まれている。カクは金剛咲菩薩檀汲羅密（こんごうさくぼさつだんはらみつ）を成就したという。意味は現世において富み、心に自在と寿命長遠を成就し得たことを現すものである。\n伊地知重武が念願の下大隅を平定したのは天文13年（1544）でこの年、月海寺を建立してこの塔を建てたと推定される。塔身は風化していて文字など消えている。","","",""],
    [12,462144,"","鹿児島県","垂水市","宮脇石塔群","ミヤワキセキトウグン","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市新城宮脇","",null,null,"0994-32-7551","","約20","基","","","1985-03-09","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","室町期の石塔群","","玉照寺は江戸時代心翁寺四世竜谷和尚によって開山されたが、それ以前は鹿屋の笠野薬師の末寺内村薬師があった所で、現在も薬師の地名が残っている。\n国鉄大隅線開通の際、寺跡にあった石仏像と供養碑が線路沿いの地に移されてある。昭和57年３月復元整備した。大小の五輪塔7基、宝篋（ほうきょう）印塔の塔身と相輪、五輪塔の空風輪7個が出て来た。五輪塔の水輪に納骨孔のあるもの2、地輪にあるもの１基があった。\n推定年代は室町期、当時新城は垂水高城城主肥後氏の支配下にあり、その後伊地知氏の支配に移った。","","",""],
    [13,462144,"","鹿児島県","垂水市","諏訪石塔群","スワセキトウグン","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市新城諏訪下610-1","",null,null,"0994-32-7551","","11","基","","","1985-03-09","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","室町期の石塔群","","国道220号線の諏訪バス停留所の近くの小路を山手のほうに行くと墓地がある。その裏手の畑に石塔が乱雑に積まれてあった。昭和57年3月6日整備復元した。五輪塔7、同残欠2、板碑1、石仏1がある。玉照寺跡の石塔と同系統のもので、時代も同じ室町と推定される。\nこの石塔の中に、板碑が１基あるが、これは垂水市内で初めて発見された典型的な板碑である。板碑は石塔群の中心となるもので、石塔建立の趣旨と建立年月日が刻まれていて、歴史研究上重要な資料となるものである。この板碑の表面に梵字と文字が刻されているが、磨耗がはげしく、判読できないのが惜しいことである。","","",""],
    [14,462144,"","鹿児島県","垂水市","新城様の墓","シンジョウサマノハカ","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市新城神貫3297","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","","2002-03-14","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","薩摩藩第16代島津義久の二女の墓","","新城様は薩藩第16代の太守島津義久の二女に生まれ、天正10年垂水島津家第３代島津彰久に嫁し、化粧料として新城・鹿屋・高須・梅北・高原・敷根等4,200石を賜り、4代島津久信を産み垂水島津家の基礎を固めた。寛永４年新城松尾城に隠居し、仮屋を設け麓をつくり、寛永13年久信の庶子久章に化粧料をゆずり、新城島津家を建立した。\n寛永18年８月15日死去、78才、法号瑚月浄珊庵主、貫明寺に葬った。","","",""],
    [15,462144,"","鹿児島県","垂水市","宇喜多秀家潜居跡","ウキタヒデイエセンキョアト","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市牛根麓字柿原2008","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","","2004-02-12","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家が潜んでいたとされる居所の跡地。","","秀家公は安土桃山時代の武将であり、備前岡山五十七万四千石の大名で岡山の開祖とされています。\n　また、豊臣政権下の五大老の一人でもあり、慶長五（一六〇〇）年の関ヶ原の戦いでは西軍の副大将をつとめています。\n　慶長六（一六〇一）年六月、関ヶ原の戦いに敗れた秀家公は、徳川方の追及の目を逃れ薩摩藩島津家を頼って海路山川港にやってきました。秀家公と共に戦ったことがあり、敵中突破で世に名高い島津義弘公は使者二名を山川港にやり、丁重に出迎えさせました。\n　さらに、大隅郡牛根郷（現垂水市牛根麓辺田）の平野家に対しては、監視と警護の名のもとに秀家公を匿うように命じました。\n　秀家公らは、錦江湾を真っ直ぐ北上し、瀬戸海峡（現在の牛根大橋付近一帯は桜島の大正噴火の溶岩で陸続きとなりましたが、当時は海峡でした）を経て、平野家所有の上屋敷に落ち着きました。\n　この上屋敷（方言で「うっぢゃしき」と言います）こそが、秀家公が二年三ヶ月もの間潜居した跡地であり、通称平野原または天神山と呼ばれています。\n　その後秀家公は、島津家、前田家（加賀藩）などの懇願により、死罪を免れて久能山幽閉から八丈島遠島となり、八十三歳の高齢で波乱の生涯を閉じました。","","",""],
