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    [1,402168,1001100001,"福岡県小郡市","小郡官衙遺跡群小郡官衙遺跡","オゴオリカンガイセキグンオゴオリカンガイセキ","小郡官衙遺跡","Ogori Kanga Ruins","史跡","","小郡官衙遺跡公園",402168,"","福岡県小郡市小郡","福岡県","小郡市","小郡","","","33.401264","130.556298","","","","","","","","","","","","小郡市","1971/12/13","月火水木金土日","","","","","","小郡官衙遺跡（おごおりかんがいせき）は、7世紀末につくられた筑後国御原郡の役所の跡です。発見されたのは1967年のことで、溝の中から300本以上の鉄製の鏃が出土しました。","","この遺跡は建物の主軸の向きから大きく三つの時期に分けられます。中心となる7世紀末から8世紀前半の第2期には、溝に囲まれた一辺240ｍの区画の中に建物がありました。役所の政務を行う「庁舎」、役人の宿舎である「官舎」、税として取り立てた米を蓄える「倉庫」の３種類の機能を持つ建物が、計画的に配置されていました。続く8世紀中頃からの第3期になると、建物の配置が大きく変化し、主軸が真北にそろえられます。築地塀と2本の溝で囲まれた南北180ｍ、東西120ｍの広い区画が見つかっています。小郡官衙遺跡は、古代の役所の典型的な構造を知るうえで高い価値があるとして、国指定史跡になっています。小郡市では今後も市民のみなさんと一緒に整備・活用を進めていきたいと考えています。","","","文化財指定日関係（1989-01-24追加指定、2000-09-06名称変更、2002-09-20追加指定、2006-07-28追加指定、2008-03-28追加指定、2011-09-21追加指定、2013-03-27追加指定、2015-03-10追加指定、2016-03-01追加指定、2017-02-09追加指定、2019-10-16追加指定、2023-3-20追加指定）"],
    [2,402168,1001100002,"福岡県小郡市","小郡官衙遺跡群上岩田遺跡","オゴオリカンガイセキグンカミイワタイセキ","上岩田遺跡","Kamiiwata Ruins","史跡","","上岩田ふれあい磐戸公園",402168,"","福岡県小郡市上岩田","福岡県","小郡市","上岩田","","","33.400423","130.580604","","","","","","","","","","","","小郡市","2000/9/6","月火水木金土日","","","","","","上岩田遺跡(かみいわたいせき)は、7世紀後半から9世紀前半の遺跡です。工業団地造成の際に発掘調査が行われ、その歴史的価値の高さから、2000年に国指定史跡となりました。","","東西約18ｍ、南北約15ｍの大きさに土を固めた基壇があり、その上に建っていた瓦葺（かわらぶ)きの建物は、仏堂と考えられる九州では最古級のものです。さらに門や柵に囲まれた同じ敷地内には、大型の掘立柱建物群(ほったてばしらたてものぐん)が並んでいました。調査から、仏堂とこの建物群が一体となって役所を構成していたとみられ、信仰を利用して中央政権が地方の統治を進めたことを表す非常に貴重な史跡だと考えられます。なお、頑丈な基壇にたくさんの地割(ぢわ)れがあることから、多くの建物は地震のために倒壊したと推測されます。この地震は『日本書紀』にある678年の筑紫国地震(ちくしのくにじしん)とする説が有力です。","","",""],
    [3,402168,1001100003,"福岡県小郡市","小郡若山遺跡土坑出土品　一括","オゴオリワカヤマイセキ","多鈕細文鏡","Bronze mirror with two loops for strings","重要文化財","美術工芸品","小郡市埋蔵文化財調査センター",402168,"","福岡県小郡市三沢5147-3","福岡県","小郡市","三沢","5147ｰ3","小郡市埋蔵文化財調査センター","33.434489","130.557669","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","国（文化庁）","1998/10/16","月火水木金土日","9:00","16:30","休館日は、毎月第3日曜日と第3月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","小郡若山遺跡は、小郡・大板井遺跡群に含まれ、弥生時代中期から後期の小郡地域の中心となる遺跡です。","","1993年の発掘調査で、住居跡などとともに、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と呼ばれる青銅鏡2面が甕型土器を埋めた小型の穴から発見されました。２面の鏡は、鏡面を合わせて水平に置き、その上から蓋をするように土器を被せていました。多鈕細文鏡はこれまでに全国で10数面見つかっていますが、一度に2面見つかったのはここだけです。鏡は、大きさがそれぞれ15.3pと16.0pで、背面には本来紐を通すための鈕が2つあります。鈕の周囲には円や格子、鋸歯文(きょしもん)などの幾何学文様が非常に細かく描かれています。多鈕細文鏡は、中国で誕生し、その後朝鮮半島で製作技法や文様が発達したことから、当時からこれらの地域と非常に密な交流があったことが分かります。","","","小郡若山遺跡出土品一括とは、多鈕細文鏡2面、甕型弥生土器1点、弥生土器片1点を指す。"],
    [4,402168,1001100004,"福岡県小郡市","三沢遺跡","ミツサワイセキ","三沢遺跡","Mitsusawa Ruins","県指定史跡","","みつさわ遺跡公園",402168,"","福岡県小郡市三沢","福岡県","小郡市","三沢","","","33.436537","130.561473","","","","","","","","","","","","福岡県・小郡市","1978/3/25","月火水木金土日","","","","","","三沢遺跡は、弥生時代中期初頭を中心とする集落です。九州縦貫自動車道を造る際の確認調査によって発見されました。市民による保存運動が起こり、1978年に約11haが福岡県指定史跡として保存されました。","","遺跡が存在する丘陵地帯は三国丘陵と呼ばれ、標高30ｍから40ｍの小さく低い丘が続いており、弥生時代の前期から中期にかけて、これらの丘に連なるようにムラが作られました。三沢遺跡はこの辺りで中心となるムラの一つで、丘陵の四つの尾根上で竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)や貯蔵穴(ちょぞうけつ)が見つかりました。この遺跡では、数軒の住居と貯蔵穴がセットとなって生活が営まれ、その「集団」がさらに集まって「共同体」が営まれている様子が確認されており、弥生時代の社会の解明に欠かせない遺跡と言えます。","","","文化財指定日関係（2017-03-17追加指定）"],
