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<row _id="1"><名称>三浦義一歌碑②(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に昭和41年(1966)6月4日に建立されました｡高さ92cmで｢としつきは過ぎにしとおもふ近江ぬのみずうみのうえをわたりゆく月｣と歌われています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="2"><名称>栃翁句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に大正9年(1920)春に建立されました｡高さ1.28mで｢鴬のぽっと出らしき初音哉｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="3"><名称>史蹟小茶臼山古墳の碑(秋葉台)</名称><説明>高さ1.82mで昭和5年3月に建てられました(秋葉台33番街区)｡｢史蹟小茶臼山古墳｣と刻まれています｡史蹟名勝天然記念物法により1921年に内務大臣から指定されています｡</説明><X座標>-1073561.34</X座標><Y座標>-11210251.82</Y座標></row>
<row _id="4"><名称>瀬川露城句碑①(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､高さ85cmで｢粟津野に深田も見えず月の秋｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="5"><名称>壬申の乱史跡顕彰碑(秋葉台)</名称><説明>秋葉神社(秋葉台34-23)に昭和48年8月に建立されました｡高さ1.22mで表には｢壬申の乱史跡顕彰碑｣と題額し｢三条西三光院実枝卿茶臼山参拝之詠､紅葉葉にかかる時雨は茶磨山むかしを偲ぶ涙なりけり｣との和歌を刻んでいます｡</説明><X座標>-1063154.06</X座標><Y座標>-11200712.36</Y座標></row>
<row _id="6"><名称>岡田魯人句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治42年(1909)6月に無名庵14世を偲んで建立されました｡高さ80cmで｢月の湖鳰は浮きたりしづﾐたり｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="7"><名称>杉浦重剛誕生地の碑(秋葉台)</名称><説明>1855年膳所藩の儒学者杉浦重文の次男として膳所城下の別保で生まれました｡ｲｷﾞﾘｽ留学後私塾称好塾を拠点にして民間教育にあたりました｡欧化主義に反対して国粋主義を唱え､雑誌｢日本人｣の創刊に尽力しています｡晩年は東宮御学問御用掛として倫理を進講しました｡秋葉台4番街区の公園に､昭和10年10月に建立されました｡高さ6.15mで表に｢杉浦重剛先生誕生地｣と刻し､裏面にその略歴を記しています｡</説明><X座標>-1058561.65</X座標><Y座標>-11176377.01</Y座標></row>
<row _id="8"><名称>洞神社跡碑(国分2)</名称><説明>へそ石の向かい側の山中(国分2丁目17番街区付近)にあります｡洞神社は現在は､近津尾神社の境内に祭祀されています｡高さ98cmで｢保良宮趾､今洞宮ﾄ呼ﾌﾞ小祠ﾊ近津尾神社境内地へ明治四十二年(1909)十二月廿八日ﾆ移転ｽ｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1032320.89</X座標><Y座標>-11512857.98</Y座標></row>
<row _id="9"><名称>富岡乙也句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治6年(1873)5月に建立されました｡高さ76cmで｢行燈のひとり消けりけさの秋｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="10"><名称>飯田青水句碑(仰木4)</名称><説明>昭和48年11月に御所の山(仰木4丁目2-50の北西側)に建てられました｡高さ98cmで､｢比良山に初雪ありて冬構｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1094562.01</X座標><Y座標>-9890617.24</Y座標></row>
<row _id="11"><名称>石坐神社の碑(西の庄)</名称><説明>はじめは明治28年5月に石坐神社(西の庄15-16)に建立されましたが､昭和36年の第二室戸台風で倒壊したため､拓本により昭和49年に復元されました｡高さ1.46mで｢石坐神社碑｣と題し､同社の沿革を記しています｡本多康譲により題額･撰文されています｡</説明><X座標>-1020938.11</X座標><Y座標>-11088916.18</Y座標></row>
<row _id="12"><名称>瀬川露城句碑②(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､高さ37cmで｢秋草をうゑこみて｢さまざまの露ひとむらのさかり哉｣｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="13"><名称>膳所藩遵義堂のあと(膳所2)</名称><説明>今の膳所高校の地(膳所2丁目11-1)に膳所藩主本多康禎が文武両道を磨くために藩校遵義堂を1808年に建てられました｡ここで藩士の子弟は読書､算術､習字及び槍､剣､馬､柔の術を学びました｡</説明><X座標>-1008571.46</X座標><Y座標>-11140384.01</Y座標></row>
<row _id="14"><名称>中西悟堂歌碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺の西塔の恵亮堂の前､丸い碑が立っています｡悟堂は天台宗の僧で松江市普門院の住職も勤めました｡この碑は文化功労者として賞を受けた時､友人たちが建てました｡｢樹の雫しきりに落つる暁闇の比叡をこめて啼くほととぎす｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1517015.17</X座標><Y座標>-10274225.39</Y座標></row>
<row _id="15"><名称>滋賀･京都府県境碑(山中町)</名称><説明>山中町の京都と滋賀の県境にあり､昔の旅人の目印になりました｡高さ1.06mで｢京都府･滋賀県府県境｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1675489.93</X座標><Y座標>-10640594.17</Y座標></row>
<row _id="16"><名称>米田雄郎歌碑(坂本本町)</名称><説明>蒲生町極楽寺の住職だった雄郎の辞世の句が､約2mの高さの自然石に自筆で書かれています｡碑は､延暦寺の通称にない堂と呼ばれる法華堂と常行堂の前にあります｡｢しづやかに輪廻生死の世なりけりはるくるそらのかすみしてけり 雄郎｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1516266.58</X座標><Y座標>-10281005.06</Y座標></row>
<row _id="17"><名称>山津波復興記念碑(山中町)</名称><説明>昭和11年6月29日に建立されました｡昭和10年6月28~29日の大雨により比叡山系の一角から発生した山津波による山中町被害の復興を記念して建てられたものです｡</説明><X座標>-1629376.5</X座標><Y座標>-10644066.21</Y座標></row>
<row _id="18"><名称>亀塔(薬樹院の碑)(坂本本町)</名称><説明>織田信長による比叡山延暦寺の焼き打ちのあと､再興に努めた薬樹院の全宗の行状を記した記念碑です｡日吉大社横から比叡山延暦寺へ登る｢本坂｣の途中にあります｡</説明><X座標>-1411172.63</X座標><Y座標>-10298733.37</Y座標></row>
<row _id="19"><名称>九条武子歌碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺西塔釈迦堂の前に､木々に囲まれるように立っています｡歌碑に刻まれた文字は､磨滅して読みにくいですが､ｾｷﾚｲのひな鳥を女性らしい視点で詠んでいます｡｢山の院繻子の端にせきれいの巣ありひな三つ母まちて鳴く｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1512443.5</X座標><Y座標>-10266838.29</Y座標></row>
<row _id="20"><名称>崇福寺跡碑(滋賀里町甲)</名称><説明>大典記念として大正4年(1915)に建立されました｡高さ1.85m｢崇福寺旧址｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1377691</X座標><Y座標>-10606579.2</Y座標></row>
<row _id="21"><名称>吉井勇歌碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺の東塔､阿弥陀堂前の一隅にある高さ1.15mで､昭和36年11月に建立された歌碑です｡比叡山に関する吉井勇の歌は約300首あり､その中の一つを刻んだものです｡霊山の自然のすばらしさを詠んでいます｡｢雷すでに起らずなりぬ秋ふかく大比叡の山しづまりたまへ｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1470237.8</X座標><Y座標>-10326063.35</Y座標></row>
<row _id="22"><名称>宮沢賢治歌碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺の根本中堂前広場の東北すみの高台にあります｡詩人として､童話作家として秀作を多く残した宮沢賢治は熱心な法華経の信者で､この歌は法華経信仰のすばらしさを詠んでいます｡｢根本中堂 ねがはくは妙法如来正へん知大師のみ旨成らしたまへ 宮沢賢治｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1448676.61</X座標><Y座標>-10307610.77</Y座標></row>
<row _id="23"><名称>明治天皇聖蹟碑(大谷町)</名称><説明>月心寺(大谷町27-9)内に建てられています｡高さ1.71m｢明治天皇駐蹕之処､明治元年(1868)九月二十日､同二年三月七日｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1375002.87</X座標><Y座標>-11179659.96</Y座標></row>
<row _id="24"><名称>高浜虚子句碑(大谷町)</名称><説明>月心寺(大谷町27-9)にあります｡高さ76cm｢真清水の走井餅を二つ食べ｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1375002.87</X座標><Y座標>-11179659.96</Y座標></row>
<row _id="25"><名称>上原茂次顕彰碑(皇子が丘1)</名称><説明>皇子が丘公園(皇子が丘1丁目1番街区)内に昭和56年(1981)10月に建立されました｡高さ1.28m｢皇子が丘公園の由来｣の碑､1.93m｢上原茂次氏像(ﾚﾘｰﾌ)｣の碑の2基からなります｡</説明><X座標>-1352935.29</X座標><Y座標>-10831838.06</Y座標></row>
<row _id="26"><名称>松尾芭蕉句碑(大谷町)</名称><説明>月心寺(大谷町27-9)の小野小町の像を祀る小堂の後ろに芭蕉の句碑があります｡句は､新年に粟津の草庵で詠んだものといわれ､大津土産として庶民に愛された大津絵を詠んだものです｡高さ1.12mで｢大津絵の筆の始は何仏 はせを(芭蕉)｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1375002.87</X座標><Y座標>-11179659.96</Y座標></row>
<row _id="27"><名称>若鷲の碑(御陵町)</名称><説明>市立市民文化会館(御陵町2-3)の庭内にあり高さ1.5m(台石を含みます)です｡昭和50年に大津陸軍少年飛行兵学校関係者により建立されました｡大津陸軍少年飛行学校は､昭和18年4月別所の地に開校し､市内中等学校生徒への飛行訓練を開始しましたが昭和20年8月終戦により閉鎖されました｡</説明><X座標>-1344441.24</X座標><Y座標>-10916271.3</Y座標></row>
<row _id="28"><名称>高浜虚子句碑(坂本本町)</名称><説明>ﾂﾊﾞｷに囲まれた延暦寺の横川の虚子塔(横川中堂から東に向かって進む左手)の前にあります｡虚子は､天言座主渋谷慈鎧と親交があり小説の構想を練るためなどにしばしば訪れたといいます｡｢清浄な月を見にけり峰の寺 虚子｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1363641.8</X座標><Y座標>-10020585.07</Y座標></row>
<row _id="29"><名称>日清戦争戦死者記念碑(大谷町)</名称><説明>蝉丸神社(大谷町21-21)に建てられています｡高さ3.28m､｢明治廿七､八年没忠勇戦死者･紀念碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1335661.92</X座標><Y座標>-11152603.62</Y座標></row>
<row _id="30"><名称>保田興重郎歌碑(神宮町1)</名称><説明>近江神宮(神宮町1-1)の時計博物館前にあり､昭和59年(1984)4月に建立されました｡高さ2.3m｢さヾなﾐのしがの山路の春にまよひひとり眺めし花ざかりかな｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1349506.87</X座標><Y座標>-10740644.34</Y座標></row>
<row _id="31"><名称>旧逢坂山ﾄﾝﾈﾙ跡碑(大谷町)</名称><説明>京阪大谷駅から大谷団地に向かう道が名神高速道路を跨ぐ付近(大谷町14番街区の南側山手)に､昭和37年12月に名神高速道路工事に際して建てられました｡碑の建つ位置は旧逢坂山ﾄﾝﾈﾙの西口にあたります｡本来の位置は地下18mに埋没しています｡高さ1.84m｢旧東海道線 逢坂山とんねる跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1335641.94</X座標><Y座標>-11139046.77</Y座標></row>
<row _id="32"><名称>南志賀町廃寺跡の碑(南志賀1)</名称><説明>南志賀町廃寺跡の碑は､南志賀児童遊園地(南志賀1丁目12番街区)内に昭和39年3月31日に建立されました｡高さ2.58m｢史跡南滋賀町廃寺跡､昭和三十二年(1957)十月十一日指定｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1328919.14</X座標><Y座標>-10699080.32</Y座標></row>
<row _id="33"><名称>藤本映湖句碑(御陵町2)</名称><説明>大津市立市民文化会館(御陵町2-3)の庭にある句碑で高さ1.68m｡大津市出身で､大津にある俳句結社花藻の主宰者映湖が､秋を詠んだ句が刻まれています｡｢肘つけば肘より冷ゆる山の秋｣</説明><X座標>-1346482.62</X座標><Y座標>-10925511.57</Y座標></row>
<row _id="34"><名称>志賀宮址碑(錦織2)</名称><説明>志賀宮址碑(錦織2丁目8-14南側)は､明治30年に時の有志により建碑されたと言われています｡高さ2.57m｢志賀宮址碑｣と題額し､撰文が刻まれています｡大津には､かって天智天皇の近江大津京があり､天皇の死とともに滅び､年月とともにその旧跡も不明となりました｡古老の話などから推定の場所に建てられましたが､昭和49年に碑の南側から遺構が発見され､大津宮跡の門跡と断定され､証明されました｡</説明><X座標>-1324465.97</X座標><Y座標>-10774570.89</Y座標></row>
<row _id="35"><名称>三品千鶴歌碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺の横川､元三大師堂の左手､山側の木立の中にある歌碑です｡木々に囲まれ､自然石をそのまま用いたもので､良源とその母である月子姫のことを詠んだ歌が刻まれています｡｢山ろくのみ母したひて夜ごと灯をかヽげましたるひじりかなしも｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1345401.33</X座標><Y座標>-10015066.14</Y座標></row>
<row _id="36"><名称>近江神宮の歌碑(神宮町1)</名称><説明>近江神宮(神宮町1-1)境内には､万葉時代からの多くの歌碑が残されています｡小倉百人一首で親しまれている､天智天皇の歌や柿本人麻呂､保田輿重郎などの碑があります｡</説明><X座標>-1343151.82</X座標><Y座標>-10727405.16</Y座標></row>
<row _id="37"><名称>花折ﾄﾝﾈﾙ竣工顕彰碑(葛川坂下町)</名称><説明>花折ﾄﾝﾈﾙ葛川側入り口横に､建っています｡高さは1.92m､昭和58年11月建立されました｡</説明><X座標>-1306441.53</X座標><Y座標>-8982029.37</Y座標></row>
<row _id="38"><名称>水原秋桜子歌碑(御陵町2)</名称><説明>大津市立市民文化会館(御陵町2-3)の庭に立ついくつかの句碑のうちの一つです｡句は秋桜子が馬酔木会の招きで滋賀県に来た時のもので､近江の景色のすばらしさを詠んでいます｡｢浦曲まで月夜くまなし鴨わたる｣</説明><X座標>-1343934.71</X座標><Y座標>-10916580.12</Y座標></row>
<row _id="39"><名称>沢野井家由緒碑(逢坂1)</名称><説明>関蝉丸神社上社(逢坂1丁目20番街区)にあり､高さ1.03mで蝉丸にご奉仕したと伝える沢野井家の由緒を顕彰し､三六代沢野井治兵衛秋近の歌｢沢の井の其みなもとを尋ぬれﾊﾞ せきの清水のながれなりけり｣を付しています｡</説明><X座標>-1302418.59</X座標><Y座標>-11132623.55</Y座標></row>
<row _id="40"><名称>柿本人麻呂歌碑(神宮町1)</名称><説明>近江神宮(神宮町1-1)の近江時計眼鏡宝飾専門学校前に昭和53年(1978)秋に建立されました｡高さ90cm｢淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念(おうみのうみゆうなみちどりながなけばこころもしぬにいにしえおもほゆ)｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1342169.97</X座標><Y座標>-10749281.66</Y座標></row>
<row _id="41"><名称>崩坂改修記念碑(葛川坂下町)</名称><説明>坂下町葛川橋南詰め付近､安曇川右岸の若狭街道旧道沿いに立っています｡1823年6月の建立で､高さは69ｾﾝﾁﾒｰﾄﾙの記念碑です｡崩坂は街道中の難所で､その改修は待ち望まれていました｡</説明><X座標>-1284638.455</X座標><Y座標>-8744293.972</Y座標></row>