    [16,462144,"","鹿児島県","垂水市","磨崖仏","マガイブツ","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市牛根麓52-1","",31.556769,130.731605,"0994-32-7551","","1","基","","","2016-02-12","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","垂水市唯一の磨崖仏","","以前は土砂に埋もれていたが、太平洋戦争中、軍事基地を構築するため土砂を採取するときに発見された。\n　 高さ約10ｍの凝灰岩の岩壁に彫りこまれている。中央に石仏、両側に五輪の供養塔が刻まれている。中央の石仏は尼僧である。\n   右側の供養塔には「正保四（1647）年ア（梵字。全ての梵字の基本となるもので全ての仏を表せるとされる）妙香禅尼十二月二十六日」と縦書三行で刻まれており、磨崖仏の造立年月日を推定する上で極めて重要な憑拠となると考えられる。\n   「垂水市史料集（八）牛根編」には、「諸国回向の僧が亡き妻のために彫像して、菩提を弔ったものと思われる」とある。\n　 磨崖仏にまつわる話として、「この土地の持ち主の妻が、髪の毛が抜けるのを恥じ、外出もできなかった。そこで占ったところ、『仏様が岩の下に埋まっている』とのことであったので掘ってみたら磨崖仏が出てきた。夫婦が信心して花香を捧げたところ、妻の頭は元通りになった」という話が伝わっている。牛根麓の磨崖仏は小規模なもので、正確な由来等不明な点も多いが、本市唯一の磨崖仏であること、正保四年の銘があることから建立年代を想定することができ、また、一旦は土砂に埋もれながら戦時中基地構築のため発見されたという戦跡とも関連があるものであるので、垂水市指定文化財（史跡）に指定することで、保護し後世へ伝えようとするものである。\n 　また、平成26年度に松ヶ崎地区の史跡めぐりコースが整備され、コース内にある「造船所跡」、「牛根城と笠仏首塚・六地蔵塔」、「みささぎ」、「磨崖仏」の4つの文化財について案内版や説明板が設置されたが、このうち磨崖仏を市文化財として指定することで、観光振興の一助としたい。","","",""],
    [17,462144,"","鹿児島県","垂水市","櫻島焼亡塔","サクラジマショウボウトウ","","","市指定有形文化財","その他","菅原神社","鹿児島県垂水市海潟651","",31.527871,130.699832,"0994-32-7551","","1","基","","","2017-03-14","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","桜島大噴火の際の供養塔","","現在は垂水市海潟菅原神社境内に設置されている。現在のところ刻字の判読は可能ではあるが、溶結凝灰岩製であるため、状態は決して良好ではない。この石碑は、桜島が安永8（１７７９）年10月1日に大爆発した際、噴石や流れ出た熔岩等により死亡した人々の冥福を祈り、約2年後の安永10（1781）年5月4日、当時の曹洞宗の松岳寺内 に建てられた供養塔である。　　\n　 その後、松岳寺は廃寺となったが、戦後、跡地に垂水町立協和中学校が新設されたこと等に伴い、現在の菅原神社境内に移設された。垂水島津家第10代貴澄のとき、大噴火により桜島の多くの島民が死傷（碑文には１７４人が焼死と刻字）した。 この石碑・櫻島焼亡塔は約２年後、領内の曹洞宗の心翁寺以下、同門の９つの末寺、支院が海浜にて施餓鬼会を執り行ったことを記した供養塔で、文章は邑校・文行館の儒学者である市川鶴鳴が撰している。\n　 安永噴火に係る石碑は鹿児島県下でも少なく、碑文は噴火当時の記録史料としても貴重である。また、桜島の間近に生活する垂水市民にとっても、噴火災害についての戒めともいうべき漢詩文も刻まれており、防災教育という側面からも、重要な石碑であると考える。\n　 以上のことから、垂水市指定文化財に指定することによって、保護し後世へ伝える必要がある。","","",""],