    [5,402168,1001100005,"福岡県小郡市","たるき先瓦","タルキサキカワラ","たるき先瓦","Tarukisaki tiles","県指定有形文化財","美術工芸品","小郡市埋蔵文化財調査センター",402168,"","福岡県小郡市三沢5147-3","福岡県","小郡市","三沢","5147ｰ3","小郡市埋蔵文化財調査センター","33.434489","130.557669","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","小郡市","1960/4/12","月火水木金土日","9:00","16:30","休館日は、毎月第3日曜日と第3月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","福岡県指定有形文化財「たるき先瓦(たるきさきがわら)」は、古代寺院井上廃寺(いのうえはいじ)の寺域内で採集された瓦です。1959年、県立三井高校に保管されていた円形の瓦が、九州大学考古学研究室に持ち込まれて一躍注目を浴びることになりました。","","たるき先瓦とは屋根の軒先に向かう垂木(たるき)の先端部に取り付ける瓦で、当時九州では初めて発見された資料でした。この瓦は表面の蓮華文様(れんげもんよう)が奈良県山田寺跡で出土したものと同じ系譜であることから、「山田寺系」と呼ばれています。円形と方形の2種類があり、円形のものはさらに大小二つに分けられます。いずれも蓮華文様は重弁(じゅうべん)と呼ばれる二重の花弁です。これらの瓦は、上岩田遺跡の仏堂周辺で出土したものと同じ種類で、678年の筑紫国地震で仏堂が倒壊した後に、場所を移して再利用したものと考えられています。","","","文化財指定日関係（1960-08-16指定、1960-08-16追加指定）"],
    [6,402168,1001100006,"福岡県小郡市","木造如意輪観音立像","モクゾウニョイリンカンノンリュウゾウ","如意輪観音立像","wooden Nyoirin Kannon statue","県指定有形文化財","美術工芸品","如意輪寺",402168,"","福岡県小郡市横隈1728","福岡県","小郡市","横隈","1728","如意輪寺","33.427598","130.567494","","","","","","","","","","","","（宗）如意輪寺","1977/4/9","","","","12年に一度の巳年の内、指定された期間","","","「かえる寺」として有名な如意輪寺(にょいりんじ)は、孝謙(こうけん)天皇の勅願(ちょくがん)により、奈良時代前期の西暦729年に僧行基(ぎょうき)が建立したと伝えられています。","","本尊の福岡県指定有形文化財（彫刻）「木造如意輪観音立像(りゅうぞう)」は、ヒノキの一木造(いちぼくづくり）で、顔は1つ腕は6本の一面六臂(いちめんろっぴ)という形式です。6本の腕のうち2本で、名前の由来でもある如意宝珠(にょいほうじゅ)と法輪(ほうりん)を持っています。優雅で端正な容姿から、平安時代後期の作と考えられます。如意輪観音像は坐像(ざぞう)と半跏像(はんかぞう)がほとんどで、立像は全国的にも非常に貴重です。子安(こやす)観音としても広い地域から信仰されてきたこの仏像は秘仏で、12年に一度、巳年に拝観することができます。","","",""],
    [7,402168,1001100007,"福岡県小郡市","福童の将軍藤","フクドウノショウグンフジ","将軍藤","the large wisteria(Shogun fuji)","県指定天然記念物","","大中臣神社",402168,"","福岡県小郡市福童","福岡県","小郡市","福童","","","33.378935","130.546361","","","","","","","","","","","","（宗）大中臣神社・福童将軍藤公園観光協会","1970/5/2","月火水木金土日","","","","","","鎌倉時代前期の創建と伝えられる大中臣(おおなかとみ)神社の参道東側にあります。南北朝時代の1359年に起こった大保原合戦の際に、懐良親王がお手植えされたという逸話から「将軍藤」と名付けられています。","","南北朝時代の1359年、ここ小郡で中世九州最大の大保原(おおほばる)合戦がおこりました。この戦いで深手を負った南朝(なんちょう)方の懐良親王(かねよししんのう)は、大中臣神社に傷の回復を祈願し、全快した後に感謝を込めて奉納したのがこの藤といわれています。幹は1本で、枝の広がりは500uにも及びます。神社の境内では毎年春に盛大に「藤まつり」が開かれています。","","",""],
    [8,402168,1001100008,"福岡県小郡市","大中臣神社楼門","オオナカトミジンジャロウモン","大中臣神社楼門","two-story gate","市指定有形文化財","建造物","大中臣神社",402168,"","福岡県小郡市福童","福岡県","小郡市","福童","","","33.37917","130.546215","","","","","","","","","","","","大中臣神社","1991/9/19","月火水木金土日","","","","","","江戸時代後期の1835年に建てられた楼門です。規模の雄大さ、構造や彫物の造りが丁寧であること、この地域の大工を頭領として造られ、近世の木造建築技術をよく伝えていることから、小郡市の有形文化財に指定されました。","","現在の楼門は江戸時代後期の1835年に建てられ、平成に入った後に修理が行われました。江戸時代前期の1670年に書かれた書物には、当時は大きさ9尺2間、約6.3メートルの茅葺(かやぶ)きの楼門があったと書かれています。中通りの格天井（ごうてんじょう）には、格子目の内部にそれぞれ異なる花鳥が描かれ、脇間は正面と中通り側が連子窓となっており、中には石造の狛犬一対と矢大中（随身）が置かれています。","","",""],