<row _id="42"><名称>獣魂碑(逢坂2)</名称><説明>長安寺(逢坂2丁目3-23)に昭和2年(1927)11月に建てられました｡高さ1.66mで｢獣魂碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1284032.5</X座標><Y座標>-11039599.47</Y座標></row>
<row _id="43"><名称>平田一翁歌碑(神宮町1)</名称><説明>近江神宮(神宮町1-1)初代宮司を記念して社務所前に昭和43年(1968)2月に建立されました｡高さ78cm｢比叡ヶ嶺に近く琵琶湖を目下に大神の辺に永世住まなむ｣と歌われています｡</説明><X座標>-1341623.64</X座標><Y座標>-10722169.68</Y座標></row>
<row _id="44"><名称>横井時常歌碑(神宮町1)</名称><説明>近江神宮(神宮町1-1)の境内に昭和55年(1980)5月5日に建立されました｡高さ70cm｢とし神はいま帰らすか左義長の青竹はぜて高くもえ立つ｣と歌われています｡</説明><X座標>-1341623.64</X座標><Y座標>-10722169.68</Y座標></row>
<row _id="45"><名称>蝉丸神社由緒碑(大谷町)</名称><説明>昭和58年5月に蝉丸神社(大谷町21-21)に建立されました｡高さ91cm､蝉丸神社の由緒を刻み､蝉丸の歌｢これやこのゆくもかえるもわかれてはしるもしらぬもあふさかのせき｣を付しています｡</説明><X座標>-1336169.46</X座標><Y座標>-11152911.02</Y座標></row>
<row _id="46"><名称>中西富直の碑(音羽台)</名称><説明>逢坂小学校(音羽台6-1)に大正9年1月に建立されました｡高さ2.38mで｢中西翁献碑｣と題し､大津南尋常小学校東浦分教場の訓導として地域の教育に尽くした中西氏の功績を顕彰しています｡</説明><X座標>-1247313.67</X座標><Y座標>-11069536.22</Y座標></row>
<row _id="47"><名称>松尾芭蕉句碑(園城寺町)②</名称><説明>三井寺の円満院(園城寺町33)の前庭にあり､高さ1.45mで芭蕉の直筆をそのまま拡大し刻んだものです｡月見の宴を催した時のことを､中国の故事をもちいて詠んだものです｡｢三井寺の門たヽかばやけふの月｣昭和38(1963)年10月に建立されました｡</説明><X座標>-1332554.56</X座標><Y座標>-10934774.59</Y座標></row>
<row _id="48"><名称>郷土垣内氏の碑(音羽台)</名称><説明>逢坂小学校(音羽台6-1)に昭和7年5月に建立されました｡高さ1.31mで｢郷土垣内氏世々住居之跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1247313.67</X座標><Y座標>-11069536.22</Y座標></row>
<row _id="49"><名称>逢坂関址碑(音羽台)</名称><説明>逢坂小学校(音羽台6-1)に昭和5年10月に建てられました｡高さ1.95mで｢逢坂関址｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1247313.67</X座標><Y座標>-11069536.22</Y座標></row>
<row _id="50"><名称>柿本人麻呂歌碑(御陵町3)</名称><説明>市役所(御陵町3-1)時計塔の下にあり､溢水石の表面に大津宮跡を訪ねた柿本人麻呂の反歌1首が刻まれています｡上部から碑面を水が流れ､歌碑としては珍しいものです｡｢さヾなみの志賀の大わだよどむとも昔の人に亦も逢はめやも｣</説明><X座標>-1322860.41</X座標><Y座標>-10891961.36</Y座標></row>
<row _id="51"><名称>吟友の碑(神宮1)</名称><説明>近江神宮(神宮町1-1)の境内に昭和44年(1969)に建立されました｡高さ2m｢吟友之碑｣と刻み､弘文天皇の漢詩を付しています｡｢皇明は日月と光らい､帝徳は天地と載せたまう､三才並泰昌､万国臣義を表す｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1314282.35</X座標><Y座標>-10742234.8</Y座標></row>
<row _id="52"><名称>石堂頼房の碑(音羽台)</名称><説明>霊仙正福寺(音羽台14-20)に昭和55年5月に建立されました｡高さ1.34mの碑で｢石堂頼房公之碑｣と題し､南北朝期の武将で､のち正福寺の中興となった頼房の履歴を記して顕彰しています｡</説明><X座標>-1247075.32</X座標><Y座標>-11080628.57</Y座標></row>
<row _id="53"><名称>滋賀県女子師範学校等跡地の碑(末広町)</名称><説明>大津駅前児童公園(末広町9番街区)に昭和50年(1975)10月25日に建立されました｡高さ53cm｢滋賀県女子師範学校･滋賀県立大津高等女学校･滋賀県立女子師範付属小学校･滋賀大学学芸学部付属学校園｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1238655.44</X座標><Y座標>-11041201.53</Y座標></row>
<row _id="54"><名称>平忠度歌碑(逢坂2)</名称><説明>この勅撰集の歌は､平清盛の弟で文学好きの武将忠度が詠んだ歌です｡天皇の命にそむいた賊将であることから､詠み人知らずとされました｡大正3年6月の建立で｢さゞ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな｣と詠まれています｡長等公園(小関町1番街区)の南側山手の桜ヶ丘休憩広場(逢坂2丁目)にあります｡</説明><X座標>-1303783.23</X座標><Y座標>-11023242.31</Y座標></row>
<row _id="55"><名称>大津城跡碑(浜大津5)</名称><説明>浜大津5丁目2-29北西側付近に昭和46年(1971)3月に建立されました｡高さ72cm｢大津城跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1231447.21</X座標><Y座標>-10959561.53</Y座標></row>
<row _id="56"><名称>小町塚歌碑(逢坂1)</名称><説明>関蝉丸神社(下社､逢坂1丁目15-6)の裏山に､この辺りに住んでいたという小野小町の塚がひっそりとたたずんでいます｡自然石にしめ縄がかけられ､百人一首でお馴染みの歌が刻まれています｡｢花のいろﾊうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに｣</説明><X座標>-1287358.11</X座標><Y座標>-11060854.52</Y座標></row>
<row _id="57"><名称>長善寺本堂再建碑(坂本1)</名称><説明>長善寺本堂再建碑(坂本1丁目1番街区､穴太野添墓地内)は､大正14年(1925)10月に建立されました｡高さ1.8mで｢高龍山長善寺本堂再建碑｡釈大顕発願の再建の経緯を記す｡本堂落成は明治30年｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1233829.159</X座標><Y座標>-10453997.9</Y座標></row>
<row _id="58"><名称>小野小町歌碑(逢坂1)</名称><説明>関蝉丸神社下社(逢坂1丁目15-6)の社殿裏手の山裾に建てられています｡小町冢の名で知られています｡｢小町冢 花のいろﾊうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに｣と歌っています｡建立年は不明です｡</説明><X座標>-1287358.11</X座標><Y座標>-11060854.52</Y座標></row>
<row _id="59"><名称>琵琶湖周航歌碑(観音寺)</名称><説明>旧制第三高等学校旧艇庫(観音寺1番街区)前に､われは湖の子と刻まれた碑が立っています｡副碑には､ﾎﾞｰﾄの中で作詞されたという琵琶湖周航の歌の歌詞が刻まれています｡</説明><X座標>-1265880.51</X座標><Y座標>-10929320.76</Y座標></row>
<row _id="60"><名称>大津事件記念碑(京町2)</名称><説明>明治24年(1891)国賓として来日中のﾛｼｱの皇太子ﾆｺﾗｲ･ｱﾚｸｻﾝﾄﾞﾛﾋﾞｯﾁが警護の巡査に襲われるという事件が発生しました｡この事件のあった京町2丁目11-2の町角に｢此付近露国皇太子遭難之地｣と記された碑が立っています｡</説明><X座標>-1233550.28</X座標><Y座標>-11015326.94</Y座標></row>
<row _id="61"><名称>高浜年尾句碑(茶が崎)</名称><説明>旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ1.26m｢かもめとび早春湖畔ﾎﾃﾙあり｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1261189.84</X座標><Y座標>-10835970.27</Y座標></row>
<row _id="62"><名称>藤原定家の爪塚(坂本本町)</名称><説明>安楽律院境内の定家歌碑左手の高みにあります｡定家は､鎌倉時代前期､父俊成とともに花壇の重鎮として活躍しました｡｢新古今和歌集｣や｢小倉百人一首｣の撰者として知られています｡</説明><X座標>-1233066.12</X座標><Y座標>-10086395.91</Y座標></row>
<row _id="63"><名称>鈴鹿野風呂句碑(茶が崎)</名称><説明>旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ97cm｢湖を東枕に明易起｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1261189.84</X座標><Y座標>-10835970.27</Y座標></row>
<row _id="64"><名称>びわ湖八景の碑(坂本5)</名称><説明>昭和26年(1951)1月に早尾地蔵(坂本5丁目2番街区南西端)の前に建立されました｡高さ1.61mで｢びわ湖八景､煙雨･比叡の樹林｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1221712.34</X座標><Y座標>-10307321.43</Y座標></row>
<row _id="65"><名称>明智左馬之助の碑(柳が崎)</名称><説明>国道161号線沿いの柳が崎8番街区に昭和29年(1954)10月に建立されました｡高さ1.64m｢明智左馬之助光俊駒止松｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1221062.03</X座標><Y座標>-10774401.14</Y座標></row>
<row _id="66"><名称>木下碧露句碑(茶が崎)</名称><説明>旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ79cm｢鴨はまだ鳰一列に朝の湖｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1261189.84</X座標><Y座標>-10835970.27</Y座標></row>
<row _id="67"><名称>明治天皇聖蹟碑(中央2)</名称><説明>大津別院(中央2丁目5-25)に明治13年(1880)6月29日と7月14日の行幸を記念して建立されました｡高さ2.08m｢明治天皇聖蹟｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1216058.22</X座標><Y座標>-11015349.91</Y座標></row>
<row _id="68"><名称>木下はぎ江句碑(茶が崎)</名称><説明>旅亭紅葉(茶が崎4-3)の敷地内にあり､高さ93cm｢おおびわの湖天の月の大きひかり｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1261189.84</X座標><Y座標>-10835970.27</Y座標></row>
<row _id="69"><名称>明治天皇行在所の碑(中央2)</名称><説明>大津別院(中央2丁目5-25)に昭和14年11月に建てられました｡高さ2.02m｢明治天皇大津別院行在所､史蹟名勝天然記念物保存法ﾆ依ﾘ史蹟ﾄｼﾃ昭和十三年(1938)八月文部大臣指定｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1215804.31</X座標><Y座標>-11015042.14</Y座標></row>
<row _id="70"><名称>池坊専正歌碑(京町1)</名称><説明>榮泉寺(京町1丁目1-10)に明治31年(1898)7月に建立されました｡高さ1.33m｢偲ぶれば草場のかげになくむしをすぎにし君の声かとぞ思ふ｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1250799.76</X座標><Y座標>-11023314.82</Y座標></row>
<row _id="71"><名称>松田道之の碑(京町4)</名称><説明>明治15年(1882)11月､東京府知事在職中に没した松田道之の功績をたたえて高観音(近松寺)に建立されました｡その後､現在の地(京町4丁目1-1県庁前庭)に移転されました｡道之は鳥取藩士久保氏の次男として生まれ､尊皇攘夷運動に活躍して､明治維新後は明治政府に登用され､地方制度の整備に尽力しました｡高さ1.6mで撰文が刻まれています｡県庁前庭の西南隅に建てられています｡</説明><X座標>-1205190.22</X座標><Y座標>-11040321.11</Y座標></row>
<row _id="72"><名称>佐治誠吉句碑(春日町)</名称><説明>大津駅(春日町1-3)西側の山吹地蔵の前に､昭和25年盂蘭盆(うらぼん)に建立されました｡高さ1.73mで｢木曽どのをしたひ山吹ちりにけり｣と詠んでいます｡</説明><X座標>-1241461.26</X座標><Y座標>-11053830.34</Y座標></row>
<row _id="73"><名称>明治天皇聖蹟碑(島の関)</名称><説明>中央小学校(島の関1-60)に師範学校創立60周年記念として昭和10年(1935)10月15日に建立されました｡高さ6.15mで､表に｢明治天皇聖蹟｣と題し､裏に｢明治11年(1878)10月13･15日の行幸の経緯を記しています｡</説明><X座標>-1195517.66</X座標><Y座標>-11010446.68</Y座標></row>
<row _id="74"><名称>藤原定家歌碑(坂本本町)</名称><説明>坂本の安楽律院境内にあります｡高さ1.3mで｢ふむだにもゑにしなるてふ此山の土となる身ﾊたのもしきかな 京極黄門所詠 為紀又書｣と刻まれています｡明治22年に建立されました｡この碑の左手の高みには定家の爪塚があります｡</説明><X座標>-1233066.12</X座標><Y座標>-10086395.91</Y座標></row>
<row _id="75"><名称>波止築造の碑(島の関)</名称><説明>明治5年に湖南町の沖に波止めとして防波堤2基が築造されました｡その後､湖南汽船が創設され(最初は紺屋が関汽船と言いました)この防波堤を利用して谷口嘉助氏が石碑をつくり､防波堤の上(島の関14-1市民会館東側)に据え付けました｡当初の湖南水上交通を偲ぶことができます｡</説明><X座標>-1187362.71</X座標><Y座標>-10977489.09</Y座標></row>
<row _id="76"><名称>松雄芭蕉句碑(坂本4)</名称><説明>織田信長の焼討の時代から今日に受け継がれている滋賀院(坂本4丁目6-1)に､明治30年(1897)11月3日に､坂本ｹｰﾌﾞﾙ前に建てられた真葛原から移転されました｡高さ1.5mで､｢叡慮にて賑ふ民や庭かまど｣と詠まれています｡坂本には滋賀院があるというだけで､京都の雰囲気を楽しめるところがあります｡</説明><X座標>-1205775.62</X座標><Y座標>-10323671.84</Y座標></row>
<row _id="77"><名称>滋賀県民の歌の碑(京町3)</名称><説明>滋賀会館(京町3丁目4-22)ﾊﾞｽ停横に立つ碑です｡碑面には､一般公募によって作られた滋賀県民の歌の歌詞と当時の知事服部岩吉氏の肖像が刻まれています｡</説明><X座標>-1199100.21</X座標><Y座標>-11036015.38</Y座標></row>
<row _id="78"><名称>日吉茶園の碑(坂本4)</名称><説明>京阪電車石山坂本線｢坂本比叡山口｣駅のすぐ東に日吉大社の茶園(坂本4丁目10-28京阪電車石山坂本線｢坂本比叡山口｣駅北東側)があり､この名で呼ばれています｡高さ1.64mで｢日吉茶園の碑｣と題額し､最澄が唐より日本に初めて茶を伝えたとする撰文が記されています｡日本茶園発祥の地として､大正10年(1921)に建立されています｡</説明><X座標>-1185234.93</X座標><Y座標>-10306136.37</Y座標></row>
<row _id="79"><名称>餅九蔵植林記念碑(膳所池ﾉ内町)</名称><説明>#VALUE!</説明><X座標>-1163913.34</X座標><Y座標>-11275154.45</Y座標></row>
<row _id="80"><名称>花登筐文学碑(島の関)</名称><説明>大津市民会館(島の関14-1)北東側の湖岸に昭和59年9月30日に建立されました｡主碑と副碑からなり､主碑は高さ2.95m｢泣くは人生 笑うは修行 勝つは根性 花登筺｣と自筆の座右銘が刻まれています｡副碑は高さ1.95mで花登筺の略歴を記しています｡昭和3年大津市上北国町で商家の次男として生まれ､学生時代に演劇に志し､民間放送の開始とともにﾃﾚﾋﾞ作家として頭角を表しました｡｢やりくりｱﾊﾟｰﾄ｣｢番頭はんと丁稚どん｣で人気を確立しました｡</説明><X座標>-1183816.15</X座標><Y座標>-10979342.26</Y座標></row>
<row _id="81"><名称>自治功労者の碑(伊香立下在地町)</名称><説明>下在地町八所神社(伊香立下在地町1316)の境内に建っています｡高さ2.43mで昭和32(1957)年10月に建立され｢自治功労者之碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1155824.35</X座標><Y座標>-9482600.73</Y座標></row>
<row _id="82"><名称>柳緑花紅詩碑(打出浜)</名称><説明>藤尾追分町の東海道と伏見街道の分岐点にあったものです｡蘇東坡の詩の一部が刻まれ､柳緑花紅の標石と呼ばれて｢広重旅日記｣にも紹介されています｡</説明><X座標>-1152924.26</X座標><Y座標>-11007111.28</Y座標></row>
<row _id="83"><名称>吉井勇歌碑(打出浜)</名称><説明>打出浜にある琵琶湖文化館(打出浜1-1)前の湖中に､昭和36年(1961)3月に建立されました｡琵琶湖に浮かぶ和城ｽﾀｲﾙで建てられた文化館の美しさをたたえる句が刻まれています｡｢うつし世の夢をうつヽに見せしめぬ琵琶湖のうえにうかぶ美の城｣</説明><X座標>-1152413.77</X座標><Y座標>-11004338.9</Y座標></row>
<row _id="84"><名称>穴穂神社石碑(穴太3)</名称><説明>穴穂神社御旅所の前に建てられています｡</説明><X座標>-1246754.85</X座標><Y座標>-10468735.59</Y座標></row>