    [18,462144,"","鹿児島県","垂水市","故垂城宰川上周賢子墓碑","コスイジョウサイカワカミシュウケンシボヒ","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市本城3530番地付近","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","","2020-02-10","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","島津家家老川上忠實の墓","","川上忠實は永禄６（1563）年生まれの垂水島津家の家臣。武術に優れ家老職も務めた。龍造寺氏との戦いでは長崎の有馬氏を援け、島原城の戦いにおいて龍造寺右馬太夫の首級を上げた。また島津宗家からの信頼も篤く、文禄の役（1592年）及び慶長の役（1597年）に垂水島津家第二代以久、同三代彰久とともに参軍したが、彰久が朝鮮巨済島で陣没すると陣代家老を務めた。あるとき陣営を移す際に殿を務め、その甲冑に30数本の敵の矢を受けながらも新しい砦へ到着した。島津義弘はその矢傷に手づから薬を塗って労わったと伝えられる。その後も義弘、忠恒（後の家久）らの信任厚く、茶会等にも召しだされて、佩刀や馬などをたまわっている。\n　元和９（1623）年6月3日、第四代久信の後嗣問題に際して、久信がその嫡子・忠弘（後の第五代久敏）の資質を疑い、忠弘を廃して側室の男子（後の新城島津家初代久章）を後嗣に立てようとしたことに対して、家老職の忠實や家臣の町田忠照などは諫止に努めた。ところが、却って久信の怒りを買い、垂水城お仮屋内等において、川上忠實・忠利父子及び町田忠照の三名は誅殺されたのである。そしてその遺骸を心翁寺の家臣団の墓域に葬ることを許されなかったため、心翁寺末寺・福壽寺（曹洞宗）の住職が憐れみ、当寺の墓域に葬られた。\n　時が下って寛永12（1635）年、三人の名誉回復が行われ禄も旧に復した。さらに安永3（1774）年、没後150年に当たって、儒学者で邑校・文行館教授である乾徽猷の撰による「故垂城宰川上周賢子墓碑」が墓塔の近くに建立されたのである。","","",""],
    [19,462144,"","鹿児島県","垂水市","大正噴火関連石碑","タイショウフンカカンレンセキヒ","","","市指定有形文化財","その他","","垂水市下宮町88鹿児島神社敷地内（本城川外六河川改修記念碑）、垂水市新御堂893手貫神社敷地内（記念碑）、垂水市市木541-1（耕地整理紀念碑）、垂水市田神3688（土地所有權移轉紀念碑）","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","","2022-03-11","日月火水木金土祝","","","屋外に設置。自由見学可。","","","大正噴火関連の石碑","","大正３（１９１４）年1月1２日に桜島が大爆発し、流れ出た熔岩により大隅半島と陸続きとなった。併せて大量の火山灰が風下の大隅半島、特に牛根、垂水方面へ降り積もった。そのため、その後の降雨のたびごとに土石流や泥流によって引き起こされる河川の氾濫、洪水は田畑や家屋を洗い流し、死傷者を出している。\n　「本城川外六河川改修記念碑」は当時の垂水村内の七つの河川（本城川、田上川、市木川、是井川、中俣川、飛岡川、鶴田川）改修工事（大正4年4月から翌5年3月まで）竣工を記念して建立された。\n　同じく水之上地区の手貫神社境内にある「記念碑」、下市木の「耕地整理紀念碑」は、その後桜島降灰の土石流によって被害を受けた耕地の改修等を記念して建立された石碑であり、先人たちの苦闘の歴史を物語る史跡である。大正噴火の文言を刻んだ記念碑等が多く建てられている。また、大野原集落にある『土地所有權移轉紀念碑』は、大正噴火について記している。","","",""],
    [20,462144,"","鹿児島県","垂水市","中浜地蔵","ナカハマジゾウ","","","市指定有形文化財","その他","","鹿児島県垂水市牛根麓2723-2","",null,null,"0994-32-7551","","1","基","","","1992-02-24","日月火水木金土祝","","","","","","1444年造立、1602年修理の木彫り地蔵","","この地蔵は、中浜集落の村山家の所有であるが、同集落がお堂と共に大切に管理している。\n木彫りの座像で高さは台座まで65ｃｍあり、像は金色、台座は黒と朱で彩色されていて、全体的に風格があり、胎内に文安元年（1444）造立、慶長7年（1602）修理という墨黒銘がある。\nこの地蔵は、「ガランドンの餅」の話としてもつかえられている。昔このあたりは池に大蛇が住み、毎年18才の娘を望むので、集落の人々は平たい餅を18個つくり池の主にささげられたらその後この大蛇は娘を望むことがなくなったという。\nそれから、ガランドンの餅をこの地蔵に供えているという伝説がある。","","",""],