    [9,402168,1001100009,"福岡県小郡市","花立山穴観音古墳","ハナタテヤマアナカンノンコフン","花立山穴観音古墳","Hanatateyama Anakan-non Ancient tomb","県指定史跡","","",402168,"","福岡県小郡市干潟","福岡県","小郡市","干潟","","","33.419889","130.593791","","","","","","","","","","","","個人（管理団体：小郡市）","2007/2/5","月火水木金土日","","","","","","福岡県指定史跡「花立山穴観音(はなたてやまあなかんのん)古墳」は、古くから石室(せきしつ)の入口が空いており、地元では「穴観音さん」と呼ばれて親しまれてきました。","","この古墳の石室の壁面には、線を刻みこんだ「線刻(せんこく)」という装飾が見られ、装飾古墳としても有名です。線刻の内容は、格子文様や三角文様が中心で、魔除けなどの意味が考えられます。2004年から2006年には発掘調査を行い、全長33ｍの前方後円墳であることが確認されました。周囲を巡る周溝を合わせると、全長45ｍと非常に大型です。古墳が造られたのは6世紀の終わり頃で、地域で最後に造られた前方後円墳として、当時の社会の復元に非常に大きな意味を持つ古墳です。","","","獣対策で、散策道の一部に網が設置されていることがある。"],
    [10,402168,1001100010,"福岡県小郡市","松崎宿南構口・北構口","マツザキシュクミナミカマエグチ・キタカマエグチ","松崎宿南構口・北構口","Stone markers in Matsuzaki-shuku","市指定史跡","","",402168,"","福岡県小郡市松崎","福岡県","小郡市","松崎","","","33.397617\n33.392163","130.586735\n130.585339","","","","","","","","","","","","個人","1976/8/1","月火水木金土日","","","","","","小郡市指定史跡「松崎宿南構口(みなみかまえぐち)･北構口(きたかまえぐち)」は、薩摩街道(さつまかいどう)松崎宿の南北の入り口に設けられた石垣と土塁のことです。南北合わせて4つの石垣が全て残されているのは、全国的にも非常に貴重な例と考えられます。","","北構口は宿場町の中心から東に進んだ場所にあります。石垣は一辺4.3ｍほどの大きさで、江戸時代当時には周辺に番所小屋(ばんしょごや)と木戸(きど)と言われる門を備えていました。宿場の南端にある南構口の石垣は一辺4.2ｍほどの大きさで、東側は高さ約2ｍと、当時の姿をほぼそのまま残しています。西側の石垣からさらに西に向かって土塁を確認することもできます。南北構口は松崎宿の中心となる史跡で、今後の保存と活用が期待されます。","","",""],
    [11,402168,1001100011,"福岡県小郡市","上岩田五重石塔","カミイワタゴジュウノセキトウ","上岩田五重石塔","Five-storied stone pagoda","市指定有形文化財","美術工芸品","老松神社",402168,"","福岡県小郡市上岩田","福岡県","小郡市","上岩田","","","33.399882","130.573856","","","","","","","","","","","","老松神社","1986/3/18","月火水木金土日","","","","","","小郡市指定考古資料「上岩田五重石塔(ごじゅうのせきとう)」は、老松(おいまつ)神社の境内にある石造の五重塔で、高さは1層を失った現状で193pを測ります。","","台座にある銘文の内容から、鎌倉時代末期の1330年に、当時この地域が含まれていた「岩田庄(いわたのしょう)」の平安と、そこに住む人々の幸福を願って作られたことが分かります。塔身(とうしん)には不動明王を表す梵字(ぼんじ)が刻まれています。","","",""],
    [12,402168,1001100012,"福岡県小郡市","上岩田注連ねり","カミイワタシメネリ","人形じめ","Straw rope","市指定無形文化財","工芸技術","",402168,"","福岡県小郡市上岩田","福岡県","小郡市","上岩田","","","33.399896","130.57406","","","","","","","","","","","","上岩田注連ねり保存会","2005/12/20","月火水木金土日","","","","","","市指定無形文化財「上岩田注連(しめ)ねり」は別名「人形(にんぎょう)じめ」と呼ばれるように、人の形をした注連縄(しめなわ)を作る秋祭りの行事です。","","現在は毎年10月の第3日曜日に行われています。注連縄作りにはその年に収穫したばかりの新しい稲藁(いなわら)を使用し、「大じめ」1体と「小じめ」3体が作られます。「大じめ」は神社の拝殿(はいでん)に、「小じめ」は境内にある3つの巨石にそれぞれ飾られます。","","",""],
    [13,402168,1001100013,"福岡県小郡市","西島如来石像","ニシジマニョライセキゾウ","西島如来石像","Stone statue of Buddha in Nishijima","市指定有形文化財","美術工芸品","",402168,"","福岡県小郡市三沢","福岡県","小郡市","三沢","","","33.416614","130.552111","","","","","","","","","","","","個人","1986/3/18","月火水木金土日","","","","","","小郡市指定彫刻「西島如来石像(にしじまにょらいせきぞう)」は、地元では「大日(だいにっ)さん」と呼ばれて親しまれてきました。","","高さ約1.3ｍ、幅約0.9ｍの板状の花崗岩(かこうがん)に阿弥陀如来(あみだにょらい)の姿が浮き彫りされており、銘文の内容から鎌倉時代末期の1322年に造られたことが分かります。阿弥陀如来の右肩の上には勢至菩薩(せいしぼさつ)を表す梵字が彫られています。一方、左肩の上は欠けていますが、おそらく観音菩薩(かんのんぼさつ)を表す梵字が彫られていたと考えられます。つまり、全体で阿弥陀三尊(あみださんぞん)を表しているようです。この石像は明治はじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、二つに割られて地中に埋められていましたが、信仰の厚い人々によって掘り出されて、再び祀られるようになったと伝わっています。","","",""],
    [14,402168,1001100014,"福岡県小郡市","早馬祭","ハヤウマサイ","早馬祭","Hayama festival","市指定民俗文化財","芸能","",402168,"","福岡県小郡市横隈","福岡県","小郡市","横隈","","","","","","","","","","","","","","","","横隈区早馬祭保存会","1998/8/1","","","","毎年、11月の第3日曜日に実施されている。","","","市指定民俗文化財「早馬祭(はやうまさい)」は、五穀豊穣(ごこくほうじょう)・家内安全を願う秋祭りの行事です。","","まず祭の前にその年に取れた藁(わら)を用いて、座元(ざもと)の家で早馬(はやうま)と呼ばれる馬2頭を作ります。祭当日は、白装束姿の氏子が座元に集まり、神事(しんじ)の後、全員で宝満川で禊(みそ)ぎをします。その後、早馬を隼鷹(はやたか)神社に奉納し、二手に分かれて早馬を担ぎ、各家を訪問します。各家を回り終えると早馬は解かれて、参加者に藁・稲穂・大豆・笹などが配られ、その一部は屋根の上に置かれます。","","",""],