<row _id="85"><名称>明智左馬之介湖水渡りの碑(打出浜)</名称><説明>県立琵琶湖文化館(打出浜1-1)の前にあり､高さ2.63m｢明智左馬之介湖水渡ところ､天正十年(1582)6月14日｣と刻まれています｡明智光秀が織田信長を討ってまもなく､羽柴秀吉に敗れ､住民の襲撃に倒れました｡この時安土城を守っていた光秀の女婿明智秀満(左馬之介)は光秀の敗死も報を受け､急ぎ光秀の居城坂本城に向かいました｡途中､打出浜あたりで秀吉軍の先鋒堀秀正の軍を避け､馬を湖に乗り入れ､唐崎で上陸して坂本城に入ったと伝えられています｡これが｢明智左馬之介湖水渡り｣の物語です｡</説明><X座標>-1147095.17</X座標><Y座標>-11008351.01</Y座標></row>
<row _id="86"><名称>松尾芭蕉句碑(唐崎1)</名称><説明>近江八景の一つ､唐崎の松の下に松の美しさを詠んだ句碑があります｡唐崎は風光明媚な景勝地として有名で､万葉集など古歌の歌枕に詠まれています｡｢唐崎の松ﾊ花より朧にて｣と記されており､高さ1.22mで唐崎神社(唐崎1丁目7-1)境内にあります｡</説明><X座標>-1146959.055</X座標><Y座標>-10569832.53</Y座標></row>
<row _id="87"><名称>高谷光雄の碑(石場)</名称><説明>地福禅寺(石場5-21)にあり､高さ3.06m｢高谷光雄翁碑｣と題額し､滋賀県内に製糸業をおこし近江麻糸紡織会社を設立して社長に就任し､実業界で活躍した高谷光雄の顕彰碑です｡</説明><X座標>-1138789.46</X座標><Y座標>-11056734.91</Y座標></row>
<row _id="88"><名称>向崎清造の碑(大石曽束1)</名称><説明>帰命寺(大石曽束町1丁目2-20)に建立されています｡官有林の払い下げの功労により昭和12年に建てられました｡高さ64cmの碑です｡</説明><X座標>-1133031.92</X座標><Y座標>-12140656.38</Y座標></row>
<row _id="89"><名称>八木英光ほか歌碑(仰木4)</名称><説明>昭和60年9月に小椋神社(仰木4丁目38-55)に建立されました｡高さ51cmで､｢叡麓の仰木小椋の御社を親と敬ひ日夜拝む｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1135065.45</X座標><Y座標>-9885946.69</Y座標></row>
<row _id="90"><名称>酒井の旧跡の碑(下阪本4)</名称><説明>酒井神社御旅所(下阪本4丁目15番街区の南西角)にあります｡高さ67cmで｢酒井之旧跡｣と刻まれた石碑です｡嵯峨天皇の弘仁元年(810年)に酒の泉が涌出と伝承されています｡</説明><X座標>-1132129.02</X座標><Y座標>-10377991.32</Y座標></row>
<row _id="91"><名称>塚本平治歌碑(仰木4)</名称><説明>昭和59年8月に小椋神社(仰木4丁目38-55)に建立されました｡高さ1.7ﾒｰﾄﾙで､｢差昇る旭を迎えて仰ぎつつ平和を祈り神を拝む｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1135065.45</X座標><Y座標>-9885946.69</Y座標></row>
<row _id="92"><名称>坂本城址の碑(下阪本3)</名称><説明>東南寺西(下阪本3丁目5番街区の南西角の東南寺川付近)にあり､大正四年に建立された1.36mの碑です｡</説明><X座標>-1121295.91</X座標><Y座標>-10427609.73</Y座標></row>
<row _id="93"><名称>松尾芭蕉句碑(石山内畑町)</名称><説明>岩間寺(石山内畑町82)にある高さ1.08mの句碑です｡｢古池や蛙飛び込む水の音｣と詠われています｡｢観音霊験記｣によると芭蕉は当山の観音を信仰して参籠し供養塔を建立しました｡たちまちにして霊験を蒙りこの句が世に出たと伝えています｡</説明><X座標>-1109818.8</X座標><Y座標>-11835966.3</Y座標></row>
<row _id="94"><名称>洪水石標(下阪本4)</名称><説明>琵琶湖の洪水のなかでも､明治29年(1896)9月の大洪水は､いまなお語りつがれています｡県下流失家屋1749軒､死傷者百余人でした｡現在､酒井(さかい)神社(下阪本四丁目9ｰ18付近)境内には､当時の水位(約3.9m)を示す洪水石標(もと両社の辻にあった)がたっています｡市指定文化財です｡なお､大萱(おおがや)三丁目の善念寺(ぜんねんじ)の石垣にも水位が刻まれています｡</説明><X座標>-1118479.14</X座標><Y座標>-10402656.43</Y座標></row>
<row _id="95"><名称>松尾芭蕉句碑(馬場1)①</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治26年(1893)に200回忌正当供養のために建立されました｡高さ1.8m｢旅に病で夢は枯野をかけ廻る｣と詠われています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="96"><名称>島崎又玄句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に高さ49cmで｢木曽殿と背中合せの寒さかな｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="97"><名称>観順阿闍梨の碑(下阪本3)</名称><説明>北嶺大行満観順師の顕彰碑(下阪本3丁目2-4の東側)です｡高さ3.08mで大正4年に建立された碑ですが､碑文は磨耗して判読し難くなっています｡</説明><X座標>-1102820.7</X座標><Y座標>-10443345.29</Y座標></row>
<row _id="98"><名称>北川文素句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に寛延3年(1750)秋に建立されました｡高さ61cmで｢三日月の影をのばすな蕎麦の花｣と詠まれています｡｢松本邑｣と文素の肩書きのありますが､現在は碑面が摩耗して判読し難くなっています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="99"><名称>史蹟龍ヶ岡俳人墓地の碑(馬場2)</名称><説明>芭蕉翁の高弟内藤丈ｿｳの経塚を中心に､芭蕉の門人俳人17人の墓が､一堂に眠っています｡このような墓所(馬場2丁目12-62付近)は他にはありません｡大正14年7月に建てられました｡高さ1.71mで｢史蹟龍ヶ岡俳人墓地｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1098789.4</X座標><Y座標>-11103616.25</Y座標></row>
<row _id="100"><名称>山本紫金句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)にある常夜燈型の碑です｡総高さ2m｢しぐれても道はくもらず月の影｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="101"><名称>仏幻住庵の碑(馬場2)</名称><説明>丈ｿｳは芭蕉の弟子で､去来とならぶ高弟でした｡義仲寺第二世の無名庵主で､元禄九年(1696)新たに仏幻庵を営みましたが同十七年に没しました｡龍ヶ岡俳人墓地(馬場2丁目12-62付近)に昭和47年(1972)2月24日に建立されています｡高さ1.55mで｢丈ｿｳ仏幻庵址｣と記し､内藤丈ｿｳの略歴を付しています｡</説明><X座標>-1098789.4</X座標><Y座標>-11103616.25</Y座標></row>
<row _id="102"><名称>木曽義仲遺跡の碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に天保3年(1832)12月義仲の末裔で､江戸幕府の侍医源義長が義仲の650年忌にあたって建立しました｡高さ1.7m｢朝日将軍木曽源公遺跡之碑｣と題額し撰文が刻まれています｡義仲は平安後期の武将で､1154年に生まれ木曽で育ちました｡以仁王の令旨をうけて平氏追討の兵を挙げ､北陸道から入京しましたが､後白河法皇と不仲になり頼朝が派遣した義経･範頼軍に敗れ近江の粟津で戦死しました｡義仲寺は近江守護六角氏が義仲供養のため建立した寺と伝えられています｡</説明><X座標>-1093921.85</X座標><Y座標>-11061410.81</Y座標></row>
<row _id="103"><名称>豊島朴因句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治25年(1892)9月に建立されました｡高さ75cmで｢いく夜寝ぬ身のおろかさよほとヽぎす｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="104"><名称>三浦義一歌碑①(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に昭和41年(1966)6月4日に建立されました｡高さ86cmで｢巴｢かくのごときをみなのありとかってまたおもひしことはわれになかりき｣｣と歌っています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="105"><名称>史跡義仲寺境内の碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に昭和43年8月15日文部省が文部大臣灘尾弘吉の書になる碑を建立しました｡高さ1.9m｢史跡義仲寺境内､昭和四十二年(1967)十一月二十日指定｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1093921.85</X座標><Y座標>-11061410.81</Y座標></row>
<row _id="106"><名称>芭蕉翁行状碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､寛保3年(1743)10月12日に芭蕉五〇回忌記念に堅田本福寺住職で門人の角上が建立しました｡高さ1.32m松尾芭蕉の略歴等を記した顕彰碑です｡碑文は摩耗して判読し難くなっています｡</説明><X座標>-1093921.85</X座標><Y座標>-11061410.81</Y座標></row>
<row _id="107"><名称>松浦羽州句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､高さ2.2mで｢身のほどをかへり見る日ぞ初しぐれ｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="108"><名称>西尾其桃句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､高さ1.13mで｢鴬の頻に鳴くや雨の花｣と詠われています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="109"><名称>昭和再建碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に昭和41年(1966)6月4日に建立されました｡高さ1.6mで､表に｢昭和再建碑｣と刻み､裏に｢昭和落慶誌｣と題して義仲寺の再建経緯を記してあります｡</説明><X座標>-1093921.85</X座標><Y座標>-11061410.81</Y座標></row>
<row _id="110"><名称>再建第二期事業完成碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に昭和51年(1976)に建立されました｡高さ72cmで粟津文庫等新造の経緯を記してあります｡</説明><X座標>-1093921.85</X座標><Y座標>-11061410.81</Y座標></row>
<row _id="111"><名称>松尾芭蕉句碑(馬場1)②</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に250年忌を記念して建立されました｡高さ1.7mで｢古池や蛙飛びこむ水の音｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="112"><名称>松尾芭蕉句碑(馬場1)③</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に高さ90cmで表に｢行春をあふﾐ(近江)の人とを(惜)しみける 芭蕉桃青｣と詠まれています｡裏に｢昭和三十七年五月十二日是を建つ､芭蕉翁本廟義仲寺同人会｣と記しています｡文字は芭蕉の真蹟を拡大したもので､270回忌を記念して奉扇会に建立されたものです｡…………関連 奉扇会</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="113"><名称>源満仲祠跡碑(仰木4)</名称><説明>御所の山(仰木4丁目2-50太鼓会館の北西)に元禄6年(1693)内親王の家臣小倉重庸(しげつね)が満仲遺跡碑を建立しました｡</説明><X座標>-1095574.01</X座標><Y座標>-9889999.82</Y座標></row>
<row _id="114"><名称>織田車友句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に大正6年(1917)10月に建立されました｡高さ1mで｢おもうまヽ月夜にあひぬ遅ざくら｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="115"><名称>御所の山古墳(仰木4)</名称><説明>御所の山公園(仰木4丁目2-50太鼓会館の北西)に建てられています｡昭和30年に建立されました｡｢史跡御所之山｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1093039.96</X座標><Y座標>-9888154.2</Y座標></row>
<row _id="116"><名称>寺崎方堂句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)にあり､高さ1.13mで｢むべ三顆翁を祀るけふにして｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="117"><名称>御所の山頌徳碑(仰木4)</名称><説明>御所之山の歴史を物語る碑として､御所の山公園(仰木4丁目2-50太鼓会館の北西)内に昭和52年7月に建立されました｡前面に｢多田満仲頌徳碑｣､裏面に満仲と仰木の関係が示されています｡</説明><X座標>-1092533.23</X座標><Y座標>-9887846.7</Y座標></row>
<row _id="118"><名称>睡花堂蝶夢句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治28年(1895)に建立されました｡高さ70cmで｢初雪や日枝より南さり気なき｣と詠まれています｡…………関連 蝶夢</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="119"><名称>三池記の碑(秋葉台)</名称><説明>1850年堀池茂雄の三池開削の成功を顕彰して秋葉台の御池のそばに建立されました(秋葉台18番街区)｡高さ90cmで｢三池記｣と題額し､撰文が刻まれています｡中庄村の庄屋に任命された茂雄は､当時水田の干ばつがひどいため池の開削を企画しました｡藩から許可を受けた一ヶ所では村の窮状を救えないと判断した茂雄は､独断で三ヶ所の池の開削を断行し罰せられました｡村民の嘆願により赦面され､ついに鶴池･中池･新池の｢三池｣を開削しました｡その功により裃と堀池姓を藩主から賜りました｡</説明><X座標>-1078667.31</X座標><Y座標>-11239516.27</Y座標></row>
<row _id="120"><名称>矢島蟻洞句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)に明治15年(1882)12月に建立されました｡高さ88cmで｢よい処へちればさくらの果報かな｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="121"><名称>小林華明句碑(仰木4)</名称><説明>昭和32年5月に御所の山(仰木4丁目2-50の北西側)に建てられています｡高さは1.1mで､｢故郷は横川の麓柿日和｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1094561.26</X座標><Y座標>-9890001.01</Y座標></row>
<row _id="122"><名称>芭蕉翁経塚の碑(国分2)</名称><説明>安永9年(1780)に近津尾神社(国分2丁目442)境内の幻住庵旧跡の前に建てられました｡蝶夢の門人達が供養のために一石一字の法華経を書写して埋めたものと言われています｡高さ1.15mで｢芭蕉翁経塚｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1006404.55</X座標><Y座標>-11472524.52</Y座標></row>
<row _id="123"><名称>旧膳所藩烈士の碑(御殿浜)</名称><説明>本多神社(御殿浜20-56)に昭和7年(1932)10月21日に建立されました｡幕末の動乱期に死罪とされた膳所藩の尊皇攘夷派11名(11烈士)と脱藩の勤王志士3名を含めた14烈士の殉難の事績を顕彰し､建てられました｡高さ1.9mで｢旧膳所藩烈士の碑｣と題額し､碑文が刻まれています｡</説明><X座標>-943900.2378</X座標><Y座標>-11225394.86</Y座標></row>
<row _id="124"><名称>伊勢又玄句碑(馬場1)</名称><説明>義仲寺(馬場1丁目5-12)内の木の根元に､自然石に句が刻まれた碑があります｡｢葛の松原｣に記された句で､無名庵に一泊した時の句です｡寺域に質素な芭蕉の墓もあります｡｢木曽殿と背中合わせの寒さかな｣</説明><X座標>-1093667.96</X座標><Y座標>-11061103.01</Y座標></row>
<row _id="125"><名称>寒川辰清邸跡碑(中庄2)</名称><説明>寒川辰清邸跡碑(中庄2丁目19番街区付近)は､昭和58年4月に建立されました｡高さは1.08mあり､｢寒川辰清邸趾｣と記し､辰清の略歴が刻まれています｡</説明><X座標>-997215.37</X座標><Y座標>-11189077.23</Y座標></row>
<row _id="126"><名称>松尾芭蕉句碑(秋葉台)</名称><説明>芭蕉会館(秋葉台35-9)にあり､谷口如水の書になる碑です｡高さ1.09m｢大津絵の筆のはじめは何仏｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="127"><名称>武内楳人句碑(秋葉台)</名称><説明>芭蕉会館(秋葉台35-9)にあり､高さ77cmで｢はたヽ神鳴りはためきて地天泰｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="128"><名称>鳥獣供養塔(千町3)</名称><説明>京阪ﾊﾞｽの｢上千町｣ﾊﾞｽ停(千町3丁目645近く)付近に昭和32年10月に建立されました｡｢鳥獣供養塔｣と刻まれています｡</説明><X座標>-989919.24</X座標><Y座標>-11709164.58</Y座標></row>