    [21,462144,"","鹿児島県","垂水市","近世文学書類全10点","キンセイブンガクショルイ","","","市指定有形文化財","その他","垂水市文化会館","鹿児島県垂水市田神2750-1","",31.485318,130.704465,"0994-32-7551","","10","冊","","","2003-10-07","月火水木金（祝を除く）","08:30","17:15","垂水市文化会館開館日に利用可","","","","","垂水島津家10代貴澄の文行館創立以降、垂水では学問や文化が栄え、伊地知季虔や伊集院兼愷等すぐれた文人が続々と登場し、近世における垂水文学の隆盛をもたらしました。薩藩の他郷において、郷をあげての文芸活動を伝える資料は残されていません。垂水史談会や先賢の努力により保存・継承されてきたものであり、極めて文化的な遺産であり、当時の垂水の文化隆盛の一旦を如実に物語る貴重な資料であることから、平成15年10月7日に垂水市の指定文化財（有形文化財　古文書）に指定されました。\n廢?詩稿（はいろくしこう）、浪の下草（なみのしたくさ）、垂邑詩集（すいゆうししゅう）、松操和歌集（しょうそうわかしゅう）、逍遙舎集（しょうようしゃしゅう）、浪の藻屑（なみのもくず）、垂城三十六歌仙（すいじょうさんじゅうろっかせん）、すさび草（すさびぐさ）、盛香集（せいこうしゅう）、克己随筆（こっきずいひつ）","","",""],
    [22,462144,"","鹿児島県","垂水市","奉納短冊全2点","ホウノウタンザク","","","市指定有形文化財","その他","垂水市文化会館","鹿児島県垂水市田神2750-1","",31.485318,130.704465,"0994-32-7551","","2","点","","","2003-10-07","月火水木金（祝を除く）","08:30","17:15","垂水市文化会館開館日に利用可","","","島津久典奉納の短冊","","享保十七年壬子四月十六日（江戸時代半ば頃），島津久典（垂水島津家九代貴儔(たかとも)）が，二十五歳の厄年に当たり，自筆による俳句短冊を垂水五社に奉納した。　現在，新田神社に奉納されたものと，手貫（上ノ宮）神社に奉納されたものが残っている。\n　新田神社奉納のものは，白木の箱に収められており，島津久典奉納の短冊と墨書されている。箱の中には短冊と奉書紙が入っている。「奉納　新　あかすとる榊は神の心哉　久典」とあり，奉書は縦１９．５㎝，横６．５㎝である。時に享保十七年四月十六日，梅本次郎衛門，安山三左衛門，町田次郎兵衛，川上六郎兵衛の四家の家老の添え書きもある。\n　手貫（上ノ宮）神社奉納のものは，「てり増(まさ)る卯月の影や神慮(かみごごろ)　久典」とある。\n　貴儔の養子であり，家督を譲られた第十代領主島津貴澄が，学問を奨励したことから，垂水に文芸熱が高まっていくことになるのだが，この２つの奉納短冊は，それ以前の垂水の文学について伝える貴重な資料である。\n","","",""],
    [23,462144,"","鹿児島県","垂水市","川畑賢矩家文書等","カワバタマサノリケブンショトウ","","","市指定有形文化財","その他","垂水市文化会館","鹿児島県垂水市田神2750-1","",31.485318,130.704465,"0994-32-7551","","約15","冊","","","2018-03-12","月火水木金（祝を除く）","08:30","17:15","垂水市文化会館開館日に利用可","","","明治維新時の文書等","","川畑賢矩家文書等の内訳は、「高崎正風の作成した「學則」及び揮毫の「掛け軸」」、「前田正名揮毫の「掛け軸」及び「川畑市兵衛宛ての前田正名書簡８通と前田一歩園の竣工式案内状」」、「品川弥二郎揮毫の「掛け軸」」である。徳川の幕藩体制が明治の近代日本へ移行する激動の時代に、垂水の本町の豪商・川畑市兵衛は黒糖、櫨?、樟脳、煙草などの栽培振興・共進会等への出品など商業活動を積極的に展開した。\n   川畑賢矩家文書等は、川畑家が垂水における「殖産興業」に大きな役割を果たしつつ、近代日本の歴史に関わる人物たちと交流したことを示す重要な資料であることから、垂水市指定文化財に指定することによって、保護し後世へ伝える必要がある。","","",""],
    [24,462144,"","鹿児島県","垂水市","川畑賢矩家文書等","カワバタマサノリケブンショトウ","","","市指定有形文化財","その他","垂水市文化会館","鹿児島県垂水市田神2750-1","",31.485318,130.704465,"0994-32-7551","","約15","冊","","","2018-03-12","月火水木金（祝を除く）","08:30","17:15","垂水市文化会館開館日に利用可","","","明治維新時の文書等","","川畑賢矩家文書等の内訳は、「高崎正風の作成した「學則」及び揮毫の「掛け軸」」、「前田正名揮毫の「掛け軸」及び「川畑市兵衛宛ての前田正名書簡８通と前田一歩園の竣工式案内状」」、「品川弥二郎揮毫の「掛け軸」」である。徳川の幕藩体制が明治の近代日本へ移行する激動の時代に、垂水の本町の豪商・川畑市兵衛は黒糖、櫨?、樟脳、煙草などの栽培振興・共進会等への出品など商業活動を積極的に展開した。\n   川畑賢矩家文書等は、川畑家が垂水における「殖産興業」に大きな役割を果たしつつ、近代日本の歴史に関わる人物たちと交流したことを示す重要な資料であることから、垂水市指定文化財に指定することによって、保護し後世へ伝える必要がある。","","",""],