    [15,402168,1001100015,"福岡県小郡市","隼鷹神社境内クスノキ群","ハヤタカジンジャケイダイクスノキグン","隼鷹神社境内クスノキ群","Big camphor trees in Hayataka shurine","市指定天然記念物","","隼鷹神社",402168,"","福岡県小郡市横隈","福岡県","小郡市","横隈","","","33.431132","130.569994","","","","","","","","","","","","（宗）隼鷹神社","2003/11/25","月火水木金土日","","","","","","市指定天然記念物である「隼鷹神社境内クスノキ群」は、いずれも樹齢300年以上と推定される大クスで、最も大きいもので樹高33ｍを測ります。","","言い伝えでは、鷹の姿をした神が松の木に飛来したことから鷹を神として祀るようになり、松の木が枯れた後にこのクスノキが生えたと伝わっています。同様に、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后がこの地に来た際、松の木にとまった鷹が神のお告げをするという伝承もあります。","","",""],
    [16,402168,1001100016,"福岡県小郡市","旧松崎旅籠油屋（主屋一棟、座敷一棟）","キュウマツザキハタゴアブラヤ　オモヤヒトムネ　ザシキヒトムネ","旧松崎旅籠油屋","Former Aburaya inn in Matsuzaki","市指定有形文化財","建造物","",402168,"","福岡県小郡市松崎","福岡県","小郡市","松崎","","","33.397091","130.585547","","","(0942)80-1920","","","","","","","","","小郡市","2001/12/20","火水木金土","9:00","16:30","休館日は、祝日・日曜日・月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","薩摩街道は、長崎街道山家宿(やまえしゅく)から別れて鹿児島に向かいます。街道を南下し、筑前国(ちくぜんのくに)から筑後国(ちくごのくに)に入った最初の宿場町が松崎宿です。小郡市指定有形文化財（建造物）旅籠(はたご)油屋は、正式名称「旧松崎旅籠油屋　主屋(おもや)一棟　座敷(ざしき)一棟」といい、現存しているのは幕末に建てられたと考えられる大型の旅籠建築です。","","棟(むね)を分けた「主屋」と「座敷」から成り、主屋の2階には一般の旅人を、玄関を持ち3間続きの座敷には武士などの身分の高い客を泊めました。宿場内では本陣・脇本陣に次ぐ位置付けだったと考えられます。当時使用されていたお膳や看板なども残されており、江戸時代の旅籠の様子を偲ぶことができます。1991年には台風の被害を受け、取り壊しも検討されましたが、地元からの声の高まりを受けて保存されることになりました。近年は市民ボランティアも参加した土壁(つちかべ)の塗り替えや、主屋・座敷の解体復原なども行われ、地元住民を中心にその活用が図られています。","","",""],
    [17,402168,1001100017,"福岡県小郡市","天忍穂耳神社境内大クス","アメノオシホミミジンジャケイダイオオクス","天忍穂耳神社境内大クス","Big camphor tree in Amenooshihomimi shrine","市指定天然記念物","","天忍穂耳神社",402168,"","福岡県小郡市山隈150","福岡県","小郡市","山隈","150","","33.404823","130.595714","","","","","","","","","","","","（宗）天忍穂耳神社","2003/11/25","月火水木金土日","","","","","","天忍穂耳(あめのおしほみみ)神社の境内にある大クスは小郡市指定天然記念物で、その高さは約30ｍ、幹廻(みきまわ)りは8.7ｍを誇る市内最大級の樹木です。","","小郡市の「市の木」クスノキは、この木がモデルとなりました。樹齢は300年以上とみられます。1749年に記された「寛延記」という久留米藩の報告書の中で、今隈村には神木のクスノキが1本あるという内容が記載され、これがこのクスだとも考えられます。また、地元には江戸時代前期に今隈を開拓した田篭彦右衛門(たごもりひこえもん)がクスを植え、それを中心に村が形成されたという伝承が残されています。クスの木は、毎年夏にはライトアップされるなど、地域のシンボルとして長い間大切に守り続けられてきました。","","","平成30年8月13日に落雷被害に遭い、治療後現在経過観察中。"],
    [18,402168,1001100018,"福岡県小郡市","田中家所蔵 水車巡路道ショウ覧図一冊 付 台帳六冊(ショウは糸偏に羊））","タナカケショゾウスイシャジュンロドウショウランズイッサツ　ツケタリダイチョウロクサツ","水車巡路道ショウ覧図","A route map of water mills and a ledger in the possession of the Tanaka family","市指定有形文化財","美術工芸品","",402168,"","福岡県小郡市三沢5147-3","福岡県","小郡市","三沢","5147ｰ3","小郡市埋蔵文化財調査センター","33.434489","130.557669","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","個人（管理団体：小郡市）","2008/7/16","月火水木金土日","9:00","16:30","休館日は、毎月第3日曜日と第3月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","小郡市指定有形文化財「田中家所蔵　水車巡路道ショウ覧図」は、1887年に小郡在住の平田市郎氏が作成した絵図です。","","平田氏は水車を使用した製粉工場へ篩絹(ふるいきぬ)を販売する仕事をしており、絵図には北部九州一円の水車の位置とともに、周辺の地形や交通網、さらには主要な寺社などが淡い色彩で描かれています。また、これとともに保管されていた6冊の台帳からは、水車を利用した製粉業の盛衰を知ることができます。篩絹とは、麦を搗(つ)いて小麦粉を作る際に、不要な麦の皮の部分を取り除くために使用する網のことです。販売は店頭と行商の両方で行われていましたが、売り上げは行商の方が圧倒的に多かったことが記録されています。平田氏の商店は、大正時代になると九州全県へ販路を拡大し、その後全国へと進出しました。","","",""],