<row _id="129"><名称>芭蕉道統歴代句碑(秋葉台)</名称><説明>芭蕉会館(秋葉台35-9)に昭和59年(1984)6月に美濃豊月が建立しました｡高さ1.24mで｢俳祖松尾芭蕉｢旅に病で夢は枯野をかけ廻る｣以下､無名庵主第1世から20世までの句を刻んでいます｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="130"><名称>赤埴勝政邸跡碑(中庄1)</名称><説明>赤埴勝政邸跡碑(中庄1丁目3番街区付近)に高さは1.06mで､｢赤埴勝政邸趾｣と記し､勝政(赤穂義士赤埴源蔵の叔父)の略歴を付しています｡</説明><X座標>-987087.9</X座標><Y座標>-11202644.7</Y座標></row>
<row _id="131"><名称>谷口如水句碑(秋葉台)</名称><説明>芭蕉会館(秋葉台35-9)に正風19世如水師叙勲記念として昭和42年(1967)秋に建立されました｡高さ1.09mで｢人はいさ我は野菊の素を愛す｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="132"><名称>寺崎方堂句碑(秋葉台)</名称><説明>明治23年神戸市に生まれました｡俳諧を学び義仲寺の第18世無名庵主となり､芭蕉以来の蕉風俳諧の伝統を伝えるべく､昭和22年俳諧詩｢正風｣を創刊し､これを主宰しました｡句碑は芭蕉会館(秋葉台35-9)の入り口に昭和42年秋､三年忌祭記念として建立されました｡昭和8年宮中献納俳句で第一席に入選した｢御題のうたを拝して 洋々と年の朝しおたヽえけり｣の句が刻まれています｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="133"><名称>杉浦重剛の碑(杉浦町)</名称><説明>杉浦重剛旧宅(杉浦町12-11)といわれる邸内に昭和45年(1970)2月13日に建立されました｡高さは1.53mあり､｢杉浦重剛先生碑｣と題して､その略歴を記して顕彰し､佐々木信綱の｢明治の御代大正の御代に残しましし大き足跡は消えせじ永久に｣との讃歌が刻まれています｡</説明><X座標>-974705.69</X座標><Y座標>-11241787.12</Y座標></row>
<row _id="134"><名称>菅沼曲翠邸跡碑(中庄1)</名称><説明>菅沼曲翠邸跡碑(中庄1丁目5番街区)は､昭和44年(1969)7月に建立されました｡高さは1.1mあり､｢菅沼曲翠邸址｣と刻まれています｡</説明><X座標>-973656.81</X座標><Y座標>-11209745.25</Y座標></row>
<row _id="135"><名称>正風顕彰碑(秋葉台)</名称><説明>芭蕉会館(秋葉台35-9)に正風20周年､明治100年記念として昭和43年(1968)11月の芭蕉祭に建立されました｡高さ2.02mで｢美濃豊月｢ばらの緋にとけこむ今日の嬉しけれ｣ほか171句｣が詠まれています｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="136"><名称>高堤防の碑(道路改修記念碑､仰木の里7)</名称><説明>下仰木の道の最高地(高堤防､仰木の里7丁目23-1北側)に建立されています｡｢道路改修記念碑｣とも言われています｡明治26年道路を改修し､大正4年に道路改修の大切さを認識して建てられました｡</説明><X座標>-961827.9445</X座標><Y座標>-9829290.737</Y座標></row>
<row _id="137"><名称>正風合同句碑(秋葉台)</名称><説明>芭蕉会館(秋葉台35-9)に芭蕉翁290年祭･芭蕉会館創設20周年記念として昭和59年(1984)6月10日に建立されました｡高さ2.15mで｢美濃豊月｢二十年只管ここに風涼し｣ほか171句｣が詠まれています｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="138"><名称>美濃豊月句碑(秋葉台)</名称><説明>芭蕉会館(秋葉台35-9)にあり､高さ1.14mで｢恙なく年立つ湖の明るさに｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1055782.19</X座標><Y座標>-11184699.09</Y座標></row>
<row _id="139"><名称>水害想出の塔(千町4)</名称><説明>昭和28(1953)年9月25日､199.5ﾐﾘの大雨による水害で千丈川川･土砂流入による大災害の記録が刻まれています｡高さ3.03mの塔です｡千町4丁目173近くの千丈川南側付近にあります｡</説明><X座標>-961738.8</X座標><Y座標>-11690091.66</Y座標></row>
<row _id="140"><名称>田中居庸(吉太郎)句碑(国分2)</名称><説明>昭和34年(1959)に幻住庵跡(国分2丁目442)に建てられました｡高さ89cmで｢ｻﾝ願のやつれも吹けよ春の風｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1007154.89</X座標><Y座標>-11462972.55</Y座標></row>
<row _id="141"><名称>膳所城址碑(本丸町)</名称><説明>膳所城跡公園(本丸町7番街区)に昭和43年(1968)9月に建立されました｡高さは2.05mあり､表に｢膳所城址｣､裏に膳所城の沿革が刻まれています｡</説明><X座標>-958378.43</X座標><Y座標>-11149064.37</Y座標></row>
<row _id="142"><名称>今井兼平鎧掛松の碑(園山1)</名称><説明>東ﾚ滋賀事業場(園山1丁目1-1)に明治28年(1895)2月に建立されました｡高さ86cmで｢今井兼平鎧掛松｣と刻まれています｡粟津合戦の乱戦の中､兼平が陣をたてなおすべく退いて一服しようとしたところ､かたわらに一株の松がありました｡兼平は身につけていた鎧をこの松にかけ､休息を取ったと言います｡また一説には､義仲の最後を見届けた兼平が死出の旅へと向かう前､この松に鎧をかけて疲れた身体を休めたと言います｡昭和16(1941)年に東洋ﾚｰﾖﾝ(現在の東ﾚ)が建立した碑もあります｡</説明><X座標>-955255.54</X座標><Y座標>-11312363.14</Y座標></row>
<row _id="143"><名称>とくとくの泉(国分2)</名称><説明>幻住庵記の中に出てくる泉です｡現在も変わらずに湧き出ています(国分2丁目442)｡清澄な水で大切にされています｡</説明><X座標>-1008682.12</X座標><Y座標>-11467900.55</Y座標></row>
<row _id="144"><名称>山元春挙句碑(中庄1)</名称><説明>記恩寺(中庄1丁目19-23)前に大正7年(1918)に建立されました｡高さは1.3mあり､｢魚つりやほめもそしりもうきひとつ｣と詠まれています｡</説明><X座標>-954634.71</X座標><Y座標>-11205143.32</Y座標></row>
<row _id="145"><名称>美濃豊月句碑(国分2)</名称><説明>昭和57年(1982)に近津尾神社境内幻住庵旧跡(国分2丁目442)の前に建てられました｡高さ1.39mで｢奥深き林泉のﾘｽﾞﾑに耳すます｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1008679.05</X座標><Y座標>-11465127.63</Y座標></row>
<row _id="146"><名称>廬花浅水荘庭園の碑(中庄1)</名称><説明>記恩寺(中庄1丁目19-23)に昭和49年3月に建立され､｢名勝廬花浅水荘庭園 昭和四十年(一九六五)市指定文化財｣と刻まれています｡高さ78cmの碑です｡</説明><X座標>-953113.01</X座標><Y座標>-11204836.78</Y座標></row>
<row _id="147"><名称>藤本洞里(芳太郎)句碑(国分2)</名称><説明>近津尾神社境内幻住庵旧跡(国分2丁目442)の前に建てられています｡高さ78cmで｢三曲を登れば晴るヽ時雨かな｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1008423.72</X座標><Y座標>-11463587.42</Y座標></row>
<row _id="148"><名称>寺崎方堂句碑(国分2)</名称><説明>昭和35年(1960)3月近津尾神社境内幻住庵旧跡(国分2丁目442)の前に建てられました｡高さ1.37mで｢湖の碧桜紅葉の梢越し｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1007917.48</X座標><Y座標>-11464512.26</Y座標></row>
<row _id="149"><名称>膳所領境碑(中庄1)</名称><説明>記恩寺(中庄1丁目19-23)にあり､高さは86cmのものは｢是より南膳所領｣と､高さは108cmのものは｢是より北膳所領｣と刻まれています｡</説明><X座標>-954634.71</X座標><Y座標>-11205143.32</Y座標></row>
<row _id="150"><名称>奥村里翁(佐治郎)句碑(国分2)</名称><説明>昭和37年(1962)5月に近津尾神社境内幻住庵旧跡(国分2丁目442)の前に建てられました｡高さ93cmで｢笠いらぬほどに時雨を翁の忌｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1005897.99</X座標><Y座標>-11473141.26</Y座標></row>
<row _id="151"><名称>膳所城天守閣跡の碑(本丸町)</名称><説明>膳所城跡公園(本丸町7番街区)に昭和45年(1970)12月に建立されました｡高さは1.42mあり､｢天守閣跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-954058.33</X座標><Y座標>-11139517.46</Y座標></row>
<row _id="152"><名称>松尾芭蕉句碑(国分2)</名称><説明>近津尾神社の幻住庵跡(国分2丁目442)にある句碑です｡句碑には､風景の美しさを詠んだ芭蕉の｢幻住庵記｣の最後にある句が刻まれています｡｢先たのむ椎の樹もあり夏木立｣</説明><X座標>-1006407.97</X座標><Y座標>-11475605.54</Y座標></row>
<row _id="153"><名称>杉浦重剛詩碑(杉浦町)</名称><説明>杉浦重剛旧宅(杉浦町12-11)に昭和15年11月に建立されました｡高さ1.62mで｢鉄骨氷心長く真を養う 一枝斜の処更に塵無し 寒香僅々にして両三点 先ず占う東風万里の春を 梅窓剛｣と詠まれています｡</説明><X座標>-974452.12</X座標><Y座標>-11241787.39</Y座標></row>
<row _id="154"><名称>本多公浜御殿跡の碑(御殿浜)</名称><説明>本多神社(御殿浜20-56)にあり､高さは1.78mで､｢本多公浜御殿址｣と刻まれています｡</説明><X座標>-943500.64</X座標><Y座標>-11226721.94</Y座標></row>
<row _id="155"><名称>松尾芭蕉句碑(中庄1)①</名称><説明>戒琳庵(中庄1丁目19-25)に昭和46年(1971)4月に建立されました｡高さは63cmあり､｢木のもとに汁もなますも桜哉｣と詠まれています｡</説明><X座標>-958692.03</X座標><Y座標>-11205447.27</Y座標></row>
<row _id="156"><名称>膳所城勢多口総門跡碑(御殿浜)</名称><説明>御殿浜20番街区に昭和46年3月に建立されました｡高さ72cmで｢膳所城勢多口総門跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-936408.86</X座標><Y座標>-11234431.63</Y座標></row>
<row _id="157"><名称>粟津原合戦史跡顕彰碑(晴嵐2)</名称><説明>昭和49年(1974)3月に今井兼平の墓(晴嵐2丁目4-16付近)の処に建てられました｡高さ1.23mで｢粟津原合戦史跡顕彰碑｣と題し､元治元年(1864)秋､粟津の兼平討死のところをおとづれた時の勝海舟の歌｢染出し粟津のくろのむら紅葉ちりての後ぞいろいでにけり｣を刻んでいます｡</説明><X座標>-934959.82</X座標><Y座標>-11304064.59</Y座標></row>
<row _id="158"><名称>伊藤雪雄歌碑(本丸町)</名称><説明>膳所城跡公園(本丸町7番街区)の北側､湖岸べりに建立されています｡高さは1.32mあり､表に｢少年の日の還りくる石鹿の渚辺ぬくし鮎も寄りくる 雪雄｣､裏に｢昭和五十八年十一月吉日之を建つ 伊藤雪雄歌碑建設の会｣と刻まれています｡</説明><X座標>-948485.37</X座標><Y座標>-11144452.92</Y座標></row>
<row _id="159"><名称>粟津合戦鎮魂碑(晴嵐2)</名称><説明>粟津原合戦800年記念に両軍戦没全将兵のために､今井兼平の墓(晴嵐2丁目4-16付近)の境内に昭和59年(1984)5月に建立されました｡高さ1.48mで｢｢鎮魂碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-934959.82</X座標><Y座標>-11304064.59</Y座標></row>
<row _id="160"><名称>飯田棹水(菅次郎)歌碑(本丸町)</名称><説明>膳所公園(本丸町7番街区)内の琵琶湖畔に立つ碑は､伊予石の自然石の碑面にﾌﾞﾛﾝｽﾞをはめ込んだもので､棹水の自筆です｡琵琶湖の美しさが､和歌に詠み込まれています｡｢琵琶の水みづうみながら流れをり膳所の浜辺をゆるく洗ひつ｣</説明><X座標>-947978.9</X座標><Y座標>-11145069.63</Y座標></row>
<row _id="161"><名称>今井兼平旧跡改修記念碑(晴嵐2)</名称><説明>高さ1.61mで墓地(晴嵐2丁目4-16付近)の境内に明治44年9月に建立されました｡今井兼平の墓を改修したことの記念碑です｡</説明><X座標>-934959.82</X座標><Y座標>-11304064.59</Y座標></row>
<row _id="162"><名称>松尾芭蕉句碑(中庄1)②</名称><説明>中庄1丁目23番街区の篠津川橋南東の琵琶湖側に芭蕉翁280回忌記念として､昭和48年(1973)4月に建立されました｡高さは2.45mあり､｢四方より花吹入てにほの波｣と詠まれています｡</説明><X座標>-944240.61</X座標><Y座標>-11207002.51</Y座標></row>
<row _id="163"><名称>温泉､水力発起者の碑(雄琴2)</名称><説明>雄琴2丁目2番街区付近の旧道沿いの民家の前に､温泉開発などに功績があり雄琴の発展に大きく寄与した二人を記念して1952年正月に建てられました｡旧北国街道沿いにあります｡高さ69cmのこぶりな碑です｡｢温泉開発者 田中宗吉･水力発起者 山本稜威雄 碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-930546.125</X座標><Y座標>-10072517.62</Y座標></row>
<row _id="164"><名称>歌碑(晴嵐2)</名称><説明>作者不詳ですが､文化9年(1812)に建立されています｡高さ68cmで｢松風を聞けばむかしの音信とおもうあﾊづの跡をたづぬる｣と歌われています｡今井兼平の墓(晴嵐2丁目4-16付近)とともに建てられています｡</説明><X座標>-935212.78</X座標><Y座標>-11303448.15</Y座標></row>
<row _id="165"><名称>元田永孚詩碑(晴嵐2)</名称><説明>粟津の合戦で木曽義仲の後を追い自害した今井兼平の忠義をたたえて､昭和41年(1966)5月に今井兼平の墓(晴嵐2丁目4-16付近)に建立されました｡高さ1.91mで｢死生唯主に報ゆ 終始節は弥堅し 正諌納れ難しと雖も 一心頁天ならず｣と詠まれています｡</説明><X座標>-935212.78</X座標><Y座標>-11303448.15</Y座標></row>
<row _id="166"><名称>滋賀院領境標(雄琴2)</名称><説明>南と北の二本があります｡南は苗鹿との境界に､北は衣川との境界に建てられていました｡南北の各碑は､今は､雄琴会館(雄琴2丁目4-13)の庭先に建てられています｡</説明><X座標>-921635.2481</X座標><Y座標>-10052310.72</Y座標></row>
<row _id="167"><名称>赤尾新田由緒碑(赤尾町)</名称><説明>赤尾会館(赤尾町10-26)前にあります｡1811年膳所藩の命により大津町人小松屋甚左衛門が平津村の開墾に成功し､この地に赤尾の称をつけました｡昭和48年6月赤尾町自治会が建立し､赤尾新田開発の歴史が刻まれています｡</説明><X座標>-886154.79</X座標><Y座標>-11706186.31</Y座標></row>
<row _id="168"><名称>久米幸叢句碑(唐橋町)</名称><説明>瀬田の湖面に浮かぶ船の様子を詠んだ幸叢(こうぞう)の句が､琵琶湖八景が選定されたのを記念して唐橋中の島(唐橋町23番街区)南側に立てられました｡｢湖かけて舟ちらばれる瀬田涼し｣</説明><X座標>-862011.82</X座標><Y座標>-11391634.33</Y座標></row>
<row _id="169"><名称>石亭翁登遊碑(石山寺1)</名称><説明>碑文には寛政11年(1799)11月となっているが､1800年3月に木内石亭の喜寿を記念して石山寺参道に建立されたと言われています｡石亭は諸国をめぐって奇石を収集して研究した民間の学者です｡石山寺には白瑪瑙(めのう)という珍しい奇石があり､この石を一生のうち100回も見に登ったということから､この地(石山寺1丁目2番街区の山際)に建立されたと言われています｡石材は江州木戸産で彦根候が竹生島に建てた碑の半片を利用したと伝えられています｡</説明><X座標>-875277.4</X座標><Y座標>-11472037.03</Y座標></row>
<row _id="170"><名称>西沢十七星碑(唐橋町)</名称><説明>唐橋中の島(唐橋町23番街区)南側にあり､高さ1.7mで｢瀬田蜆藤咲きしかばうまからむ｣と詠まれています｡</説明><X座標>-862011.82</X座標><Y座標>-11391634.33</Y座標></row>
<row _id="171"><名称>山崎茶酔句碑(瀬田2)</名称><説明>唐橋の東南詰めの角(瀬田2丁目1番街区)に建てられています｡昭和三十年三月に瀬田町観光協会が建立しました｡高さ2.25mで｢松風の帆にはとどかず夕霞｣と詠まれています｡</説明><X座標>-844214.9515</X座標><Y座標>-11396921.32</Y座標></row>
<row _id="172"><名称>霊仙三蔵の碑(石山寺1)</名称><説明>三蔵は日本僧でただ一人､唐の皇帝の命で仏典の翻訳に携わった人です｡昭和55年4月に石山寺(石山寺1丁目1-1)の無憂園に建立されました｡高さ1.9mの主碑と略歴を記した副碑からなっています｡</説明><X座標>-875088.3</X座標><Y座標>-11538895.45</Y座標></row>
<row _id="173"><名称>頌徳碑(石山寺2)</名称><説明>新宮神社(石山寺2丁目13-16)の前に昭和46年4月に建立されました｡高さ1.58mで｢頌徳･以下5名の氏名｣が刻まれています｡</説明><X座標>-872072.19</X座標><Y座標>-11567859.86</Y座標></row>
<row _id="174"><名称>島崎藤村詩碑(石山寺1)</名称><説明>石山寺東大門北側の小公園(石山寺1丁目4番街区)内にあります｡石山寺に｢ﾊﾑﾚｯﾄ｣の本を奉納した時の心境を詠んだもので､藤村はしばらく石山寺の周辺に住んでいました｡｢湖にうかぶ詩神よ 心あらば落ちゆく鐘のこなたに聴けや 千年の冬の夜ごとに 寺よりひゞく読経のこえ｣と刻んであります｡</説明><X座標>-841086.4</X座標><Y座標>-11524136.48</Y座標></row>