    [25,462144,"","鹿児島県","垂水市","垂水史談會報及び垂城史談","タルミズシダンカイホウオヨビスイジョウシダン","","","市指定有形文化財","その他","垂水市文化会館","鹿児島県垂水市田神2750-1","",31.485318,130.704465,"0994-32-7551","","7","冊","","","2021-03-09","月火水木金（祝を除く）","08:30","17:15","垂水市文化会館開館日に利用可","","","垂水市の歴史・文化研究機関誌",""," 『垂水史談會報』（昭和2（1927）年から昭和5（1930）年。計9号。）は、垂水の歴史・文化を研究していた垂水史談会会員によって発行されたガリ版刷りの機関紙である。 『垂水史談會報』第壹号（昭和2（1927）年8月下旬発行）によると、会員は、宮原景豊（歌人）、前田清信（校長）、樺山源八（校長）、前田嘉吉（校長）、川上政治（校長）、杉之尾平一（校長）、伊地知三千丸（警部）、山口榮之（専売官吏）のいわゆる垂水麓の人々、8名で発足している。『垂水史談會報』は、以後１年に約2回発行されていた。\n　『垂城史談』（昭和6（1931）年から昭和9年（1934）年、昭和31（1956）年から昭和37（1962）年。計14号。）は、『垂水史談會報』のあとを受け、昭和6（1931）年から発行され、昭和9（1934）年12月1日の第9号まで発行された。しかし、その後発行を中断し、復刊して第10号が発行されたのは戦後10年以上を経た昭和31（1956）年であった。またこの間の史談会の活動記録も不明である。\n　『垂水史談會報』及び『垂城史談』には、垂水島津家関連の歴史資料等を多く転写しており、垂水市史上・下巻の底本となった貴重な歴史資料でもある。","","",""],
    [26,462144,"","鹿児島県","垂水市","垂水人形","タルミズニンギョウ","","","市指定有形文化財","美術工芸品","垂水市文化会館","鹿児島県垂水市田神2750-1","",31.485318,130.704465,"0994-32-7551","","5","体","","","2019-03-11","月火水木金（祝を除く）","08:30","17:15","垂水市文化会館開館日に利用可","","","江戸時代の土人形を復活させたもの","","昭和30年代ごろ（正確な年代は、不明）作成された。雛人形（男雛）【19.0cm×15.0cm×6.0cm、500.0g】\n雛人形（女雛）【18.0cm×15.0cm×7.0cm、500.0g】\n源義経【46.0cm×27.0cm×17.0cm、3600.0g】\n常盤御前【28.0cm×12.0cm×9.0cm、900.0g】\n大黒【24.0cm×15.0cm×10.0cm、1000.0g】\n三味線を弾く女【15.5cm×8.0cm×4.0cm、250.0g】\n女人像【23.0cm×12.0cm×5.0cm、600.0g】\n文禄・慶長の役（1592～1593、1597～1598）の際、島津義弘公が伴い帰った朝鮮陶工により伝えられたものとされ、こねた粘土を型枠に入れて形を作り、乾燥させたものを素焼きして、それに胡粉（顔料）を塗り、その上に色付けした素朴な人形である。江戸期には垂水麓の武士の内職として制作され、明治～大正の頃には冬期農業の内職として作られていたが、昭和に入り次第に廃れ、戦後には途絶えてしまった。\n   平成元年、中島三郎氏と中島信夫氏により、旧来の技法をもとに復活された。","","",""],
    [27,462144,"","鹿児島県","垂水市","おろごめ","オロゴメ","","","市指定無形文化財","その他","","鹿児島県垂水市柊原地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2012-02-09","","","","","","","垂水市伝わる苙馬追。「おろごめ」と呼ばれている。","","おろごめは旧暦五月五日（現在は新暦月遅れの六月五日）早朝に行われる。数日前から子供達が集まって，海浜に苙[(七尺＝約2.5m四方)の角型で深さ五尺(約1.5m，一方に三尺幅の入口を作る)]を掘る。\n　六年生がオヤガシラ ，五年生以下はコガシラとなり，当日は未明(午前3時頃)に起きて集落ごとに集合する。松明で道を照らし，「荒馬引き出す馬合戦」「子馬引き出す馬合戦」と書かれた幟旗を持ち，ホラ貝を吹きながら山に登り，一番頂上に陣旗を立て苙に下ってくる。\n　苙に着くと，皆六尺フンドシ一枚の姿になり，苙に入る。小学校五年生以下が駒となり，小学校六年生のオヤガシラがそれを捕まえて苙の「おろんくち（入口）」に引き出そうとする。コガシラはオヤガシラを入口以外の砂壁から担ぎ上げようとする。