    [19,402168,1001100019,"福岡県小郡市","松岡家住宅　母屋一棟　倉庫一棟　玄関門一棟　門柱一基　塀一基","マツオカケジュウタク　オモヤヒトムネ　ソウコヒトムネ　ゲンカンモンヒトムネ　モンチュウイッキ　ヘイイッキ","松岡家住宅","Matsuoka Residence","国登録有形文化財","建造物","創作・懐石料理店「とびうめ」",402168,"","福岡県小郡市干潟645-2","福岡県","小郡市","干潟","645-2","とびうめ","33.423263","130.583315","","","","","","","","","","","","個人","2015/8/4","","","","個人の方がお店をされているため、見学の場合は要相談。","","","松岡家住宅は、大正12年に建てられた建物で、ヒノキやカシなどの木材がふんだんに使用されています。小郡市の歴史と文化に関する貴重な歴史資料であることから、平成24年7月23日に小郡市登録有形文化財第1号となりました。その後、さらに調査を進める中でより貴重な建築物であることが判明し、現在、国の有形文化財に登録されました。","","母屋は、一部2階建ての切妻瓦葺きで、面積は473平方メートルです。大正10年に建築に着手し、2年後に完成しました。ヒノキやカシなどをぜいたくに使用し、特に上がりかまちには、長さ約9メートルのケヤキの一枚板を用いています。門は薬医門(やくいもん)という型式で、使用されている鬼瓦には「嘉永三年」という幕末の年号が入っています。昭和20年の大刀洗空襲では爆撃の被害を受け、その傷跡は現在も残されています。","","",""],
    [20,402168,1001100020,"福岡県小郡市","寺福童遺跡出土銅戈及び銅戈埋納遺構切取資料9口及び1点","テラフクドウイセキシュツドドウカオヨビドウカマイノウイコウキリトリシリョウキュウクチオヨビイッテン","寺福童遺跡出土銅戈","","県指定有形文化財","美術工芸品","",402168,"","福岡県小郡市三沢5147-3","福岡県","小郡市","三沢","5147ｰ3","小郡市埋蔵文化財調査センター","33.434489","130.557669","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","小郡市","2016/3/25","月火水木金土日","9:00","16:30","休館日は、毎月第3日曜日と第3月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","寺福童遺跡は、弥生時代後期の墓域の代表例として古くから紹介される学史的に著名な遺跡です。","","寺福童遺跡出土銅戈9口は、2004年の発掘調査で発見されました。見つかった際、銅戈の状態が非常にもろかったことから、銅戈を埋納していた遺構ごと発掘現場から切り取り、室内で慎重な調査を行いました。その結果、9口まとまって入る程の大きさの穴の中に、7口の銅戈は切先を南西、2口の銅戈は北西に向けて、直接土の中に1本ずつ丁寧に埋納されていることがわかりました。また、銅戈が埋納されている穴を詳細に観察すると、数回銅戈を取り出した可能性があること、刃を立てた姿勢を維持するために工夫していることもわかりました。銅戈はもちろん、埋納された状態がわかる現地より切取った銅戈埋納遺構も大変貴重であることから、ともに県の文化財に指定されました。この銅戈と同時代の遺構は周辺からは発見されておらず、弥生時代の青銅器は人里離れた場所に埋納されることが多いという傾向をよく表しています。","","",""],
    [21,402168,1001100021,"福岡県小郡市","薩摩街道筑後国境石（乙隈境石）","サツマカイドウチクゴコッキョウセキ（オトグマサカイイシ）","国境石","Chikugo Border stone","市指定有形文化財","建造物","",402168,"","福岡県小郡市乙隈","福岡県","小郡市","乙隈","","","33.436858","130.579881","","","","","","","","","","","","小郡市","2014/10/21","月火水木金土日","","","","","","松崎藩の成立に伴い、延宝6年（1678）に薩摩街道が参勤交代道として定められると、街道沿いに新たに一里塚や国境石が整備されました。現存する筑後国境石は、文政〜天保期（1818〜1844）の建立と推定されています。","","2001年から2003年にかけて、小郡市・筑紫野市の両教育委員会が共同で筑前・筑後国境石の解体調査と復元整備を行いました。筑後国境石は、三段の石積みの基壇の内側に、約2.0〜2.2メートルの廻縁があり、その内側に一辺49センチメートル四方、高さ3.1メートル、重量約2.7トンの棹石が立つ構造であることがわかりました。棹石には、「従是南筑後國」と銘文が彫られており、ここより南側が筑後国の領地になることを示しています。建てられた年代は不明ですが、銘文を書いた久留米藩士佐田修平が活躍した期間を基に、文政〜天保期（1818〜1844）の建立と推定されています。なお、寛永3年（1750）に書かれた『米府年表』に 「乙隈村御境石」という記述があり国境石が設置されていたことが窺えますが、元禄14年（1701）作成の筑後国絵図には「国境杭」という記述になっています。つまり、当初、国境の標柱は木製であり、その後石製に変化したのだと考えられます。2本の国境石は、薩摩街道の歴史や景観を伝える貴重な建造物として、今なお小郡市と筑紫野市の境界にたたずんでいます。","","",""],