<row _id="175"><名称>史蹟茶臼山古墳の碑(秋葉台)</名称><説明>高さ2.2mで昭和5年3月に建てられました(秋葉台34番街区)｡｢史蹟茶臼山古墳｣と刻まれています｡史蹟名勝天然記念物法により1921年に内務大臣から指定されています｡</説明><X座標>-1057310.68</X座標><Y座標>-11190859.55</Y座標></row>
<row _id="176"><名称>大越亨の碑(石山寺1)</名称><説明>大越亨が滋賀県知事として瀬田川の浚渫をして琵琶湖治水に取り組んだ功績を讃えて建てられた記念碑で､石山寺(石山寺1丁目1-1)の境内に明治38年9月に建立されました｡</説明><X座標>-865440.8</X座標><Y座標>-11529352.9</Y座標></row>
<row _id="177"><名称>吐月句碑(本堅田1)</名称><説明>本福寺(本堅田1丁目22-30)に昭和59年4月建てられました｡｢高張を灯し御講や千那寺｣</説明><X座標>-732728.45</X座標><Y座標>-9858316.81</Y座標></row>
<row _id="178"><名称>大谷句仏句碑(本堅田1)</名称><説明>大正13年千那200回忌記念に本福寺(本堅田1丁目22-30)に建てられました｡｢山茶花の落下に魂や埋もれなん｣</説明><X座標>-732728.45</X座標><Y座標>-9858316.81</Y座標></row>
<row _id="179"><名称>明治天皇聖蹟碑(唐橋町)</名称><説明>瀬田川の中之島(唐橋町23番街区)の南に建立されました｡明治元(1968)年9月21日､この地で琵琶湖を天覧されたのを記念したものです｡高さ1.68m｢明治天皇御聖蹟｣と題し､裏面に行幸次第が記されています｡</説明><X座標>-862519.33</X座標><Y座標>-11391941.99</Y座標></row>
<row _id="180"><名称>淡海辞世の句碑(本堅田1)</名称><説明>本福寺(本堅田1丁目22-30)境内に昭和41年に建てられました｡</説明><X座標>-732980.67</X座標><Y座標>-9857084.15</Y座標></row>
<row _id="181"><名称>松村雲外句碑(石山寺1)</名称><説明>石山寺(石山寺1丁目1-1)内の無憂園に昭和56年8月に建立された高さ95cmの句碑で､｢きつつきや伽藍にひびくはしの音｣と刻まれています｡</説明><X座標>-860622.18</X座標><Y座標>-11529973.35</Y座標></row>
<row _id="182"><名称>松尾芭蕉句碑(本堅田1)①</名称><説明>本福寺(本堅田1丁目22-30)内にある句碑で､膳所に住む門人昌房に宛てた真簡に記された句､｢泊船集｣にも入れられています｡句は､旅の途中風邪をひいてしまった自分の心を雁にたとえて詠んだものです｡｢病雁の夜寒に落て旅寝かな｣</説明><X座標>-732981.39</X座標><Y座標>-9858008.49</Y座標></row>
<row _id="183"><名称>瀬田唐橋架換記念碑(唐橋町)</名称><説明>瀬田の唐橋の大橋西北詰め(唐橋町23番街区)に建立され､昭和50年着工から54年7月竣工までの工事概要を記しています｡また､前回大正11年起工･同13年竣工の記念碑文を付しています｡高さ1.35mで｢瀬田唐橋架換記録｣と題しています｡</説明><X座標>-859981.19</X座標><Y座標>-11389787.55</Y座標></row>
<row _id="184"><名称>志賀廼家淡海歌碑(本堅田1)</名称><説明>昭和41年10月15日､本福寺(本堅田1丁目22-30)の境内に建立されました｡高さ1.3mの碑で｢ああおかし 唯わらわしに 五十年 淡海節が 残りゃせめても｣</説明><X座標>-732476.24</X座標><Y座標>-9859549.43</Y座標></row>
<row _id="185"><名称>三上千那句碑(本堅田1)</名称><説明>本福寺(本堅田1丁目22-30)内にある句碑です｡三上千那は､本福寺の第11世住職で本名を明武といいます｡芭蕉に師事し､芭蕉も千那のもとをよく訪れていました｡｢しぐれ来や並びかねたるいさざ舟｣</説明><X座標>-731211.53</X座標><Y座標>-9861090.98</Y座標></row>
<row _id="186"><名称>湖族の郷文学碑①(本堅田1)</名称><説明>昭和4年の｢一平傑作集｣の中に｢琵琶湖めぐり｣があり､本福寺(本堅田1丁目22-30)を訪れたおりのようすが記載されています｡文筆もよく､洋画家で､大正時代に最も評判の高い政治漫画を描きました｡</説明><X座標>-729942.66</X座標><Y座標>-9857394.68</Y座標></row>
<row _id="187"><名称>第二室戸台風被害の碑(平津2)</名称><説明>戸隠神社(平津2丁目9-13)の境内にあり､台風により倒れた東参道鳥居の断片に文字を刻んで碑としたものです｡</説明><X座標>-848557.45</X座標><Y座標>-11649528.46</Y座標></row>
<row _id="188"><名称>豊田白揚(粂造)句碑(大石東1)</名称><説明>法楽寺(大石東1丁目7-34)の境内に昭和26年に建立されました｡高さ1.1mで｢朝市の矢立の筆は凍りけり｣と詠んでいます｡白揚は大阪中央市場頭取でした｡</説明><X座標>-721502.65</X座標><Y座標>-12036616.99</Y座標></row>
<row _id="189"><名称>明治二十九年洪水石標(瀬田1)</名称><説明>西光寺(瀬田1丁目18-28)前にあります｡高さ2.13mで昭和54年4月建立されました｡明治29(1896)年9月23日の琵琶湖大洪水時の水位を横線で示しています｡</説明><X座標>-840044.9724</X座標><Y座標>-11383880.6</Y座標></row>
<row _id="190"><名称>橋本由来の石碑(瀬田1)</名称><説明>西光寺(瀬田1丁目18-28)前に建てられています｡</説明><X座標>-839941.69</X座標><Y座標>-11384875.63</Y座標></row>
<row _id="191"><名称>阿波野青畝句碑(本堅田1)</名称><説明>浮御堂(本堅田1丁目16-18)の山門のそばに五月雨に濡れた浮御堂の美しさを詠んだ青畝の句碑が立っています｡｢五月雨の雨垂ればかり浮御堂｣</説明><X座標>-719757.125</X座標><Y座標>-9872347.918</Y座標></row>
<row _id="192"><名称>松尾芭蕉句碑(本堅田1)②</名称><説明>浮御堂(本堅田1丁目16-18)の境内にある芭蕉の句碑は､江戸時代後期に立てられました｡｢笈日記｣堅田十六夜弁の一句で､月夜の湖上の美しさを詠んでいます｡｢鎖あけて月さし入れよ浮御堂｣</説明><X座標>-718628.0086</X座標><Y座標>-9873786.679</Y座標></row>
<row _id="193"><名称>安土弥吉の碑(瀬田1)</名称><説明>西光寺(瀬田1丁目18-28)境内北西隅に建てられています｡高さは1.51mで｢頌徳｣と題額され､その下に碑文を刻んでいます｡大正3(1914)年7月に建立されました｡</説明><X座標>-840319.5656</X座標><Y座標>-11383056.82</Y座標></row>
<row _id="194"><名称>琵琶湖八景･夕陽･瀬田石山の清流の碑(石山寺1)</名称><説明>昭和26年9月大津市が建立した高さ1.75mの碑(石山寺1丁目4番街区の石山公園内)で､｢琵琶湖八景･夕陽･瀬田石山の静流｣と刻まれています｡</説明><X座標>-841086.4</X座標><Y座標>-11524136.48</Y座標></row>
<row _id="195"><名称>松尾芭蕉句碑(本堅田1)③</名称><説明>浮御堂(本堅田1丁目16-18)の境内に昭和38年10月に建てられました｡高さ1.3mで｢比良三上雪指しわたせ鷺の橋｣と詠まれています｡</説明><X座標>-717743.4236</X座標><Y座標>-9874358.811</Y座標></row>
<row _id="196"><名称>高桑蘭更句碑(本堅田1)</名称><説明>浮御堂のある満月寺(本堅田1丁目16-18)の境内にあります｡高さ1.01mで1825年8月に建立されました｡</説明><X座標>-717997.4236</X座標><Y座標>-9875282.811</Y座標></row>
<row _id="197"><名称>貞明皇后行啓碑(南郷1)</名称><説明>南郷洗堰の近く(南郷1丁目17番街区の南郷公園前)に滋賀県知事堀田義次郎の書による記念碑が建てられています｡高さ2.13mで｢皇后陛下行啓記念碑大正11年(1922)11月12日(行啓)｣と記されています｡</説明><X座標>-828100.61</X座標><Y座標>-11753686.43</Y座標></row>
<row _id="198"><名称>中井余花朗句碑(本堅田1)</名称><説明>満月寺(本堅田1丁目16-18)境内に建てられています｡昭和25年3月虚子の喜寿祝賀同人会の際の作で｢春風や人陸にあり舟にあり｣が記されています｡</説明><X座標>-718079.7963</X座標><Y座標>-9876107.078</Y座標></row>
<row _id="199"><名称>山崎友親宅跡碑(神領1)</名称><説明>膳所藩勤皇の志士として活躍し､後に栗太郡野洲郡長･第一回衆議院議員を歴任しました｡宅跡碑(神領1丁目12番街区付近)は昭和57年7月に建てられました｡高さ1.22mで｢山崎友親宅跡･･･｣と刻まれています｡</説明><X座標>-818641.91</X座標><Y座標>-11388283.1</Y座標></row>
<row _id="200"><名称>高浜虚子句碑(本堅田1)</名称><説明>浮御堂(本堅田1丁目16-18)北側の湖中に建てられています｡堅田保勝会により昭和27年7月11日に建立されました｡ ｢湖も 此辺にして 鳥渡る｣</説明><X座標>-713026.0962</X座標><Y座標>-9873269.219</Y座標></row>
<row _id="201"><名称>千代警部補殉職の碑(大石龍門1)</名称><説明>昭和46年11月に大石橋南詰め(大石龍門1丁目1番街区)に建立されました｡大石駐在所勤務中にやみ米の取締中に昭和36年11月19日殉職しました｡高さ91cmで｢故千代警部補殉職の碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-803823.33</X座標><Y座標>-12144695.78</Y座標></row>
<row _id="202"><名称>大神正盈の碑(神領1)</名称><説明>建部大社(神領1丁目16-1)の宮司として同社の社格向上など興隆に寄与したことを顕彰して､参拝者駐車場(神領1丁目18番街区)に大正8(1919)年12月に建立されました｡高さ3.56mで｢大神正盈翁碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-788374.4266</X座標><Y座標>-11396428.63</Y座標></row>
<row _id="203"><名称>湖族の郷文学碑(本堅田2)</名称><説明>三島由紀夫は昭和39年に｢群像｣に連載された小説｢絹と明察｣で描かれた堅田の情景は鮮烈な印象を与えました｡今もその風景は偲ばれます｡本堅田2丁目1番街区付近にあります｡</説明><X座標>-710187.8</X座標><Y座標>-9849091.18</Y座標></row>
<row _id="204"><名称>窪江城跡碑(大江1)</名称><説明>東ﾚ瀬田工場(大江1丁目1-1)内にあります｡昭和15年に建立されました｡｢窪江城跡碑｣と題額し､山岡氏の沿革を記しています｡</説明><X座標>-782797.43</X座標><Y座標>-11290028.99</Y座標></row>
<row _id="205"><名称>松尾芭蕉句碑(本堅田2)</名称><説明>昭和60年9月23日堅田漁港(本堅田2丁目13番街区付近)に建てられました｡『かたたの浦に草枕して｢海士の屋は小えびにまじるいとどかな｣』</説明><X座標>-701051.88</X座標><Y座標>-9821060.27</Y座標></row>
<row _id="206"><名称>大石邸跡の碑(大石龍門2)</名称><説明>昭和4年12月14日現在の大石龍門2丁目2番街区に建立されました｡高さ1.93mで｢史蹟大石氏邸跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-783010.46</X座標><Y座標>-12145021.31</Y座標></row>
<row _id="207"><名称>高浜虚子句碑(今堅田3)</名称><説明>高さ1.49mで｢このあたり真野の入り口や藻刈船｣と詠まれ､真野浜水泳場(今堅田3丁目25番街区付近)の湖岸にあります｡</説明><X座標>-663713.58</X座標><Y座標>-9652859.94</Y座標></row>
<row _id="208"><名称>志賀廼家淡海顕彰碑(真野1)</名称><説明>堅田駅前交番(真野1丁目1-78)の東側道路沿いに昭和53年(1978)10月に建立されました｡高さ1.51mで､角柱碑と円形の碑があります｡角柱には淡海を顕彰し､円形には淡海節の一節が刻まれ､また､台石には辞世の句が詠まれています｡</説明><X座標>-772650.03</X座標><Y座標>-9760921.62</Y座標></row>
<row _id="209"><名称>谷口如水句碑(今堅田3)</名称><説明>琵琶湖大橋米ﾌﾟﾗｻﾞ(今堅田3丁目1-1)に琵琶湖大橋の守護神を勧請して､昭和40年に建てられました｡高さ2.56mで｢守りませ永久に木花佐久夜比売｣と詠まれています｡</説明><X座標>-657169.57</X座標><Y座標>-9704935.37</Y座標></row>
<row _id="210"><名称>上田上郷歌の碑(平野1)</名称><説明>上田上小学校(平野1丁目18-5)の校門を入ったところに､昭和46年11月3日老人ｸﾗﾌﾞにより建立されました｡表に郷歌の歌詞六番を刻み､裏に楽譜が刻まれています｡作詞は山本清之進､作曲は竹内岩尾･芝原茂一で明治43年に制定されました｡</説明><X座標>-369043.47</X座標><Y座標>-11534910.1</Y座標></row>
<row _id="211"><名称>久保江古墳跡の碑(大江2)</名称><説明>若松神社(大江2丁目9-1)の南側､昭和58年11月に出土を記念して建てられました｡高さ96cmで｢陶棺出土･久保江古墳跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-770895.97</X座標><Y座標>-11309757.05</Y座標></row>
<row _id="212"><名称>堂ﾉ上廃寺跡碑(野郷原1)</名称><説明>堂の上遺跡の横に建てられています｡</説明><X座標>-812107.3593</X座標><Y座標>-11401802.23</Y座標></row>
<row _id="213"><名称>西鶴の文学碑(牧1)</名称><説明>江戸時代の大戸川の大洪水のための大災害の復旧工事を記した西鶴の｢武家義理物語｣の文学碑が真光寺(牧1丁目8-32)境内に建てられています｡大戸川が大洪水の結果､川筋が現在の山裾になったのは宝永4年のことです｡以前の河川敷のあたりをﾌﾙｶﾜと呼んでいます｡</説明><X座標>-326182.32</X座標><Y座標>-11552179.14</Y座標></row>
<row _id="214"><名称>大石良信邸跡碑(大石東1)</名称><説明>昭和7年3月浄土寺(大石東1丁目10-6)裏山に建立されました｡高さ2.1mで｢史蹟大石久右衛門良信邸跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-765155.04</X座標><Y座標>-12039047.35</Y座標></row>
<row _id="215"><名称>湖族の郷文学碑②(本堅田1)</名称><説明>琵琶湖湖岸(本堅田1丁目17番街区の北側湖岸)に建てられています｡昭和43年｢別冊文芸春秋｣に城山三郎の小説｢予科練一歩の距離｣に堅田が登場します｡その記念の地に碑を建立しました｡</説明><X座標>-714240.9172</X座標><Y座標>-9868004.683</Y座標></row>
<row _id="216"><名称>北村又三郎翁頌徳碑(本堅田3)</名称><説明>堅田小学校(本堅田3丁目6-1)の池の畔に昭和40(1965)年建立されました｡本堅田生まれの教諭で校章､校歌を作り､児童文庫を設置しました｡旧堅田町の助役･町長歴任の人です｡</説明><X座標>-759041.26</X座標><Y座標>-9835803.52</Y座標></row>
<row _id="217"><名称>得所句碑(本堅田1)</名称><説明>浮御堂(満月寺､本堅田1丁目16-18)境内に1845年10月に建てられました｡高さ1.02mで｢木がらしの手をはなれけりうきﾐ堂｣と詠まれています｡</説明><X座標>-717133.3661</X座標><Y座標>-9874866.028</Y座標></row>
<row _id="218"><名称>中尾吸江句碑(坂本本町)</名称><説明>昭和55年(1980)秋に建立されました｡高さ86cmで｢霧がくれ杉がくれゆく比叡の僧｣と詠われています｡裏面に天台座主山田恵諦が建碑の由来を記しています｡延暦寺横川の元三大師堂前にあります｡</説明><X座標>-1346321.345</X座標><Y座標>-10016262.14</Y座標></row>
<row _id="219"><名称>大萱の浜の碑(大萱5)</名称><説明>近江国府上納の米は､この大萱浜で荷揚げをして大萱村の中央を南行する､通称｢大道｣を通って運んだと言われています｡昭和60年7月に貴船神社(大萱5丁目4番街区南東端の姥田川沿い)前に建てられ｢史跡大萱の浜｣と題し､その由来を記しています｡高さ1.64mの碑です｡</説明><X座標>-757365.33</X座標><Y座標>-11201316.63</Y座標></row>
<row _id="220"><名称>庚申塔(伊香立南庄町)</名称><説明>堅田から南庄の旧道にあります｡平安時代に中国から伝わったものです｡庚申の日にお参りをします｡</説明><X座標>-1018368.61</X座標><Y座標>-9676567.8</Y座標></row>
<row _id="221"><名称>中本紫公句碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺東塔の文殊楼の前にあります｡｢落し文あらむか月の比叡泊まり 紫公｣と詠まれています｡昭和40年5月に建立されました｡膳所中庄に長く住まいした俳人です｡俳句雑誌｢花藻｣を創刊しました｡</説明><X座標>-1440575.52</X座標><Y座標>-10310704.48</Y座標></row>
<row _id="222"><名称>織部高山古墳跡碑(大萱3)</名称><説明>大萱3丁目20番街区付近に昭和61年11月に建立されました｡高さ1.15mで｢この奥銅鏡等出土織部高山古墳跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-746997.52</X座標><Y座標>-11235523.94</Y座標></row>
<row _id="223"><名称>三翁碑(本堅田1)</名称><説明>本堅田1丁目22-30にある本福寺に高さ1.26mの芭蕉翁､千那翁､角上翁の碑が建てられています｡</説明><X座標>-735769.85</X座標><Y座標>-9862319.78</Y座標></row>