互いに「蹴ったり」「たたいたり」「耳を引っ張ったり」(耳を引っ張れるのはオヤガシラだけ)してやっと どちらかが全員を連れ出すと勝負がつく。\n　父兄の応援の下，2・3回勝負が繰り広げられる。\n由来\n薩摩藩は古くから馬育に力を入れており，藩内各地に牧場を開設するとともに，愛馬思想を広め武士の士気を高めるため，各地で「馬追（うんまえ）」が行われていた。垂水での馬追に関する記述は見当たらないが，天保14年（1843）に出版された「三国名勝図絵」によると，「垂水村，海潟村の地に係る，周廻三里餘，馬數百頭許を放蓄せる」の記述があり，馬の放牧が行われていたことは確認できる。このような環境の中，垂水でも壮大に馬追が行われていたことは想像に難くない。\n　馬追が具体的にどのようなものであったのかは，「喜入町郷土誌」に詳しい。初現がいつかは定かではないが，宝永四年（1707）には記録が見られるとある。\n　馬追の日は，郷民総出をし，総員を五組に編成する。士族は押伍（おうご。しんがりの意）となる。各組に組頭を置き，組頭1名が馬に乗り，組員を指揮し，それぞれの部署につく。総指揮者がころあいを見からって合図をすると，各組は旗をなびかせ法螺貝を吹き鳴らし，牧野の周辺を包囲し，各々手にした小旗や竹木を打ち振りながら大声で鬨の声をあげつつ，他の組と連絡をとりながら，馬の包囲の輪を狭めていく。\n　このとき，16歳の兵子衆が駒取役となり，渋柿染の衣装を纏う。岡の上より駆け下り，苙（地面を数尺掘り下げ，土塁を築き囲まれた凹地）の中の仔馬を取り押さえる。駆け下りた勢いで直ちに仔馬を取り押さえたり，駆け廻る駒を追いながら見事飛び乗ったりと豪壮かつ敏捷な動きを見せ，それを大観衆が手に汗握り応援する。\n　仔馬追が一段落すると，次は後駒取りとなる。後駒取役は東西に走駆する牡馬を捕え，これに乗り，残りの馬と共に苙に追い込んでいく。\n　全ての馬追が終わると，衆馬は放ち，二世馬は牡馬の多寡により適当な数だけは放ち，残りは競争入札によって払い下げられる。\n　このように馬追は士族の軍事訓練でありながら，見守る観衆にとっては娯楽としての側面も有した行事であった。この行事が子ども達に引き継がれたものが「苙馬追（おろうまえ）」で，垂水のほかにで前述した喜入町，指宿市，頴娃町，姶良町，隼人町，国分市，金峰町，吹上町，阿久根市，野田町，高尾野町，出水市で行われていたが，急速に消失してきており，現在も存続している垂水のものは，非常に貴重なものと言える。垂水市に伝わる苙馬追は，「おろごめ」と呼ばれている。","","",""],
    [28,462144,"","鹿児島県","垂水市","かべうっくじい","カベウックジィ","","","市指定無形文化財","その他","","鹿児島県垂水市柊原地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2012-02-09","","","","","","","夕方，子ども達が新婚夫婦の家を訪れ，あらかじめ庭に用意された，竹や木をかずらで結んで作られた壁を，木の棒（ハラメンボ）で叩き壊す。","","　「かべうっくじい」は柊原地区に伝わる行事で，1月14日に行われる。\n　夕方，子ども達が新婚夫婦の家を訪れ，あらかじめ庭に用意された，竹や木をかずらで結んで作られた壁を，木の棒（ハラメンボ）で叩き壊す。\n　始めに，子ども達が新婚夫婦に「ハンズ（陶製の水桶）をくるいか，嫁じょをくるいか，かべをくるいか」と尋ねる。家人は「ハンズも嫁もくえがならんで，そけあい壁をうっくじえ」と答える。するとに子ども達は「はらめ！はらめ！」と叫びながら壁を叩き壊す。\n　壁を壊すのには，嫁と姑の間の壁を無くし，家庭円満を願うという意味がこめられており，「はらめ！はらめ！」の言葉には，子ども孕んで家族の繁栄を願うとともに，農作物を良くはらめ，つまり豊作を祈願する意味が込められている，と言われている。\n　壊し終えると，子ども達は家人から褒美のお菓子をもらえる。\n　平成23年1月14日には，2軒の家でかべうっくじいが行われ，市報にも取り上げられた。\n由来\n　「かべうっくじい」は柊原地区に伝わる行事であるが，県内には類似した行事として「ハラメウチ」がある。\n　正月十四日の夜，もしくは十五に行われる。ハラメ祝イ，嫁ジョ祝イ，嫁御出セ，尻打チなどと呼ばれる。殆どの場合，子ども達がハラメ棒という棒をもって，花嫁のきた家を訪れ，ハラメ棒でその家の庭先や花嫁の尻を叩き「ハーラメ，ハラメ」と唱える。花嫁をもらった家では子供達にご馳走したり餅を与えたりする。薩摩半島，大隅半島に分布が見られ，それぞれ内容が異なる。\n　頴娃町のハラメウチは柊原に伝わるものと類似している。子供達が花嫁をもらった家に集まり，「外を祝うか内を祝うか」と叫ぶ。内と言えば家にあがりご馳走になり，外と言えば家の周りの壁や垣などをハラメ棒で叩き壊す。昭和の初め頃まで行われていた。\n　民俗学者小野重朗氏は分布圏が広く，内容に差異が見られることから，古い歴史を持つもので，長い歴史の間に各地で変容していったと推察している。","","",""],