    [22,402168,1001100022,"福岡県小郡市","佐ノ古逆修一字一石・板碑","サノコギャクシュウイチジイッセキ・イタビ","佐ノ古逆修一字一石・板碑","","市指定有形文化財","美術工芸品","",402168,"","福岡県小郡市干潟","福岡県","小郡市","干潟","","","33.410827","130.577065","","","","","","","","","","","","個人","2014/10/21","月火水木金土日","","","","","","佐ノ古逆修一字一石板碑は、「二つ塚」と呼ばれる東西2基の盛土の上に、自然石を利用した板碑を立てた石造物で、東側の板碑が市の文化財に指定されています。","","東側の板碑は、高さ85センチメートル、幅56センチメートルで、上部には聖観音を表す種子（梵字）が彫られ、下部に戒名が刻まれています。この銘文から、天文22年（1553）に福田丹後守種秀により「逆修供養」として造られたことがわかりました。銘文には当時の赤色顔料が残っており、板碑の下には径5センチメートル程の石に法華経の文字を1字ずつ墨書した一字一石経が埋められています。一方、西側の板碑は、高さ72センチメートル、幅59センチメートルで、風化が激しく詳細は不明ですが、読み取れた銘文から享禄（1528〜1531）頃のものと考えられています。板碑は中世に造られた卒塔婆の一種で、上部に仏を表現し、下部に経文や銘文を刻む形が一般的です。造立の目的は、主に「死者に対する冥福」か、願主自身が生前に自らの死後の冥福を願って仏事を修めるための「逆修供養」です。特に戦乱の時代には、「逆修」の文字のある板碑が多く造られました。この板碑は、室町時代の信仰や習俗を窺い知ることのできる、市内に残る貴重な歴史資料です。","","",""],
    [23,402168,1001100023,"福岡県小郡市","平田氏庭園","ヒラタシテイエン","平田氏庭園","Hirata Garden","名勝","","",402168,"","福岡県小郡市小郡","福岡県","小郡市","小郡","","","33.393819","130.550333","","","(0942)73-1510","","","","","","","","","小郡市","2018/2/13","火水木金土","9:00","16:30","休館日は、祝日・日曜日・月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","近代における小郡の経済発展の一端を担った木蝋業により財をなした豪商である平田家の邸宅に築かれた庭園です。建物配置を含めた空間構成が良く保存されており、九州の造園文化の発展を示しています。","","平田家住宅の主屋、座敷、客殿の建物に面して、昭和初期に整備された庭園です。これは池泉観賞式庭園と呼ばれ、流れや園池、そして分割して運搬した巨岩を接合した高さ4メートル、幅8メートルの滝石組が注目されます。","","",""],
    [24,402168,1001100024,"福岡県小郡市","平田家住宅　主屋1棟、座敷4棟、門2棟、瓦塀1棟　付　主屋棟札1面","ヒラタケジュウタク　オモヤヒトムネ　ザシキヨンムネ　モンニムネ　カワラベイヒトムネ　ツケタリ　オモヤムナフダイチメン","平田家住宅","Hirata Residence","市指定有形文化財","建造物","",402168,"","福岡県小郡市小郡","福岡県","小郡市","小郡","","","33.393913","130.550439","","","(0942)73-1510","","","","","","","","","小郡市","2016/8/16","火水木金土","9:00","16:30","休館日は、祝日・日曜日・月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","平田家住宅は、近代における小郡の経済発展の一端を担った木蝋業により財をなした豪商の邸宅です。当時、小郡町では「伊吉櫨」という品種を生み出し、九州一円に苗木出荷を行う等、活気にあふれていました。","","平田家住宅の特徴は、別々に建てられた主屋と座敷を廊下で繋げる構造にあります。幕末から明治初期にかけて北側から座敷、主屋が建ち、移築した表門に敷地を取り囲むように塀が築かれ、明治末から大正期に裏門として使用された東門、敷地内北東隅に離れの数寄屋、大正から昭和初期に主屋から南側へと延びる廊下の先に新座敷や太鼓橋で繋がる客殿が建ちました。この他にも、小郡のまちなみの変化や各建物の創建年代が推定できる写真資料、豪商と呼ばれる所以でもある大量の明治期の地券等の文書資料も豊富に残っており、小郡市の文化、経済、産業を理解する歴史資料として価値が高いものです。","","",""],
    [25,402168,1001100025,"福岡県小郡市","薩摩街道干潟野越堤","サツマカイドウヒカタノゴシテイ","薩摩街道干潟野越堤","","市指定史跡","","",402168,"","福岡県小郡市干潟","福岡県","小郡市","干潟","","","33.429384","130.584161","","","","","","","","","","","","小郡市","2017/8/21","月火水木金土日","","","","","","平成28年の道路工事中に、旧薩摩街道の全長約90メートルにわたって石垣・石敷が発見されました。道路西側法面に高さ1.5メートルにわたって6段に石が積まれ、下面には幅1.5メートルにわたって5石分の石敷きがあります。石垣・石敷により野越しの機能を持たせたもので、水利土木史上貴重な遺跡です。","","確認調査の結果、粘土と砂を交互に積み重ねて造った街道に、石垣と石敷を施していることがわかりました。使用された石材は大きさ30〜60センチメートルの花崗岩で、石質・色味から花立山古墳群の石室に使用されていたものを再利用した可能性が考えられます。この野越堤は、参勤交代道である薩摩街道を北側を流れる草場川の洪水から守るための施設です。洪水で水がオーバーフローした際に、流水で街道が壊されることを防ぐため、石垣・石敷によって野越しの機能を持たせました。これにより、洪水による崩壊を最小限に食い止め、破損個所も限定させて復旧を速やかに行うことができるようになります。当時の人々の自然災害に対する考え方や工夫が分かる重要な発見で、水利土木史上貴重な遺跡です。  ","","",""],
    [26,402168,1001100026,"福岡県小郡市","大保池のオニバス群落及び水生生物群集","オオホイケノオニバスグンラクオヨビスイセイセイブツグンシュウ","大保池のオニバス群落及び水生生物群集","","市指定天然記念物","","大保池",402168,"","福岡県小郡市大保","福岡県","小郡市","大保","","","33.410993","130.553482","","","","","","","","","","","","小郡市","2019/8/29","月火水木金土日","","","","","","大保池の全域にわたってオニバスが生息し、その他に、希少植物（ツクシオオガヤツリ、イチョウウキゴケ）や昆虫（ミナミメダカ、ドジョウ、コガタノゲンゴロウ、ウスイロシマゲンゴロウ、コオイムシ）等も生育しています。環境そのものも高く評価され、市の天然記念物に指定し、その保全を図ることとなりました。","","　平成29年9月、市内在住の高校生から「絶滅危惧種のオニバスが大保池に生息している。」との連絡が市に寄せられ、オニバスの生育調査を開始しました。平成30年の調査では、大保池の全域にわたってオニバスが120株ほど生育していることを確認しました。1株あたり十数枚の葉がついており、県内の他の生息地と比較し、非常に良好な状態でした。また、オニバスの他に、希少植物や昆虫等が生育する環境そのものも高く評価され、市の天然記念物に指定し、その保全を図ることとなりました。オニバスは、池・沼に生息する8月から9月が最盛期の1年草です。葉の表面に鬼の角のような突起を持ち、これが何度か生え変わりながら最大で直径1.5bから2.0bまで成長します。9月から10月には水上に紫色の『開放花』と、水中に緑色のつぼみ状の『閉鎖花』を咲かせます。オニバスは、毎年発芽するとは限らない植物ですが、これからも咲き続くことを願います。","","",""],