<row _id="224"><名称>虚子の塔(坂本本町)</名称><説明>高浜虚子が延暦寺に滞在した経験を基に書いた｢風流懺法｣で､延暦寺と結びつきができました｡昭和17年に横川中堂が雷火で焼失した際､虚子が多額の見舞金を送ったことから､昭和28年に塔が建てられ､参道に昭和54年に堅田ﾎﾄﾄｷﾞｽ会が句碑を建てました｡横川中堂から東に向かって進む左手にあります｡</説明><X座標>-1364149.16</X座標><Y座標>-10021200.53</Y座標></row>
<row _id="225"><名称>大石義民の碑(大石東1)</名称><説明>佐馬野峠(関津峠)の大石寄り(大石東1丁目1番街区北側県道沿い)に建立されている高さ1.88mの碑で､大正8年(1919年)2月に建てられました｡江戸時代に薪炭材木を運ぶ人馬の重税に対して直訴し刑に処せられた大石富川村の庄屋彦治と弟源吾の二人の義民を讃えたものです｡</説明><X座標>-736177.02</X座標><Y座標>-11979606.32</Y座標></row>
<row _id="226"><名称>岡本杏路句碑(坂本本町)</名称><説明>昭和28年に建てられました｡高さ63cmで｢うぐいすや檜山晴れつつ雪まとふ｣と詠まれています｡坂本ｹｰﾌﾞﾙの延暦寺駅前にあります｡</説明><X座標>-1425006.487</X座標><Y座標>-10354417.55</Y座標></row>
<row _id="227"><名称>大石東･関津領境碑(大石東1)</名称><説明>関津浄水場前(大石東1丁目北東端北側付近)に建てられています｡高さ72cmの碑で｢東村･関津村領境｣と刻まれています｡</説明><X座標>-735412.48</X座標><Y座標>-11975293.4</Y座標></row>
<row _id="228"><名称>伝教大師歌碑(坂本本町)</名称><説明>1983年正月に建立されました｡高さ1.73mで｢明らけく後の仏の御世までも光り伝へよ法のともしび｣と詠まれています｡延暦寺東塔の出世大黒堂前にあります｡</説明><X座標>-1442414.685</X座標><Y座標>-10316035.97</Y座標></row>
<row _id="229"><名称>真野の入江跡碑(真野4)</名称><説明>大津には､歌枕(うたまくら)となった景勝地が多くあります｡平安時代末期の歌人源俊頼(みなもととしより)が｢うづらなく､真野(まの)の入り江の浜風に尾花なみよる秋の夕ぐれ｣と歌った真野の入江もその一つです｡旧入江最深部といわれる付近(真野4丁目22番街区南東端)に､その跡碑があります｡</説明><X座標>-733958.1588</X座標><Y座標>-9631790.938</Y座標></row>
<row _id="230"><名称>慈鎮和尚歌碑(坂本本町)</名称><説明>大正7年(1918)2月に建立されました｡高さ96cmで｢唐崎の松は扇の要にてこぎゆく舟ﾊすみ絵なりけり｣と詠まれています｡延暦寺東塔文殊楼前にあります｡</説明><X座標>-1440166.453</X座標><Y座標>-10311803.81</Y座標></row>
<row _id="231"><名称>近江国衙跡碑(大江6)</名称><説明>大江6丁目13番街区に昭和44(1969)年3月31日に建立されました｡高さ2.57mで｢近江国衙跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-733674.26</X座標><Y座標>-11377568.15</Y座標></row>
<row _id="232"><名称>織部古墳跡の碑(大萱3)</名称><説明>西浦神社(大萱3丁目16-1)に昭和58年9月15日に西浦神社復興御鎮座廿五年記念として建立されました｡高さ1.8m｢史跡･十禅師山蹟此処より西へ芦浦道迄､織部古墳跡此境内周辺と東ﾚ敷地の一部を含む｣と刻まれています｡</説明><X座標>-732555.73</X座標><Y座標>-11249707.7</Y座標></row>
<row _id="233"><名称>沢庵和尚詩碑(坂本5)</名称><説明>昭和47年(1972)に､十七万日大法会記念として建立されました｡高さ1.3mで｢西方の行者斯れを卜す 不断の称名日夜閑かなり 水も鳥も樹も林も皆念仏なり 見来す安養は人間に在りと｣と刻まれています｡坂本5丁目13-1の西教寺門前にあります｡</説明><X座標>-1198116.782</X座標><Y座標>-10204258.73</Y座標></row>
<row _id="234"><名称>明治二十九年洪水石標(大萱3)</名称><説明>明治29年9月23日の琵琶湖大洪水の水位を石垣に横線で刻み､その上に碑が建てられています｡昭和46年8月に善念寺(大萱3丁目8-18)のうらに建てられた高さ37cmの碑です</説明><X座標>-724408.36</X座標><Y座標>-11207812.4</Y座標></row>
<row _id="235"><名称>川村多実二歌碑(坂本本町)</名称><説明>昭和29年5月16日に建立されました｡高さ1.34mで｢時ならぬつばきの花をよろこびてめじろ友よぶ山かげの寺｣と詠まれています｡延暦寺西塔の釈迦堂前にあります｡</説明><X座標>-1514873.386</X座標><Y座標>-10270364.23</Y座標></row>
<row _id="236"><名称>米沢吾亦紅句碑(坂本本町)</名称><説明>昭和52年10月9日に建立されました｡｢香月の湖の全貌となりにけり｣と詠まれています｡延暦寺横川秘法館前にあります｡</説明><X座標>-1355198.579</X座標><Y座標>-10032668.86</Y座標></row>
<row _id="237"><名称>三宮義胤碑(真野6)</名称><説明>真野六丁目37番街区の正源寺墓地にある､勤王志士の碑です｡岩倉具視に従って倒幕運動に奔走しました｡後にｲｷﾞﾘｽに留学し､宮内省式部長になりました｡</説明><X座標>-713182.3715</X座標><Y座標>-9568283.185</Y座標></row>
<row _id="238"><名称>浮御堂再建記念碑(本堅田1)</名称><説明>明治32(1899)年､満月寺(本堅田1丁目16-18)境内に建立されました｡浮御堂の沿革と再建を記した碑文が刻まれています｡</説明><X座標>-716536.45</X座標><Y座標>-9873734.89</Y座標></row>
<row _id="239"><名称>平井乙磨歌碑(坂本本町)</名称><説明>昭和47年5月21日に建立されました｡高さ1.54mで｢大比叡の横川の夜あけみ仏の夢にかげひくもヽ鳥のこゑ｣と詠まれています｡延暦寺横川秘法館前にあります｡</説明><X座標>-1355528.051</X座標><Y座標>-10031790.39</Y座標></row>
<row _id="240"><名称>古堂御旅所の碑(大萱2)</名称><説明>大萱2丁目33-16の北側にあり､｢古堂御旅所｣と刻んであります｡</説明><X座標>-715315.73</X座標><Y座標>-11253109.87</Y座標></row>
<row _id="241"><名称>裳立山(紀貫之)の碑(坂本本町)</名称><説明>｢古今和歌集｣の代表歌人で､三十六歌仙の一人です｡土佐日記の作者でもあり､裳立山に葬るよう願っていたと言われています｡坂本本町の裳立山(もたてやま)の山頂に墓とともにあります｡</説明><X座標>-1366607.033</X座標><Y座標>-10389618.9</Y座標></row>
<row _id="242"><名称>浜中柑児句碑(唐崎1)</名称><説明>唐崎神社(唐崎1丁目7-1)の唐崎の松の東側に建てられています｡大津市に住み県内の有力なﾎﾄﾄｷﾞｽ派の俳人として活躍しました｡｢唐崎に群れて秋蒸波を打ち 柑児｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1144777.75</X座標><Y座標>-10569310.54</Y座標></row>
<row _id="243"><名称>奥野椰子生誕地碑(本堅田2)</名称><説明>堅田出身で｢琵琶湖哀歌｣や戦後の大ﾋｯﾄ曲｢夜のﾌﾟﾗｯﾄﾎｰﾑ｣等を作詞しました｡音楽著作権の確立や競輪事業の普及発展に尽力しました｡碑は堅田港(本堅田2丁目2番街区)付近に建立されています｡</説明><X座標>-714491.44</X座標><Y座標>-9848471.64</Y座標></row>
<row _id="244"><名称>松尾芭蕉句碑(神宮町)</名称><説明>昭和32年(1957)4月7日正風詩百号を記念して近江神宮(神宮町1-1)境内に建立されました｡高さ2.85m｢から崎の松は花より朧にて｣と詠われています｡</説明><X座標>-1314282.35</X座標><Y座標>-10742234.8</Y座標></row>
<row _id="245"><名称>淡海節の碑(本堅田2)</名称><説明>本堅田2丁目1-2にある志賀廼家淡海の生家跡に立つ記念碑です｡淡海は堅田出身の喜劇人で､ﾕｰﾓｱと哀調を帯びた淡海節は人気がありました｡駅前に淡海の顕彰碑が立っています｡</説明><X座標>-707150.78</X座標><Y座標>-9850634.05</Y座標></row>
<row _id="246"><名称>堅田漁港竣工記念碑(本堅田2)</名称><説明>昭和54年11月漁港竣工を記念して堅田漁港(本堅田2丁目13番街区付近)内に建てられました｡高さ1mで､｢堅田漁港竣工記念｣と刻まれています｡</説明><X座標>-702017.0695</X座標><Y座標>-9811280.453</Y座標></row>
<row _id="247"><名称>桂樟蹊子句碑(神宮町)</名称><説明>昭和54年(1979)11月3日に建立されました｡高さ1.1m｢漏刻の音とこしへに初日影｣と詠まれています｡神宮町1-1の近江神宮内にあります｡</説明><X座標>-1346975.428</X座標><Y座標>-10741358.92</Y座標></row>
<row _id="248"><名称>正林坊(大萱2)</名称><説明>正林坊はかっての東光寺の坊の一つでした｡今は児童公園(大萱2丁目22番街区､宮ﾉ口児童遊園地)になっていますが昔は池でした｡友人と魚釣りをしたり､凍ったときはその上で遊んだり､また洗濯などもされていました｡たいへん懐かしい場所です｡高さ1.2mで｢正林坊池跡｣と刻まれた碑が､昭和51年3月に建立されています｡</説明><X座標>-699582.36</X座標><Y座標>-11237716.55</Y座標></row>
<row _id="249"><名称>木下碧露歌碑(茶が崎)</名称><説明>高さ94cm｢近江富士かぎろいの立つ見え初めて漁舟見ゆ琵琶の湖原｣と歌われています｡茶が崎4-3の旅亭紅葉敷地内にあります｡</説明><X座標>-1260374.082</X座標><Y座標>-10838510.75</Y座標></row>
<row _id="250"><名称>花登筺生誕之地碑(長等1)</名称><説明>｢ぼてじゃこ物語｣の作者､花登筺の生誕の家の前に建立されています｡長等1丁目3-24付近の川崎家の前にあります｡</説明><X座標>-1292848.84</X座標><Y座標>-10999532.98</Y座標></row>
<row _id="251"><名称>萱野神社由緒碑(大萱2)</名称><説明>萱野神社(大萱2丁目21-1)内に明治42年10月に建立されました｡高さ1.71mで萱野神社の由緒を記しています｡</説明><X座標>-692230.9</X座標><Y座標>-11240494.77</Y座標></row>
<row _id="252"><名称>松尾芭蕉句碑(園城寺町)①</名称><説明>昭和46年5月に三井寺の円満院(園城寺町33)に建立されました｡高さ1.61mで｢大津絵の筆のはじめは何仏｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1336982.248</X座標><Y座標>-10934543.43</Y座標></row>
<row _id="253"><名称>宮相撲力士の碑(大萱2)</名称><説明>萱野神社(大萱2丁目21-1)の境内にあります｡長細い切り石を三段に重ねたものです｡昭和48年4月1日の建立で､高さ1.23m上段に｢宮相撲力士之碑｣と刻まれています｡拝殿の雨切り石に使っていた石に11人の氏子力士の名が見つかり碑としました｡</説明><X座標>-686905.21</X座標><Y座標>-11239574.33</Y座標></row>
<row _id="254"><名称>野神社旧蹟の碑(大江4)</名称><説明>大江東自治会館(大江4丁目21-19)前にあります｡三十六歌仙に数えられた大江千里が住んだと伝えられる場所です｡千里は地元では｢ちりんさん｣と呼ばれています｡</説明><X座標>-684674.58</X座標><Y座標>-11307973.86</Y座標></row>
<row _id="255"><名称>一指句碑(御陵町)</名称><説明>1979年3月1日に建立されました｡｢さざ波のきらめきよする良夜かな｣と詠まれています｡御陵町2-3の市民文化会館の庭内にあります｡</説明><X座標>-1344160.224</X座標><Y座標>-10917144.46</Y座標></row>
<row _id="256"><名称>瀬田駅前土地区画整理事業竣工記念碑(大萱1)</名称><説明>JR瀬田駅(大萱1丁目10-1)前に昭和52年3月29日建立されました｡高さ96cmで｢瀬田駅前土地区画整理事業竣工記念碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-684117.76</X座標><Y座標>-11242041.12</Y座標></row>
<row _id="257"><名称>鈴鹿野風呂句碑(御陵町)</名称><説明>昭和36年(1961)2月に建立されました｡高さ82cm｢大琵琶の八十の浦なる浮寝鳥｣と詠まれています｡御陵町2-3の市民文化会館の庭内にあります｡</説明><X座標>-1342884.304</X座標><Y座標>-10916100.53</Y座標></row>
<row _id="258"><名称>新茂智神社由緒碑(関津4)</名称><説明>新茂智神社(関津4丁目8-1)の境内に昭和60(1986)年2月に建立されました｡高さ1.52mで新茂智神社の由緒の略記を刻んでいます｡</説明><X座標>-672921.27</X座標><Y座標>-11880443.71</Y座標></row>
<row _id="259"><名称>今堀勘右衛門歌碑(三井寺町)</名称><説明>1980年に建立されました｡高さ99cm｢長等の宮一千三百年の昔日を偲びて仰ぐ岩座の滝｣と詠まれています｡三井寺町4-1の長等神社にあります｡</説明><X座標>-1314835.445</X座標><Y座標>-10985682.59</Y座標></row>
<row _id="260"><名称>勾当内侍碑(今堅田2)</名称><説明>今堅田2丁目32-3にある野神神社の境内にあります｡1836年に建立されました｡内侍の追悼の碑文が刻まれています｡</説明><X座標>-669848.11</X座標><Y座標>-9734196.7</Y座標></row>
<row _id="261"><名称>井上士郎句碑(園城寺町)</名称><説明>文政元年(1818)5月16日に建立され､園城寺観音堂の裏山に小関越から移転されたといわれています｡高さ1.06m｢つくづくと見て居れﾊﾞちる桜かな｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1325520.71</X座標><Y座標>-10978843.95</Y座標></row>
<row _id="262"><名称>琵琶湖大橋開通記念碑(今堅田3)</名称><説明>琵琶湖大橋西詰め(今堅田3丁目1番街区付近)に昭和39年9月｢記念碑｣と題し､開通の経緯を記して建てられました｡</説明><X座標>-658449.2</X座標><Y座標>-9724345.39</Y座標></row>
<row _id="263"><名称>平忠度歌碑(三井寺町)</名称><説明>長等神社(三井寺町4-1)鎮座一千三百年記念として長等公園桜ヶ丘の碑を模刻して､昭和57年(1982)4月に建立されました｡高さ1.39m｢さゞ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな｣と詠われています｡</説明><X座標>-1315646.32</X座標><Y座標>-10987176.84</Y座標></row>
<row _id="264"><名称>石翁･宮秀句碑(小関町)</名称><説明>小関天満宮(小関町7-5)に建てられています｡高さ1m｢梅が枝に栄る宮の産子哉(石翁)､梅が香の中に広がる扇子かな(宮秀)｣と詠まれています｡</説明><X座標>-1317188.14</X座標><Y座標>-11001655.85</Y座標></row>
<row _id="265"><名称>一里塚の碑(一里山2)</名称><説明>一里塚の碑(一里山2丁目18-13付近)は､昭和51(1976)年3月､瀬田大萱の有志が一里塚趾地に高さ1.8mの碑を建立しました｡</説明><X座標>-654728.4</X座標><Y座標>-11276876.79</Y座標></row>
<row _id="266"><名称>松尾芭蕉句碑(小関町)</名称><説明>昭和43年(1968)4月に建立されました｡高さ70cm｢山路きてなにやらゆかしすﾐれ草｣と詠まれています｡この句は1684年江戸から郷里の伊賀へ帰ったときに､関西各地を歴遊して翌年江戸に戻ったときの紀行文である｢野ざらし紀行｣にみえます｡紀行文によるとこの句には｢大津に至る道､山路をこえて｣との前書きがあり､この山路は小関越と考えられています｡小関町7-5の小関天満宮の境内にあります｡</説明><X座標>-1316082.162</X座標><Y座標>-11003054.03</Y座標></row>
<row _id="267"><名称>旅順陥落記念碑(里5)</名称><説明>明治38年1月1日(1905)に毛知比神社(里町5丁目7-20)に旅順陥落を記念して建立されました｡高さ1.26mで｢旅順陥落記念｣と刻まれています｡</説明><X座標>-625651.23</X座標><Y座標>-11766168.35</Y座標></row>
<row _id="268"><名称>加藤知多雄歌碑(園城寺町)</名称><説明>昭和59年(1984)10月21日に建立されました｡高さ98cm｢形なき水をたゝへてみづうﾐと呼ぶしづけさよ時雨のおくに｣と詠われています｡三井寺の法明院付近にあります｡</説明><X座標>-1370973.133</X座標><Y座標>-10877968.67</Y座標></row>
<row _id="269"><名称>砂防百年の碑(枝3)</名称><説明>昭和49(1974)年11月に田上公園(枝3丁目1番街区)内に建立されました｡明治7年以降百年の歴史などが記されています｡この事業は全国初の内務省直轄事業でした｡高さ1mの台形状の碑に直径30cmの球を乗せています｡碑は山腹工の積苗工を形取り､球は植栽木を表現しています｡</説明><X座標>-615249.4</X座標><Y座標>-11766791.62</Y座標></row>
<row _id="270"><名称>西川峡陽句碑(音羽台)</名称><説明>高さ1.1mで｢痩骨をうめてながらの花の宿｣と喜寿の句を刻んでいます｡音羽台1-12の高山寺霊園にあります｡</説明><X座標>-1265170.529</X座標><Y座標>-11085567.18</Y座標></row>
<row _id="271"><名称>砂防先人の碑(枝3)</名称><説明>昭和61年6月に田上公園(枝3丁目1番街区)に建立されました｡高さ2.25m｢近代砂防発祥地･砂防先人の碑(河村瑞軒･ﾃﾞﾚｰｹ･市川義方･西川作平･井上清太郎･赤木正雄らを顕彰)｣と刻まれています｡</説明><X座標>-611443.5</X座標><Y座標>-11766486.07</Y座標></row>