    [29,462144,"","鹿児島県","垂水市","中俣(下)川踊り","ナカマタシモカワオドリ","","","市指定無形文化財","芸能","","鹿児島県垂水市中俣地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2013-02-12","","","","","","","伝統芸能","","中俣川踊り」は上・下の二つがある。下の方がテンポが速く，若い人向けである。演目も上と下で少し違うが，「奴踊り」「女踊り」「女踊り口説」「小男」「小男口説」「大男」｢大男口説」「水がき」「ドンドン節」と多彩で「鹿児島ハンヤ節」も取りこまれている。又鳴り物は，「鐘」「太鼓」「鼓」「三味線」である。　「中俣川踊り」は，今（平成24年）から約170年前，伊集院の坪内作馬という人物が伝えたとされる踊りである。川おどり，川内おどり，水神おどりともいわれ，旧暦8月16日に水神を祭り，雨乞い豊作を祈って奉納されてきた。上川踊りと下川踊りの二つがある。\n　上・下ともに戦後途絶えていたが，昭和45年に地区民の協力を得て保存会をつくり，復活させた。いろいろなイベントで奉納発表してきたが，踊り手不足などで，またまた昭和63年に途切れてしまった。\n　平成9年を迎え，地区公民館経営研究会が協和公民館で開催されるのを期に復活の機運が盛り上がり，先ず上の保存会が，続いて下の方の保存会が復活し，各種イベントで上下とも発表し，観客から大きな拍手が送られた。\n　復活以降，途切れないよう地区公民館や市とも力をあわせ，発表の機会をできるだけ持つようにしてきたが，高齢化や後継者不足等で，上の方は途絶えてしまった。川踊りとして当地に残っているのは下だけであり，希少な伝統芸能である。","","",""],
    [30,462144,"","鹿児島県","垂水市","新城鎌ん手踊り","シンジョウカマンテオドリ","","","市指定無形文化財","芸能","","鹿児島県垂水市新城地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2013-02-12","","","","","","","伝統芸能","","　鎌ん手踊りには非常時に備えるという側面も持つ。棒踊りと同型の踊りであるが，棒踊りより一段と勇壮活発で武術鍛錬の様相が強い。\n　鉢巻，３色のタスキ，手甲・却絆を身につけた揃いの衣裳で踊る。カマ，ナタ（ナギナタ）４人1組で前と後ろに位置し，独特のあげうたに始まる唄声に合わせて，威勢のいい「ハレワソイソイ」という掛け声とともに，カマとナタとをつばぜり合わせながら舞う踊りである。つばぜり合いの際，樫の棒が「カチン」と響く様が勇壮である。　\n　また，踊子のカマとナギナタは，安永年間に刀鍛冶によって作られたと云われているものが伝わっている。安永8（1779）年桜島が大爆発したが，その被害は甚大で，農作物は降灰のため収穫が皆無となり，農民全員が生活苦に悩まされた。当時の新城領主末川久備公は，貯蔵米を放出して領民に米を施した他，その年の年貢を取止，更に農民の士気を鼓舞するための民芸大会を開催した。民芸会は，新城地区内の各集落ごとに民芸団を組織して行われたが，その時大浜集落が踊ったのが鎌ん手踊りである。以来村の行事として祝いごと，祭りごとの折，氏神に奉納されてきた。 \n　しかし，後継者不足のため昭和４０年第頃から次第に踊られなくなり，一時途絶えていた。このような状況を憂慮した新城の郷土史研究会が，平成７年に大浜集落から譲り受け，新城鎌ん手踊りとして伝承することになった。発足までには，郷土史研究会が中心になって，小学校，ＰＴＡ，地域民の説得にあたり，新城地区文化財少年団を中心として，伝承されることになった。新城小学校運動会及び新城地区運動会などで主に活躍の成果を発表している。","","",""],
    [31,462144,"","鹿児島県","垂水市","八丁杵","ハッチョウギネ","","","市指定無形文化財","芸能","","鹿児島県垂水市田神地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2014-02-10","","","","","","","伝統芸能","","八丁杵は、踊り手、歌い手、太鼓、三味線の組み合わせで、ゆかたに鉢巻き、赤・青・黄色のたすきがけの衣裳で踊る。所作はきねを手足にたとえ、田植えから稲刈り、モチつきまでの一連の作業を、飛んだりはねたりして表現している。\n　現在の八丁杵は、青年男子が団体で威勢よく元気に踊る「肥後の熊本」という前踊りと、壮年男子が2名1組で踊る本踊りの「八丁杵」のワンセットで踊られている。八丁杵は、中央地区田神の下原田集落に伝わる郷土芸能である。\n　元禄5（1692）年、垂水島津家七代久治はよめじょ川疏水工事に着手した。工事は長きに渡り、約50年後の寛保元（1741）年，九代貴儔(たかとも)のときに完成した。\n　よめじょ川は新光寺（水分神社の所）で本城川の水を取り入れ、西の山麓を流れ井川・上之宮・新御堂を経て、蛸迫・後馬場まで続いている。この疏水工事とともに新田開発も行われ、高城・本城・新御堂・原田等約二百町歩の水田が開かれ、現在でも垂水で最大の穀倉地帯となっている。\n　新光寺の取水口には水分（みくまり）神社、井川の龍門軒と原田の三間戸前には水神様が祀られた。いずれも石殿造りであった。\n　原田では毎年旧暦の二月一日と八月十六日の2回、新田開発水神祭が行われていた。そのとき奉納されていたのが川踊りや八丁杵である。春は豊作を祈願し、秋は豊穣に感謝して、原田集落で長年に渡って奉納されてきた。\n　昭和34年の垂水小学校の創立記念に踊られたのを最後に、後継者がいないまま途絶えていたが、昭和51年復活し、現在に至る。","","",""],