    [27,402168,1001100027,"福岡県小郡市","稲吉老松神社天神信仰資料","イナヨシオイマツジンジャテンジンシンコウシリョウ","稲吉老松神社天神信仰資料","","市指定有形文化財","美術工芸品","稲吉老松神社",402168,"","福岡県小郡市稲吉69番地","福岡県","小郡市","稲吉","69","","33.389273","130.569365","","","","","","","","","","","","稲吉区","2019/8/29","月火水木金土日","","","","","","稲吉老松神社天神信仰資料は、二重構造の木箱に入っていた掛軸「稲吉老松神社菅公縁起絵」2幅および掛軸「松図」1幅・掛軸「紅梅図」1幅、渋紙1枚でくるまれた二重構造の木箱に入っていた巻物「筑後国御原郡稲吉村産神老松宮縁起」1巻、綴本「稲吉老松神社 御縁起全」1冊の9点からなります。　","","掛軸「稲吉老松神社菅公縁起絵」は、第一幅に「菅原道真公一代の伝記」について23場面が、第二幅に「天満大自在天神としての霊験・利生譚」について24場面が描かれ、最終場面にはこの縁起絵を継承してきた稲吉老松神社の景色が描かれています。いずれも天神信仰に縁が深い内容で、久留米市の北野天満宮が所有する天神縁起と類似性が高いことから、久留米藩内の絵師の手による「ご当地縁起」である可能性が高いものです。紀年銘や制作年代を推定できるような関連資料はありませんが、顔料の状態やすやり霞の表現から、制作時期は江戸末期から明治期と考えられます。同じ木箱に入っていた掛軸「松図」・掛軸「紅梅図」は、菅原道真公と松梅が密接に関係することから、縁起絵とともに飾られていたと考えられます。また、巻物「筑後国御原郡稲吉村産神老松宮縁起」・綴本「稲吉老松神社 御縁起全」には、天神縁起の詞章が書かれています。いずれも稲吉老松神社での天神信仰に関わるものであり、稲吉区ひいては小郡市にとって大切な文化財です。","","","稲吉老松神社天神信仰資料とは、掛軸「稲吉老松神社菅公縁起絵」2幅、掛軸「松図」1幅、掛軸「紅梅図」1幅、巻物「筑後国御原郡稲吉村産神老松宮縁起」1巻、綴本「稲吉老松神社御縁起全」1冊を指す。"],
    [28,402168,1001100028,"福岡県小郡市","料亭さとう別荘玄関棟一棟 広間棟一棟　門一棟","リョウテイサトウベッソウ　ゲンカントウヒトムネ　ヒロマトウヒトムネ　モンヒトムネ","料亭さとう別荘","Traditional Japanese Restaurant Sato Besso","登録有形文化財","建造物","料亭さとう別荘",402168,"","福岡県小郡市小郡字下町1281-1","福岡県","小郡市","小郡","1281-1","料亭さとう別荘","33.393566","130.54727","","","","","","","","","","","","個人","2021/6/24","","","","","","","料亭さとう別荘は、繭の販売により財をなした笹渕氏の邸宅で、大正14年に竣工しました。料亭さとう別荘は、彦山道に面した間口に対し、奥行きの深い敷地一杯に建物（門・玄関棟・広間棟・居住棟）と庭園が広がっています。このうち、現在国登録文化財となっているのは、門・玄関棟・広間棟です。\n\n","","料亭さとう別荘は、肥前や小郡地域の人々が英彦山に参詣するために利用した通称彦山道（現国道500号）に面して建てられています。この場所は、江戸時代の初めに小郡の町づくりを行い、代々小郡町の庄屋を務めた旧池内家の敷地に当たり、江戸時代の町割りの姿を色濃く残しています。門は、明治時代後期に建てられ、昭和初期にこの場所に移築されました。棟が高く、太い木材を用いたもので、街道沿いの景観を作っています。門をくぐり正面に見える玄関棟は、和室と洋間からなる居住空間で、洋間の壁面にはトラ・ライオン・人魚・王冠などの漆喰のレリーフがあります。玄関棟から広間棟へは廊下で接続しています。広間棟は、おもてなしの空間として庭の景色が部屋の風景に取り込まれた設計で、各部屋から庭を眺めることができます。外部空間と内部空間とが見事に調和した、まさに庭師と大工の協働作品です。伝統的な建築様式をもちながらも、細部に近代的な意匠を表現した優れた大正時代の上級住宅形式を示す建築物として、高く評価されています。","","",""],
    [29,402168,1001100029,"福岡県小郡市","横隈山古墳","ヨコグマヤマコフン","横隈山古墳","Yokogumayama Ancient tomb","市指定史跡","","横隈山古墳公園",402168,"","福岡県小郡市三国が丘7丁目242番地","福岡県","小郡市","三国が丘7丁目","242番地","","33.433465","130.565029","","","","","","","","","","","","小郡市","2021/11/25","月火水木金土日","","","","","","横隈山古墳は、昭和48年のみくにの東団地造成の際に発見され、九州で最も早い段階の市民による遺跡保存運動で現在に残された古墳です。市民や学生など多くの人々の努力により保存されたこの古墳は、その後の九州のみならず全国的な遺跡保存運動のシンボルとなりました。","","平成24年から平成25年にかけて確認調査を行い、全長31.6bの前方部が狭く短い前方後円墳であることが分かりました。主体部は盗掘により原状を留めていなかったものの、古墳の規模や時期から、本来は石棺系石室や竪穴系横口式石室であった可能性が考えられています。築造時期は、墳形や出土遺物より5世紀中頃と考えられます。これまで、墳丘上での表採及び確認調査で多くの埴輪片が見つかっています。種類は、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪です。円筒埴輪は、後円部墳頂付近で埴輪列として円形に巡ることを確認しています。表採資料の家形埴輪は、古墳と西側約400ｍの三沢蓬ヶ浦遺跡で発見された埴輪窯との関係がうかがえる資料として評価されています。古墳時代初頭の津古古墳群に始まる小郡地域の首長墓系譜の最後に位置付けられる古墳として高く評価され、現在、横隈山古墳公園として整備・保存されています。今後も地域に親しまれる古墳として守り継がれることを願います。","","",""],