<row _id="272"><名称>新田開発発祥地の碑(月輪3)</名称><説明>｢月輪栗林史｣の発刊を記念して昭和56年月輪寺(月輪3丁目2-1)前に碑が建立されました｡高さ2.25m｢新田開発発祥之地｣と刻まれています｡1673年に大萱村山内新田の開発が京都の金銀座の6名が膳所藩主に嘆願したことにより始められました｡明治5年大萱新田村として栗太郡に､また明治7年に月輪村と改称されました｡</説明><X座標>-586982.5051</X座標><Y座標>-11242319.53</Y座標></row>
<row _id="273"><名称>菅沼曲翠･破鏡尼句碑(秋葉台)</名称><説明>曲翠250回忌として昭和43年(1968)初夏に建立されました｡高さ67cmで､曲翠｢飛込んだ雲もけさなし時鳥｣､妻破鏡尼｢谷深しつゆに時雨る日の光｣と詠まれています｡秋葉台35-9の芭蕉会館敷地内にあります｡</説明><X座標>-1054701.424</X座標><Y座標>-11185713.4</Y座標></row>
<row _id="274"><名称>湖魚飴煮開祖の碑(石山寺1)</名称><説明>京阪石山寺駅の南の山側の植え込みの中(石山寺1丁目2-15の南側)に､高さ2.83mの碑が建立されています｡湖魚の飴煮の開祖･川崎芳松の遺徳をたたえて建てられたものです｡</説明><X座標>-873008.46</X座標><Y座標>-11486211.77</Y座標></row>
<row _id="275"><名称>松尾芭蕉句碑(瀬田1)</名称><説明>瀬田唐橋の上流の瀬田漁港(瀬田1丁目27番街区)の横の川岸に建てられています｡｢五月雨に隠れるものや瀬田の橋｣と詠われています｡</説明><X座標>-836112.9</X座標><Y座標>-11358382.27</Y座標></row>
<row _id="276"><名称>明治天皇行幸碑(月輪3)</名称><説明>月輪寺(月輪3丁目2-1)の前に昭和3年3月に建てられました｡高さ1.97m｢明治天皇御東遷御駐輦之所､明治元年(1868)車駕東幸九月二十一日過午御輦玉座在寺内｣と刻まれています｡</説明><X座標>-586570.6153</X座標><Y座標>-11242937.37</Y座標></row>
<row _id="277"><名称>建部木人他句碑(神領1)</名称><説明>昭和39年4月に建部大社(神領1丁目16-1)に建てられました｡高さ1.79mで｢建部木人｢花小さくいく世咲き継ぎ梅古木｣同喜恵女｢賜りし母の便りの春の末え｣､同小木人｢春のきしや西方へ行けば母元｣｣と刻まれています｡</説明><X座標>-789982.55</X座標><Y座標>-11386458.49</Y座標></row>
<row _id="278"><名称>松田夕渚句碑(大萱1)</名称><説明>大萱1丁目6番街区にある昭和の霊園(西野墓地)に昭和41年3月に建てられました｡高さ65cm｢弔わむ嵐に散りし若桜｣と詠われています｡</説明><X座標>-699472.6972</X座標><Y座標>-11261392.74</Y座標></row>
<row _id="279"><名称>日露戦役記念碑(森3)</名称><説明>八幡宮(森3丁目8-1付近)に建てられています｡高さ2.15mで｢戦役記念､明治三十七､八年(1904､5)と刻まれています｡</説明><X座標>-528724.47</X座標><Y座標>-11753289.67</Y座標></row>
<row _id="280"><名称>久保萱堂句碑(大萱2)</名称><説明>昭和31年古稀を記念して大萱2丁目21-1の萱野神社に建てられました｡高さ1.19m｢古稀未だめがね要せず福寿草｣と詠われています｡</説明><X座標>-690961.65</X座標><Y座標>-11238647.1</Y座標></row>
<row _id="281"><名称>月輪大池の碑(月輪4)</名称><説明>月輪大池(月輪4丁目4番街区)は延宝3年(1675)に掘削されました｡住宅地に隣接した大きなため池です｡堤防の上は風情があり散策路に利用されています｡</説明><X座標>-501838.61</X座標><Y座標>-11318253.23</Y座標></row>
<row _id="282"><名称>松田夕渚歌碑(大萱1)</名称><説明>高さ1.02mの碑で大萱1丁目6番街区にある昭和の霊園(西野墓地)に建てられています｡｢英霊を弔わむとの一念に昭和の碑をぞ護り続けむ(米寿の詠)｣と詠われています｡</説明><X座標>-701210.3542</X座標><Y座標>-11262894.69</Y座標></row>
<row _id="283"><名称>新免古墳群の碑(上田上新免町)</名称><説明>上田上新免町(新免2丁目の東側)の古墳群の場所に､昭和55年10月に建立されました｡高さ1mで｢新免古墳群｣と刻まれています｡</説明><X座標>-424926.53</X座標><Y座標>-11695415.2</Y座標></row>
<row _id="284"><名称>大萱戦争未亡人会歌碑(大萱1)</名称><説明>昭和54年3月大萱1丁目6番街区の昭和の霊苑(西野墓地)前に母子像とともに建立されました｡総高2.85m｢ふかぶかときずつきたりし戦ひのかなしみもちて母子像たつる(松尾とみ･同嘉平次詠)｣と詠われています｡</説明><X座標>-699628.1458</X座標><Y座標>-11263016.4</Y座標></row>
<row _id="285"><名称>荒戸神社神官中野氏の碑(中野3)</名称><説明>荒戸神社(中野3丁目2-2)の参道脇に昭和11年に建立されました｡高さ3.4mで｢祠官碑｣と題し､神官中野氏の沿革を記しています｡</説明><X座標>-389799.7519</X座標><Y座標>-11630342.1</Y座標></row>
<row _id="286"><名称>松田夕渚歌碑(大萱2)</名称><説明>昭和47年5月に喜寿を記念して大萱2丁目21-1の萱野神社に建立されました｡高さ76cm｢親のおや其また親を尋ぬれば此氏神におわす大神｣と詠まれています｡</説明><X座標>-690961.65</X座標><Y座標>-11238647.1</Y座標></row>
<row _id="287"><名称>法蔵禅寺跡碑(中野3)</名称><説明>荒戸神社(中野3丁目2-2)の参道脇に昭和56年に建立されました｡高さ97cmで｢宝蔵禅寺跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-390094.9383</X座標><Y座標>-11629104.59</Y座標></row>
<row _id="288"><名称>将軍塚古墳群の碑(牧2)</名称><説明>牧2丁目南側大戸川付近に､昭和57年11月に建立されました｡高さ1.09mで｢将軍塚古墳群｣と刻まれています｡</説明><X座標>-361965.78</X座標><Y座標>-11593762.14</Y座標></row>
<row _id="289"><名称>発電所工事の供養塔(牧1)</名称><説明>二箇所在る墓地の一つ(牧1丁目16番街区)に大戸川発電所を作られたときの犠牲者を弔う供養塔があります｡｢大戸川水電工事 横死者の碑｣と大きく彫られ､その下に多くの犠牲者の名前が刻まれています｡横死とは思いがけない災害で死ぬことをいいます｡</説明><X座標>-308111.4632</X座標><Y座標>-11573508.23</Y座標></row>
<row _id="290"><名称>山本栗斎の碑(桐生1)</名称><説明>個人の庭内にあります｡高さは1.95m､｢栗斎先生碑｣と題額し､明治44年に建立されました｡初代上田上村長をつとめ医者･漢詩人としても知られています｡｢栗太郡志｣16巻を書いています｡</説明><X座標>-120696.45</X座標><Y座標>-11373522.45</Y座標></row>
<row _id="291"><名称>湖西線建設工事慰霊碑(真野1)</名称><説明>昭和49年(1974)7月に､建立されました｡高さ1.2mで､おもてに｢慰霊碑｣､うらに建碑の由来が刻まれています｡堅田駅東側の南端(真野1丁目1-75付近)にあります｡</説明><X座標>-775523.1341</X座標><Y座標>-9758771.03</Y座標></row>
<row _id="292"><名称>逆水の碑</名称><説明>ﾛｰｽﾞﾀｳﾝ開発に際し､防火用水･農業用水のために琵琶湖からの逆水をひきました｡これを記念して建てられた碑です｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="293"><名称>在日朝鮮人帰国記念碑(本堅田3)</名称><説明>堅田小学校(本堅田3丁目6-1)にあります｡在日朝鮮人帰国記念植樹もされました｡高さ48cmで､1960年に建立されました｡</説明><X座標>-762081.46</X座標><Y座標>-9838265.88</Y座標></row>
<row _id="294"><名称>瀬田城跡山門と石碑(瀬田2)</名称><説明>瀬田城は京へ通じる東海道の重要な瀬田の唐橋を守る出城として有名です｡山門と石碑(瀬田2丁目13-26､臨湖庵北側付近)が建てられています｡石碑は昭和40年10月17日建立され､高さ1.88mで｢勢多古城址碑｣と題した､瀬田城主山岡氏の沿革を記しています｡</説明><X座標>-846815.75</X座標><Y座標>-11413214.9</Y座標></row>
<row _id="295"><名称>林道改修記念碑(仰木町)</名称><説明>昭和25年2月に建てられました｡高さ1.08mで｢林道改修記念碑｣と刻まれています｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="296"><名称>苗鹿今千野線道路開通記念碑(千野3)</名称><説明>高さ1.1mの記念碑(千野3丁目)です｡｢苗鹿今千野線道路開通記念 起工昭和八年十二月､竣工同九年三月､延長一三一三ﾒｰﾄﾙ､工費五五五〇円｣と刻まれています｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="297"><名称>裳立山の碑(坂本本町)</名称><説明>明治45年(1912)1月13日に裳立山山頂の紀貫之の墓のそばに建立されました｡高さ2.31mで｢裳立山之碑｣と題額し､紀貫之の歌道における功績をたたえ､明治天皇も歌道に理解が深いことを喜ぶ碑文が刻まれています｡</説明><X座標>-1366105.321</X座標><Y座標>-10388214.22</Y座標></row>
<row _id="298"><名称>浄刹結界跡碑(坂本本町･飯室奈良坂)</名称><説明>大正10年(1921)3月に建立されました｡高さ1.24mで｢浄刹結界趾｣と刻まれています｡(飯室奈良坂) 坂本5丁目の西教寺から500m､飯室谷不動堂から800m手前にあります｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="299"><名称>天然記念物比叡山鳥類蕃殖地の碑①(坂本本町)</名称><説明>昭和7年7月に建立されました｡高さ1.83mで｢天然記念物比叡山鳥類蕃殖地､史蹟名勝天然記念物保存法ﾆ依り昭和五年十月文部大臣指定｣と刻まれています｡(延暦寺西塔釈迦堂前)</説明><X座標>-1515988.64</X座標><Y座標>-10266216.19</Y座標></row>
<row _id="300"><名称>南光坊旧跡の碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺東塔第三駐車場にあり､高さ1.83mで｢慈眼大師天海大僧正･南光坊旧跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1216670.76</X座標><Y座標>-10325814.36</Y座標></row>
<row _id="301"><名称>大塔宮遺跡の碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺東塔出世大黒天の西側にあり､高さ2.44mで｢大塔宮護良親王御遺跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1443114</X座標><Y座標>-10314089.74</Y座標></row>
<row _id="302"><名称>天然記念物比叡山鳥類蕃殖地の碑②(坂本本町)</名称><説明>昭和7年7月に建立されました｡高さ1.82mで｢天然記念物比叡山鳥類蕃殖地､史蹟名勝天然記念物保存法ﾆ依り昭和五年十月文部大臣指定｣と刻まれています｡(延暦寺東塔案内所付近)</説明><X座標>-1450939.062</X座標><Y座標>-10321379.65</Y座標></row>
<row _id="303"><名称>円教院旧跡の碑(坂本本町･延暦寺東塔山王院西側)</名称><説明>明治25年(1892)に建てられました｡高さ91cmで｢円教院旧跡｣と刻まれています｡延暦寺東塔山王院西側にあります｡</説明><X座標>-1495481.812</X座標><Y座標>-10322240.15</Y座標></row>
<row _id="304"><名称>天然記念物比叡山鳥類蕃殖地の碑③(坂本本町)</名称><説明>昭和7年7月に建立されました｡高さ1.76mで｢天然記念物比叡山鳥類蕃殖地､史蹟名勝天然記念物保存法ﾆ依り昭和五年十月文部大臣指定｣と刻まれています｡(延暦寺東塔山王院西)</説明><X座標>-1492775.99</X座標><Y座標>-10321713.88</Y座標></row>
<row _id="305"><名称>親鸞上人旧跡の碑(坂下本町･延暦寺西塔にない堂南側)</名称><説明>高さ1.14mで｢親鸞聖人旧跡｣と刻まれています｡延暦寺西塔にない堂(常行堂と法華堂のこと)の南側にあります｡</説明><X座標>-1517673.228</X座標><Y座標>-10280969.51</Y座標></row>
<row _id="306"><名称>普潤国師の碑(坂本本町･延暦寺東塔延暦寺会館前)</名称><説明>明治40年1月3日に建立されました｡高さ1.68mで｢普潤国師碑銘｣と篆額し､｢岩佐普潤は最初の天台宗中学林黌長､明治三十四年没､七三歳｣と刻まれています｡延暦寺東塔延暦寺会館前にあります｡</説明><X座標>-1434561.32</X座標><Y座標>-10310056.71</Y座標></row>
<row _id="307"><名称>元三大師堂境界碑(坂本本町)</名称><説明>延暦寺横川行院前にあり､高さ86cmで｢是より西南大師堂境内｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1450708</X座標><Y座標>-10310688.71</Y座標></row>
<row _id="308"><名称>浄刹結界跡碑(坂本本町･延暦寺横川)</名称><説明>大正10年(1921)3月に建てられました｡高さ90cmで｢浄刹結界趾｣と刻まれています｡(延暦寺横川) 定光院まで500m手前のところにあり､仰木からの道にあります｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="309"><名称>浄刹結界跡碑(坂本本町･壺笠山西側)</名称><説明>大正10年(1921)3月に建てられました｡高さ100cmで｢浄刹結界趾｣と刻まれています｡延暦寺の結界です｡(白鳥越) 壺笠山の少し西側にあります｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="310"><名称>元三大師廟境界碑(坂本本町)</名称><説明>高さ70cmで｢是より西北御廟院内｣と刻まれています｡延暦寺横川の元三大師廟南側にあります｡</説明><X座標>-1347578.619</X座標><Y座標>-10016684.33</Y座標></row>
<row _id="311"><名称>足利･比叡完歩記念碑(坂本本町･延暦寺東塔延暦寺会館前)</名称><説明>延暦寺東塔延暦寺会館前に昭和60年(1985)3月に建立されました｡高さ1.69mで｢我が道を行く､栃木竜泉寺ｽｶｳﾄ団足利比叡完歩記念(昭和52年~60年の9年間4期に分けて完歩)｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1433793.469</X座標><Y座標>-10310568.14</Y座標></row>
<row _id="312"><名称>神宮寺旧趾の碑(坂本5)</名称><説明>坂本5丁目の八王子山(牛尾山)中に建てられています｡大正10年(1921)に伝教大師最澄の1100年遠忌記念に建立されました｡高さ1.04mで｢神宮寺旧趾｣と刻み､最澄が12年間の篭山修行の第一歩を踏みだした｢神宮禅院｣という草庵で天台宗延暦寺の発祥の地と言ってもいい記念すべき地です｡</説明><X座標>-1280284.269</X座標><Y座標>-10272992.86</Y座標></row>
<row _id="313"><名称>海鷲の碑(際川1)</名称><説明>昭和53年に建立されました｡昭和17年に発足した大津海軍航空隊は20機以上の戦闘機｢赤ﾄﾝﾎﾞ｣を有していました｡終戦末期には実践航空隊として｢海鷲｣と呼ばれていました｡自衛隊大津駐屯地内(際川1丁目1-1)にあります｡</説明><X座標>-1216089.204</X座標><Y座標>-10683656.38</Y座標></row>
<row _id="314"><名称>農地報償の碑(神宮町)</名称><説明>昭和44年(1969)6月に近江神宮境内(神宮町1-1)に建立されました｡高さ1.32mで､表に｢農地報償｣(佐藤栄作首相書)と刻み､裏に｢農地改革史｣を記しています｡</説明><X座標>-1354058.63</X座標><Y座標>-10733859.58</Y座標></row>
<row _id="315"><名称>梵釈寺旧跡の碑(南志賀2)</名称><説明>南志賀1丁目16番街区の旧正興寺門前に大正4年(1915)11月に建立されました｡高さ1.07m｢梵釈寺旧跡｣と刻まれています｡現在の正興寺は､北西方向の南志賀2丁目19-2にあります｡</説明><X座標>-1348670.38</X座標><Y座標>-10688576.67</Y座標></row>
<row _id="316"><名称>近江･山城国境碑(山中町)</名称><説明>高さ1.61mで｢是より西南山城国･是より東北近江国｣と刻まれています｡山中町8-3付近の府県境にあります｡</説明><X座標>-1675676.255</X座標><Y座標>-10641653.27</Y座標></row>
<row _id="317"><名称>貴田市兵衛の碑(大谷町)</名称><説明>旧逢坂山検問所跡の横に大正11年9月に建立されました｡高さ2.18m､｢貴田市兵衛翁碑｣と題し､関寺町又平谷一帯の植林の功績を顕彰しています｡大谷町22-9付近にあります｡</説明><X座標>-1319004.406</X座標><Y座標>-11156835.53</Y座標></row>
<row _id="318"><名称>在日朝鮮人帰国記念碑(茶戸町)</名称><説明>藤尾小学校(茶戸町10-1)に建てられています｡1960年に建てられました｡高さ93cm｢在日朝鮮公民帰国記念｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1529620.8</X座標><Y座標>-11148913.66</Y座標></row>
<row _id="319"><名称>寺門領境碑(横木1)</名称><説明>高さ1.07m､｢是より西寺門領｣と二面に刻まれた碑が閑栖寺(横木1丁目2-2)に建てられています｡</説明><X座標>-1501542.14</X座標><Y座標>-11188089.15</Y座標></row>
<row _id="320"><名称>池田栄寿斎頌徳碑(小関町)</名称><説明>1915年11月に建立されました｡高さ1.88mで｢華道未生流師範代･池田栄寿斎松甫翁頌徳碑｣と刻まれています｡小関町6-29付近にあります｡</説明><X座標>-1334134.022</X座標><Y座標>-11007991.89</Y座標></row>