    [32,462144,"","鹿児島県","垂水市","大野原棒踊り","オオノバルボウオドリ","","","市指定無形文化財","芸能","","鹿児島県垂水市大野原地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2014-02-10","","","","","","","伝統芸能","","大野原棒踊りは、6尺棒と3尺棒を用いて、二人一組になって踊る。\n　棒と棒で打ち合ったり、棒で地面をたたいて踊る（地神を呼び覚ますためとも言われている）など、大変勇壮な踊りである。\n　他地区に伝わる棒踊りと比して、スピードが速く激しいのが特徴である。棒踊りは、関ヶ原の合戦に敗れた島津義弘が、意気消沈した郷土の士気を鼓舞するため、武芸の技を踊りに加えたものと伝えられている。\n　江戸時代になり、元禄を過ぎると、世の中は平和になり、棒踊りも武士の踊りから農民の田植踊りへと変化してく。これには、いつも戦いの犠牲となり、武器を持つことが許されなかった百姓町民が自衛のために防御・攻撃術を踊り化したものという側面もあると考えられる。\n  大正の初め頃、川原八十一という人が薩摩半島から垂水市の水之上地区井川集落・新光寺集落に棒踊りを伝えた。大野地区は、大正3年の桜島大噴火による被害を受けた人々が入植して開いた集落であるが、水之上地区からも多数の移住があった。大野集落の棒踊りは、井川集落から移住された中村源三氏が士気を鼓舞しようと青年団に伝えたものである。\n  戦争により一時中断されていたが、昭和５１年夏に復活。同年９月２８日の運動会で披露された。","","",""],
    [33,462144,"","鹿児島県","垂水市","境棒踊り","サカイボウオドリ","","","市指定無形文化財","芸能","","鹿児島県垂水市牛根境地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2015-02-10","","","","","","","伝統芸能","","　境棒踊りは3人1組で編成される。3人がそれぞれ3尺棒、6尺棒と鎌を使用し、踊る。3尺棒と6尺棒を打ち合わせ、その間で鎌を振るという形態である。場所を入れ替わって切り合ったり守ったり、大きく動く勇壮な踊りである。衣装は青い法被に白い鉢巻き、背中に色鮮やかなたすきを結ぶ。　棒踊りは、関ヶ原の合戦に敗れた島津義弘が、意気消沈した郷土の士気を鼓舞するため、武芸の技を踊りに加えたものと伝えられている。\n　江戸時代になり、元禄を過ぎると、世の中は平和になり、棒踊りも武士の踊りから農民の田植踊りへと変化してく。これには、いつも戦いの犠牲となり、武器を持つことが許されなかった百姓町民が自衛のために防御・攻撃術を踊り化したものという側面もあると考えられる。\n  境の棒踊りの由来については、正確なことについては不明であるが、土地の古老によると「百年以上前に百引から伝わった」とされる。","","",""],
    [34,462144,"","鹿児島県","垂水市","二川棒踊り","フタガワボウオドリ","","","市指定無形文化財","芸能","","鹿児島県垂水市牛根二川地区","",null,null,"0994-32-7551","","","","","","2016-02-12","","","","","","","伝統芸能","","　二川棒踊りは棒の代わりに鎌を使用することから、鎌踊りとも呼ばれる。場所を入れ替わって切り合ったり守ったり、大きく動く勇壮な踊りである。衣装は青い法被に白い鉢巻き、背中に色鮮やかなたすきを結ぶ。　棒踊りは、関ヶ原の合戦に敗れた島津義弘が、意気消沈した郷土の士気を鼓舞するため、武芸の技を踊りに加えたものと伝えられている。\n　江戸時代になり、元禄を過ぎると、世の中は平和になり、棒踊りも武士の踊りから農民の田植踊りへと変化してく。これには、いつも戦いの犠牲となり、武器を持つことが許されなかった百姓町民が自衛のために防御・攻撃術を踊り化したものという側面もあると考えられる。\n  二川の棒踊りの由来については、正確なことについては不明であるが、土地の古老によると「百年以上前に百引から伝わった」とされる。","","",""]
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