    [30,402168,1001100030,"福岡県小郡市","津古生掛古墳出土品","ツコショウガケコフン","津古生掛古墳出土品","Ancient objects excavated in Tsuko-shougake ancient tomb","市指定有形文化財","美術工芸品","",402168,"","福岡県小郡市三沢5147-3","福岡県","小郡市","三沢","5147ｰ3","小郡市埋蔵文化財調査センター","33.43449","130.5577","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","小郡市","2021/11/25","月火水木金土日","9:00","16:30","休館日は、毎月第3日曜日と第3月曜日、12月28日から翌年1月4日まで。その他施設整備等での臨時休館あり。","","","津古生掛古墳出土品は、昭和61年から62年に発掘調査が行われた、全長33bの前方後円墳である古墳時代前期の津古生掛古墳から出土した文化財です。指定を受けた出土品は、主体部に副葬されていた方格規矩鳥文鏡1面、鉄剣1振、ガラス小玉57個、鉄鏃31本と周溝から出土した鶏形土製品3個体です。","","方格規矩鳥文鏡は、中国で作られ日本に持ち込まれた舶載品で、古墳の年代を考える上でも重要な文化財です。ガラス小玉57個は、分析の結果、近畿地方で発見されるものと類似していることが分かっていいます。鉄鏃31本も、その形態的特徴から畿内勢力との強い結びつきが想定されます。鶏形土製品は、二重口縁壺と鶏形の造作が組み合わさった特徴的なもので、小郡市埋蔵文化財調査センターマスコットキャラクターである「つこっコ」を発案するきっかけとなった文化財です。津古生掛古墳は、古墳時代初頭の津古古墳群を代表する古墳であり、その形態や規模、出土品は当時の北部九州と畿内との関係を考える上で重要です。遺跡の現地保存は叶いませんでしたが、その出土品は小郡市を代表する考古資料として高く評価されています。","","",""],
    [31,402168,1001100031,"福岡県小郡市","佐野古の木造地蔵菩薩坐像","サノコノモクゾウジゾウボサツザゾウ","佐野古の木造地蔵菩薩坐像","Wooden seated statue of Jizo Bodhisattva in Sanoko","市指定有形文化財","彫刻","佐ノ古大神宮",402168,"","福岡県小郡市干潟2324ｰ17","福岡県","小郡市","干潟","2324ｰ17","佐ノ古大神宮","33.413702","130.577968","","","","","","","","","","","","佐野古区","2024/2/21","","","","","","","室町時代に制作されたと考えられる木造の地蔵菩薩坐像","","ヒノキを削って像を作る一木造(いちぼくづく)りという技法で作られています。像は一部に傷みがありますが、やや角ばった頭部や頭部から肩にかけての山形のライン、着衣の裾のやや波打つような線などが、室町時代に制作された特徴をよく示しています。小郡市の室町時代における彫刻の基準資料と位置付けられます。\n地元では「オカンノンサン」とも呼ばれ、佐ノ古大神宮境内で大切に祀られています。\n","","",""],
    [32,402168,1001100024,"福岡県小郡市","旧三原家洋館","キュウミハラケヨウカン","旧三原家洋館","","市指定有形文化財","建造物","",402168,"","福岡県小郡市松崎","福岡県","小郡市","松崎","764","","33.235106","130.351059","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","小郡市","2025/10/29","","","","","","","旧三原家洋館は、薩摩街道に面した建物で、大正12年（1923）に建てられました。１階が洋室、２階が和室の和洋折衷建築物です。1階の入口は、両開きの扉の上にアーチ窓を設けるなど洋館らしい外観が特徴的です。２階は、畳敷きの和室で、南側と東側にはガラス戸の先に高欄（こうらん）の付いた濡れ縁を設け、外を見渡せる造りとなっています。小郡市における洋風建築導入時期の建物で、建築年代、経緯、施主が明らかであり、地域の歴史文化を今に伝える貴重な建造物です。","","","","",""],
    [33,402168,1001100025,"福岡県小郡市","日子神社発句額","ヒノコジンジャホックガク","日子神社発句額","","市指定有形文化財","歴史資料","",402168,"","福岡県小郡市山隈","福岡県","小郡市","山隈","690","","33.251767","130.355857","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","花立区","2025/10/29","","","","","","","日子神社発句額は、花立山のふもとにある日子神社の拝殿に掲げられています。文化13年（1816）２月に奉納されたもので、２枚の板にそれぞれ連歌の発句50句が記されています。各句には、相撲番付のように、大関・関脇・小結・前頭と順位が付けられ、順位を判定した人の名も記されています。句は、著名な人物ではなく地域の人々が詠んだもので、俳諧を地域で楽しもうとする姿を今に伝える市内に残る最も古い貴重な文化財です","","","","","日子神社境内に在所。"],
    [34,402168,1001100026,"福岡県小郡市","旧野口写真館","キュウノグチシャシンカン","旧野口写真館","","市登録有形文化財","建造物","",402168,"","福岡県小郡市松崎","福岡県","小郡市","松崎","553番地9","","33.234424","130.350292","","","(0942)75-7555","","bunzai@city.ogori.lg.jp","","","838-0106","","","","小郡市","2025/10/29","","","","","","","旧野口写真館は、小郡市松崎の桜馬場に面した建物で、昭和６年（1931）に建てられた小郡市で最初の本格的な写真館です。建築当初の建物から増改築されていますが、和風から洋風への移行時期としての建築的特徴を持ち、創建当時の柱や骨組みも残されています。写真館に残された機材や写真を含めて、まさに「時代と共に歩んだ姿」を今にとどめる地域の貴重な文化財です","","","","",""]
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