<row _id="321"><名称>滋賀県警察官忠魂碑(園城寺町)</名称><説明>園城寺観音堂の裏山に明治44年4月に建てられました｡高さ3.35mで｢滋賀県警察官忠魂碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1324000.18</X座標><Y座標>-10979154.21</Y座標></row>
<row _id="322"><名称>吉田健作の碑(園城寺町)</名称><説明>園城寺観音堂の裏山に明治27年2月に建立されました｡高さ1.61mで｢近江麻糸紡織場の創立等､わが国紡績業の先駆者吉田健作の顕彰碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1324000.18</X座標><Y座標>-10979154.21</Y座標></row>
<row _id="323"><名称>近江婦人慈善会昭徳碑(園城寺町)</名称><説明>明治23年9月に園城寺観音堂南側の裏山に建立されました｡高さ2.5mで｢近江婦人慈善会昭徳碑｣と題額し､明治二十年発足の同会の沿革と初代会長中井竹子の功績を記しています｡</説明><X座標>-1326998.807</X座標><Y座標>-10980976.52</Y座標></row>
<row _id="324"><名称>明治天皇聖蹟碑(園城寺町)</名称><説明>三井寺(園城寺246)の円満院(園城寺町33)の前に昭和12年2月に建立されました｡高さ1.96mで｢明治天皇別所行幸所､史蹟名勝天然記念物保存法ﾆ依ﾘ史蹟ﾄｼﾃ昭和九年十一月文部大臣指定｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1337873.71</X座標><Y座標>-10931994.09</Y座標></row>
<row _id="325"><名称>三谷重孝の碑(園城寺町)</名称><説明>園城寺観音堂南側の裏山に､明治18年2月に建立されました｡野洲郡出身で近江茶業の発展に尽くした重孝の顕彰碑です｡高さ1.84mの碑です｡</説明><X座標>-1325694.49</X座標><Y座標>-10980564.63</Y座標></row>
<row _id="326"><名称>籠手田安定頌徳碑(園城寺町)</名称><説明>園城寺金堂の下に明治35年3月に建立されました｡高さ3.48mで｢篭手田君頌徳之碑｣と題額し､滋賀県令･知事として県治17年に及ぶ氏の徳政をたたえる顕彰碑です｡</説明><X座標>-1336689.634</X座標><Y座標>-10946132.14</Y座標></row>
<row _id="327"><名称>女人禁制碑(園城寺町)</名称><説明>園城寺勧学院(園城寺町)にあります｡はじめはどこに建てられていたのかは不明です｡高さ1.06m｢是よりおくへ女人きんせい｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1347041.65</X座標><Y座標>-10960942.99</Y座標></row>
<row _id="328"><名称>宇野修自の碑(小関町)</名称><説明>明治40年12月多病の父に考徳を尽くしましたが､不幸にして早世した修自を顕彰して建てられました｡高さ1.95mで｢孝子宇野修自之碑｣と題額し､顕彰しています｡小関町1の長等公園内にあります｡</説明><X座標>-1311442.191</X座標><Y座標>-11015122.16</Y座標></row>
<row _id="329"><名称>宇野保太郎の碑(小関町)</名称><説明>大正8年(1919)3月に建立されました｡高さ2.21mで｢興利賛化｣と題額し､大津市生まれでわが国麻業振興に尽くした実業家･宇野保太郎を顕彰しています｡小関町1-45の両国寺内にあります｡</説明><X座標>-1306010.084</X座標><Y座標>-11007678.16</Y座標></row>
<row _id="330"><名称>田口義門の碑(小関町)</名称><説明>大正4年(1915)1月に建立されました｡高さ1.87mで｢田口義門師寿碑｣と題し､近江婦人慈善会を創設し､その発展に尽くした功績を顕彰しています｡小関町1-45の両国寺内にあります｡</説明><X座標>-1305221.895</X座標><Y座標>-11008181.14</Y座標></row>
<row _id="331"><名称>松田孺人の碑(園城寺町)</名称><説明>園城寺観音堂裏山に明治31年(1898)5月に建立されました｡高さ2.2mで長く県内で教員を努めた松田孺人(勝子)を顕彰しています｡</説明><X座標>-1324000.18</X座標><Y座標>-10979154.21</Y座標></row>
<row _id="332"><名称>大津市政功労者顕彰碑(山上町)</名称><説明>昭和58年10月1日大津市政85周年を記念して建立されました｡山上町18番街区の高区配水池南側に主碑と副碑があります｡</説明><X座標>-1377504.282</X座標><Y座標>-10851786.7</Y座標></row>
<row _id="333"><名称>大津陸軍墓地移転記念碑(皇子が丘1)</名称><説明>昭和51年(1976)6月に建立されました｡高さ70cmで｢記念碑｣と題して､大津陸軍墓地(皇子が丘1丁目1番街区西大津ﾊﾞｲﾊﾟｽ山手)の由来と西大津ﾊﾞｲﾊﾟｽ工事にともなう移転の経緯を記しています｡</説明><X座標>-1378887.772</X座標><Y座標>-10815630.83</Y座標></row>
<row _id="334"><名称>川瀬太宰宅跡碑(尾花川)</名称><説明>大正11年に建立されました｡膳所藩家老戸田家の五男として生まれた儒学者川瀬太宰が尊皇攘夷運動に奔走しましたが､幕吏に捕らえられて処刑され､妻も自害しました｡その勤王の志をたたえるために建てられました｡尾花川9番街区にあります｡</説明><X座標>-1278154.773</X座標><Y座標>-10863007.49</Y座標></row>
<row _id="335"><名称>領境の石柱(牧2)</名称><説明>江戸時代のものと推定されています｡｢牧村 中野村領境｣と刻まれた石柱が建てられています｡この石柱が時によっては争いの原因となったであろうと偲ばれます｡</説明><X座標>-373381.71</X座標><Y座標>-11595298.53</Y座標></row>
<row _id="336"><名称>民生委員児童委員碑(御陵町)</名称><説明>市民文化会館(御陵町2-3)の庭内に昭和52年(1977)10月に民生委員制度六十周年を記念して建立されました｡高さ1.06mで｢民生委員児童委員顕彰碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1343425.5</X座標><Y座標>-10915040.33</Y座標></row>
<row _id="337"><名称>大津そろばんの碑(園城寺町)</名称><説明>高さ1.96mの主碑に｢大津そろばん｣と刻んでいます｡副碑には大津そろばんの由来を記しています｡三井寺観音堂裏山にあります｡</説明><X座標>-1325557.193</X座標><Y座標>-10983379.21</Y座標></row>
<row _id="338"><名称>歩兵第九連隊跡碑(御陵町)</名称><説明>昭和42年4月18日に建立されました｡高さ1.36mで｢歩兵第九連隊之跡｣と刻み､裏面に第九連隊の歴史が記されています｡市民文化会館(御陵町2-3)の庭内にあります｡</説明><X座標>-1345114.149</X座標><Y座標>-10917267.61</Y座標></row>
<row _id="339"><名称>西南戦争出征記念碑(園城寺町)</名称><説明>高さ6.6m､碑形は上部にいくほど細い四角錘の様な形状で､碑の左右にすえられた台石と併せて砲台の形を模しています｡西南戦争に従軍した歩兵第九連隊についての碑で､戦争の翌年､明治11年(1878)に建立されました｡碑面には｢記念碑｣と刻まれ､また､左右の台石に西南戦争の経過と碑の由来が刻まれています｡三井寺観音堂背後の御幸山山中にあります｡</説明><X座標>-1325583.563</X座標><Y座標>-10982117.36</Y座標></row>
<row _id="340"><名称>なべ塚の碑(園城寺町)</名称><説明>園城寺観音堂西方の台地に幕末･明治維新期の探検家松浦武四郎の愛用の鍋を埋めて建立しました｡明治16年(1883)7月の建立で､高さ1.83m､｢なべ塚｣と題額し､碑文が刻まれています｡</説明><X座標>-1323998.84</X座標><Y座標>-10978229.89</Y座標></row>
<row _id="341"><名称>梅田雲浜先生湖南塾址碑(大門通)</名称><説明>長等小学校(大門通5-1)の校門前にあり､高さ2.03m｢梅田雲濱先生湖南塾址 内田周平敬書｣と刻まれています｡石は出身地の福井県から運ばれました｡梅田雲浜は若狭小浜藩士の家に生まれましたが学問を学び上原立斎を頼って大津へやってきました｡初めは坂本で後に北保町で湖南塾を開き子弟の教育にあたりました｡ﾍﾟﾘｰ来航後は､尊皇攘夷運動に奔走し､安政の大獄で捕らえられ獄中で病死しました｡碑は所在地と推定される北保町に建てる計画でしたが三井寺駅に建てられ､その後鹿関町へ､そして現在の小学校へ移されました｡</説明><X座標>-1301654.39</X座標><Y座標>-10952380</Y座標></row>
<row _id="342"><名称>紀九老僑居の阯の碑長等2)</名称><説明>高さ1.16m｢画家紀九老僑居之阯｣と刻まれています｡戦争中に建てられました｡紀九老は1734年に山城の国鳥羽で生まれ､京都へ出て与謝蕪村に入門して絵と俳諧を学びました｡大津絵などの画家で五十五才の時に大津へ来ました｡住まい跡に碑が建てられています｡光徳寺の門前にあります｡</説明><X座標>-1264026.123</X座標><Y座標>-10988717.26</Y座標></row>
<row _id="343"><名称>間直之助博士顕彰碑(坂本本町･夢見ｹ丘)</名称><説明>比叡山ﾄﾞﾗｲﾌﾞｳｪｲの路傍に昭和57年7月に建てられました｡嵐山と比叡山の野猿の餌付けと調査研究をすすめ､ﾆﾎﾝｻﾙの保護と研究に一生を捧げた博士の略歴と｢間直之助博士 ひえいの山のさるを研究して､えさを運びつづけた二十五年､さるになった男に､きょうは花吹雪｣の一文が刻まれています｡比叡山ﾄﾞﾗｲﾌﾞｳｪｲの夢見ｹ丘にあります｡</説明><X座標>-1466892.6</X座標><Y座標>-10523271.01</Y座標></row>
<row _id="344"><名称>双烈連芳の碑(園城寺町)</名称><説明>三尾神社(園城寺町251)参道のかたわらに明治20年(1887)9月に建てられています｡高さ2.08m｢双烈連芳｣と題額され撰文が刻まれています｡川瀬太宰は1819年に膳所藩家老戸田資能の五男として生まれ､儒学を学びました｡膳所藩や長州藩の志士と交わり､尊皇攘夷運動に奔走しました｡京都で幕吏に捕らえられ､翌1866年6月に処刑されました｡碑は川瀬夫妻の勤王の志をたたえて建立されたものです｡</説明><X座標>-1318401.95</X座標><Y座標>-10964372.82</Y座標></row>
<row _id="345"><名称>伏龍祠跡(伊香立南庄町)</名称><説明>約40万年前の東洋象化石が出土した南庄のはずれに建っています｡高さ49cmです｡昔は象とは分からず龍の骨と考えられていました｡</説明><X座標>-1118157.69</X座標><Y座標>-9723593.12</Y座標></row>
<row _id="346"><名称>明治天皇聖蹟(大津宿本陣)碑</名称><説明>明治天皇､昭憲皇太后の御駐泊所です｡大津本陣跡で､明治天皇がしばしば御駐泊になった場所です｡昔､南尋常小学校の講堂の天井板に御泊まり居間､天井板が残されたと聞いておりましたが今はどうなっているのでしょうか｡御幸町6-13付近にあります｡</説明><X座標>-1263228.13</X座標><Y座標>-11027919.73</Y座標></row>
<row _id="347"><名称>蹴鞠神社旧址の碑(本宮2)</名称><説明>明治45年(1912)3月に平野神社の旧地(本宮2丁目6番街区)に建立されました｡高さ1.06m｢蹴鞠神社旧址｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1150955.76</X座標><Y座標>-11054563.03</Y座標></row>
<row _id="348"><名称>在日朝鮮人帰国記念碑(中庄2)</名称><説明>昭和35年(1960)7月に建立されました｡高さは65cmあり､｢帰国記念(植樹)｣と刻まれています｡膳所小学校内にあります｡</説明><X座標>-1016164.566</X座標><Y座標>-11184762.32</Y座標></row>
<row _id="349"><名称>膳所城二の丸跡碑(本丸町)</名称><説明>昭和46年(1971)3月に建立されました｡高さは69cmあり､｢膳所城二の丸跡｣と刻まれています｡本丸町7-1の膳所浄水場内にあります｡</説明><X座標>-960849.025</X座標><Y座標>-11159313.55</Y座標></row>
<row _id="350"><名称>膳所藩遵義堂跡碑(膳所2)</名称><説明>今の膳所高校の地(膳所2丁目11-1)に昭和46年(1971)3月に建立されました｡高さは1.53mあり､｢膳所藩遵義堂跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1003745.7</X座標><Y座標>-11132686.54</Y座標></row>
<row _id="351"><名称>保良宮碑(へそ石)(国分2)</名称><説明>保良宮は奈良時代､淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が中国･唐の慣習にならい平城京とは別に設けた都(陪都･ばいと)｡保良宮は未完成のまま廃止され､跡地も不明のままだが､国分二丁目には保良の地名を伝える洞神社の旧跡(国分2丁目17番街区)があり､また国分団地内には宮殿の礎石と伝える通称へそ石(北大路1丁目14-13の西方寺にあります)が残る｡</説明><X座標>-1023690.74</X座標><Y座標>-11507321.52</Y座標></row>
<row _id="352"><名称>史蹟幻住庵跡の碑(国分2)</名称><説明>昭和5年(1930)8月に近津尾神社(国分2丁目442)境内に建立されました｡高さ1.94mで｢史蹟幻住庵跡｣と刻まれています｡</説明><X座標>-1006661.94</X座標><Y座標>-11475913.37</Y座標></row>
<row _id="353"><名称>高日山星林院跡碑(仰木町平尾)</名称><説明>比叡山横川の支峰で伝教大師最澄が比叡山に大寺院を建てることを発願したときの霊験から高日山と名付けられました｡元三大師良源が院の名を付けました｡星林院は全て廃寺となっています｡そこには碑が建てられ､今は石段と井戸が残るだけとなっています｡大倉川上流の琵琶湖国際射撃場から少し登ったところにあります｡</説明><X座標>-1299786.151</X座標><Y座標>-9814078.985</Y座標></row>
<row _id="354"><名称>真田武左衛門の碑(石山寺1)</名称><説明>茶業振興､米質改良に貢献した石山村国分の真田氏を顕彰し､明治44年5月に建てられました｡高さ2.06m上部に緑綬褒章の表彰文､下部顕彰碑文が刻まれています｡石山寺1丁目2-15付近にあります｡</説明><X座標>-873504.7034</X座標><Y座標>-11485032.48</Y座標></row>
<row _id="355"><名称>松尾芭蕉句碑(石山寺1)</名称><説明>嘉永2年(1849年)石山寺(石山寺1丁目1-1)境内に建立された高さ1.36mの句碑で､『勢田に泊まりて暁石山寺に詣かの間を見る｢曙はまだむらさきにほととぎす｣』と刻まれています｡</説明><X座標>-861639.08</X座標><Y座標>-11532437.29</Y座標></row>
<row _id="356"><名称>宇治発電所導水路工事殉難碑(石山内畑町)</名称><説明>｢殉難碑｣と題し､裏面に三十年(1955)7月10日の事故犠牲者13名の氏名が刻まれています｡高さ1.33mで石山内畑町に昭和30年9月15日建立されました｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="357"><名称>山崩供養塔(石山千町)</名称><説明>1848年6月5日当谷(千丈川上流)の山崩れで洪水が出て､徳右衛門家内6人が溺死しました｡これを供養するためにこれを建てました(石山千町292-3付近)｡高さ1.57m｡</説明><X座標>-1071046.912</X座標><Y座標>-11647803.57</Y座標></row>
<row _id="358"><名称>三田六池創設者の碑(上田上桐生町)</名称><説明>池(上田上桐生町､桐生1丁目1番街区南側)は江戸時代に掘削されました｡高さ1.11m､昭和19年頃に建てられました｡｢三田六池創設者惣兵衛之碑｣と刻まれています｡</説明><X座標>-117407.88</X座標><Y座標>-11442537.24</Y座標></row>
<row _id="359"><名称>ほ場整備事業記念碑</名称><説明>昭和58年4月に建立されました｡｢桐生の里｣と題する主碑と沿革を記した副碑が建てられています｡昭和33年(1958)認可され､同57年完成､事業費約三億円､面積三二ﾍｸﾀｰﾙと刻まれています｡</説明><X座標 xsi:nil="true" /><Y座標 xsi:nil="true" /></row>
<row _id="360"><名称>箭&amp;#31795;(やの)神社由緒碑(桐生1)</名称><説明>箭&amp;#31795;神社(桐生1丁目11-12)由緒碑は､昭和53年に建立されました｡高さ1.1m､神社の由緒を略記しています｡</説明><X座標>-126276.67</X座標><Y座標>-11380916.16</Y座標></row>
<row _id="361"><名称>神領の石碑(神領1)</名称><説明>建部大社一の鳥居(神領1丁目14番街区南側)前に建てられています｡</説明><X座標>-805257.2451</X座標><Y座標>-11395553.9</Y座標></row>
<row _id="362"><名称>織部池跡碑(大萱3)</名称><説明>高さ1.34mの碑で｢織部池跡､昭和57年(1982)埋立､方積四拾二坪｣と刻まれています｡大萱3丁目20番街区にあります｡</説明><X座標>-741958.7861</X座標><Y座標>-11238462.11</Y座標></row>
<row _id="363"><名称>｢原爆被爆の石｣供養(石山内畑町)</名称><説明>広島県から譲り受けた被爆の石を岩間山(石山内畑町82)内に安置し､平和祈願のｼﾝﾎﾞﾙとして設置しました｡</説明><X座標>-1109566.19</X座標><Y座標>-11836890.92</Y座標></row>
<row _id="364"><名称>小野小町供養塔(小野)</名称><説明>小野神社(小野2021)境内にある小野小町の供養塔｡平安前期の女流歌人であり､小野篁の孫にあたります｡</説明><X座標>-730837.49</X座標><Y座標>-9393378.44</Y座標></row>
<row _id="365"><名称>小椋神社由緒碑(仰木4)</名称><説明>昭和28年5月に小椋神社(仰木4丁目38-55)に建立されました｡小椋神社の由緒を略述しています｡</説明><X座標>-1136015.104</X座標><Y座標>-9884249.709</Y座標></row>
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